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デイヴィッドリンチの映画を見るうえで大事なことは、字幕をしっかり読むことでも、あらすじや人物の相関図を自分の頭の中で組み立てていきながら見ることでもなく、見ながら時々後ろを振り向くこと、それから振り向いたときに髪の長い女が立っていても文句を言わないこと、この二つだ。僕は上述のごとく、時々後ろを振り向きながら「インランド・エンパイア」を見た。僕は以前から、髪の長い女のイメージが頭から離れない。その女は「やめてやめてやめてやめて」と言いながら僕に近づいてきて、僕がゴルフクラブか何かで殴り続けるのだが、その女の体はどうもスライムのようになっていて、殴っても殴ってもダメージを受けた様子はなく、記憶された元の形状に戻って、僕に近づいてくる。殴るのをやめて、逃げることもやめて、その女が僕に到達してもその女は僕の前で例のごとく「やめてやめてやめてやめて」と言い続けるだけで特に何もしてこない。この段階でコミカルに収斂させることもできるのだがそうはいかない。僕の夢は底が抜ける。僕はプライベートジェットとか車とか舟とかいろんな手段を使ってその女から距離をとろうとするのだが、その女は一般的な人間の歩く速度で24時間休みなく移動し続ける。その夢を以前2回ほど見たところで、その話を友達にして数日後、友達は電車に乗っていたら「やめてやめてやめてやめて」という声が聞こえた気がしたという話をしたので本当に怖くなった。リンチの映画は既存のパラダイムや感性では回収しきれない領域を描いているので(描いている、は適切じゃないかもしれない)、理解してやろうとか、これは何を意味しているんだろうとかそういう傲慢な態度で見てはいけない。ただ出来事だけがあって、というのはヌーヴェルヴァーグも同じだが、それでおしまい、ということだ。リンチの映画には度々、狭くて古臭くて、机が真ん中にあってそこにろうそくを一本立てただけの部屋のようなイメージが出てくるが、これは僕が大好物とするイメージだ。そこにはドアも窓もなくて、部屋の外というものがなくて、宇宙にはこの部屋しかない、みたいなイメージだ。嬉しいとか楽しいとか悲しいとかいう感情は、ギフテッドな感性をもって生まれてこなかった人のためにあらかじめ用意された型なので、メタフィクションには向かない。人々はだいたいにおいて、出来事を最後には喜怒哀楽に落とし込まなければならないという強迫観念に駆られているが、これは恥じた方がいい。「恥」というのもまた落とし込みではないかと言われればそうだが、恥は喜怒哀楽より高い次元への落とし込みなのでこれは仕方ない。僕は映画を見るときはついついほかのことを考えてしまうが(みんなそうかもしれない)、これはもちろん正しい見方ではない。でも正しい見方なんかしててたまるものか、というのも反抗的でいいかもしれない。作品にとって、作品が作品に収まってしまうことが名誉なのかもしくは不名誉なのか。ドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」は、インテリ連中には全然読まれなかった、むしろインテリとは真逆の、もうほとんどゴロツキのような人たちに読まれて、彼らの多くは「書いてあることがよーくわかった」と評価する傾向にあったらしいのだが、こういうのが作品にとって一番嬉しい形なのではないか。ドゥルーズのインタビュー集の「記号と事件」には「『アンチ・オイディプス』は読んでいて内容が面白いのではなく、イメージがすぐさま外へとつながっていくような本」みたいなことが書いてあって納得した。僕の今までの本の読み方があまりよくなかったのだ。ちなみに「記号と事件」で一番面白いと思った部分は「パラノイア万歳を叫んでもいい」というのと「知らないことをデタラメに語って何が悪い」という部分だ。やっぱり感情的なのが一番面白いかもしれない。一方で、「文学を真に終わらせるものがあるとすれば、政治的な虐殺だ」と書かれていて説得力があった。菊地成孔がDCPRGを結成した時は「起こってしまった以上は誰も彼もが強制的に参加させられる、戦争みたいな音楽が作りたい」というコンセプトだったとどこかで読んだ気がするし、PTアンダーソンの「マグノリア」では最後に空から大量のカエルが降ってきて無理矢理映画を終わらせるし、デイヴィッドリンチもあからさまに割れた音とかを使って下品に僕たちを驚かそうとしてくる。ドゥルーズの発言と今書いたこの三つはつながっている。やはり大きな出来事が起こったことで副次的に生まれてくるものは面白い。ただ「文学を終わらせる」という言い方は大げさかもしれない。山下澄人も「そうは言ったって突然戸は空きますよ」と書いていた。こういう良いことを言えるようになりたい。リンチの映画はひたすら長い。途中でスマホ開きそうになって辞めるを何回も繰り返す。そういう映画だ。でも長いのは幸せなことだ。