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11/22
11月22日は友達の誕生日、そして大学の先輩の誕生日、それから成田凌の誕生日。僕の今までの人生に現れた主要な人物の誕生日は11月に密集しすぎている。仮に僕が凶悪な犯罪を犯したとして(そんなつもりはさらさら無い)、ニュース番組のインタビューを受けるのは全員11月生まれだったということにもなりかねない。
パスタを茹でてパンを焼く。そろそろガッツリ食う朝がないとマズいと思ったからだ。音楽は聴かない。イヤホンするのももどかしいからだ。7:30に起きたので今日は相当悪いこと以外は「とはいえ7:30に起きた」という合言葉ですべて落とし前をつけることが出来る。フリーパスだ。今日眠るときに見る夢は7:30に起きた者たちにのみ行くことを許された天国だったら良いなと思う。ウディ・アレンは「成功の80%はその場に現れること」と言っていたみたいで、一見するとこのクソジジイはまた実用性のないふざけた言葉遊びをしていやがるぜ、と一蹴してやりたくなるが、かなりいいことを言っている。でもあとの20%は何なんだろうか?運か?もしそうだとしたら、アラームもセットせずに眠ってしまって、次の日運良く起きてその場に現れた場合、それは100%の成功ということになり得るのだろうか?考え出すとキリがない。
今日のレッスンや伴奏合わせ、そして明日の昼から深夜にかけてのバイトのことを思って憂鬱な気分でネクタイを締める(私服なのでネクタイはしていない)。しかし天気は快晴。そのことは僕に一見何もかも上手くいっているかのようなイリュージョンをもたらす。晴れってヤツは全くファム・ファタール(魔性の女)だ。
電車に乗り、譜読みをする。眠い。4時間睡眠を一週間ばかり続けると酔っぱらい同然の脳になるらしいのでほんとに怖い。もういっそのこと、僕の睡眠の確保を巡って、2023年11月22日の朝をもって世界のクラシック音楽界がなくなってもいいとさえ思った。一つ残らず全部幻想かもしくは集団妄想なんだから。
古市、古市です、というアナウンスが流れたので楽譜を閉じてしばらく被害妄想癖のような悲しい目で周りを見渡し、3番目の車両の一番うしろの扉に近い扉はどこだ、とひとしきりビー玉みたいに車両内をコロコロする。
レッスン終了。もう2000文字の日記なんて書いてるのがバカバカしくなってくるくらい細かい指導を受け(いい意味だ)、小突き回され(いい意味だ)、しんどかった(いい意味だ)。でもレッスン中にもこれを日記に落とし込むことを考えていたので僕はやはり何かを書いていたほうがいいのだろう。
昼食を買いに近くのスーパーに入る。カップ麺の長い長い棚をひとしきり眺めたのち「もう君等には用はないな」と思う。でもそれじゃ寂しいので、かろうじてその中でも未練のある娘(どん兵衛)を買う(表現が悪すぎる)。それを大学の騒がしい学食で、いち早くここを出なければならない、とか考えながら急いで食って出る。この大学は時間が止まっているとしか思えない。第一ド田舎にあるし、市営バスはもうすぐなくなる。大学のバスは融通がきかない。帰りの最寄り駅では、三国志の話を熱弁している人さえいる。そしてそういう人の髪色は往々にして赤、緑、ピンクだ。
11/23
昼過ぎに起きる。僕の心の大先生(師匠、という言い方は好きではない。なぜならそれは多くの場合詐欺に使われるため)、チャールズ・ブコウスキーは「毎晩酔っ払ってることと、昼過ぎまで眠っていること許してくれる同居人であれば誰でもいい」的なことを書いていた。見た目は醜いが、心はいつまでも純粋無垢な少年、そんなところだ。僕もそうありたいと思っている。複雑でやたらテクニカルなレトリックもプロットも、はたまた鼻持ちならない衒学もすべて省いた上で、ただ起こったこと、それから感じたことを綺麗な言葉を用いて書いていく。素敵なことだ。僕は彼が文学を遍歴する話というのをあまり読んだことがない。「くそったれ!少年時代」では一箇所だけそういった内容の場面があったが、それも早めに切り上げられていた。彼の本を片っ端から読み漁っていくとひょっとすると何処かにガッツリ読書遍歴が書いてあるのかもしれないが、彼の素朴な文体と照らし合わせてみるに、例えばピンチョンのように百科事典的なおびただしい量を読んできたわけではないのだろうと思う。1時間に6000字を書くという森博嗣は「読まずに書け。そのうち自分のスタイルが出来上がってくるから」と言っていたらしく、もしかすると読んだ量と良いものが書けるかという事との間の相関は薄いのかもしれない。
14時からバイトなので、その前にマクドナルドで昼食を済ませることにする。注文を済ませて待っている間、Shpongleの「Divine Moments of Truth」を聴く。中盤にあの有名なボーカルが入ってくるところで毎回鳥肌が立つ。仮にあのボーカルを常に口ずさんでいる知り合いがいたらどうだろう、友達にはなりたくない。(笑)ビッグマックセットを食いながら「I Am You」も聴く。私はあなただ、という意味だが、自分と他者、もしくはそれ以外の物質との境界が曖昧になるといういかにも生成変化的な感覚は残念ながら僕は感じたことがない。もしかするとソウルバーのダンスフロアなんかで踊っていたらその感覚の入口みたいなものに足を踏み入れることが出来るのかもしれないが、更に残念なことに僕は歌も踊りも絶望的に下手くそだ。
バイト中、店内ではインストの「Last Christmas」が流れていて、それをなぞるように3人の白人が鼻歌の合唱をしていた。グローバルな光景だ。休憩中に狭すぎる従業員用のトイレで手を洗った後に鏡で自撮りをしていると、入口の扉が僕の右腕に激突して、ドアの隙間から顔をのぞかせたメガネをかけた若い男が謝ってきた。僕もそんなに気を悪くしたわけではなかったので、少し笑って、どうぞ、と言って出ていった。まるで沖田修一のB級邦画みたいな時間だった。僕はそういう時間がそれほど嫌いではないのだが、世の中にはそれに耐えられない人というのが人口の半分ほどいるので、なんだか残念だ。