見出し画像

大䬁靠彁(おおいたか)

『もしも百年が この一瞬の間に経ったとしても

何の不思議もないだろう』


『雨が降つてゐる 雨が降つてゐる

雨が蕭々と降つてゐる』   三好達治「大阿蘇」



巨人を見たと言った時、誰も僕を信じてくれなかった。


いや、表向き信じている素振りを見せてはいるが内心「また、颯太のホラが始まった」と思っているのが僕には分かった。オオカミ少年を相手にした時の眉のひそめかたをしていたからだ。たしかにその頃の僕はおしゃべりで、頭の中にある出来事を嘘も真も一緒くたに話し、色んな人間を混乱させていた。当然親や小学校の先生からはいつも叱られていた。でも、仕方ない。子どもはカオスの中を生きているのだから。現実も虚構も一緒くた。頭の中も、頭の外も、現実であり虚構なのだ。だから、僕が見た巨人の存在も疑わしいと言われればそれまでだが、あの巨人は明らかに異質だった。幼少期の妄想で済ませられない生々しさ、物質感を感じた。


巨人を目撃したのは、学校の帰り道だった。

その時僕は終業式終わり、教科書でパンパンになったランドセルを背負い、その上からオレンジのカッパを着て、細雨の降る道をあれこれと妄想しながら歩いていた。


「水たまりの中には見えない魚がいて、それが跳ねるから水面はぴしゃぴしゃと音を立てるのだ」とか

「竹藪が時折チョンチョンと甲高い音を立てるのは、化け狸がいて竹を切っているからだ」とか

「あの遠くに見える人の顔みたいな山肌は天気の良い日にはパチパチと瞬きするのだ」とか

とにかく、気になるものが目に入るとそこから連想ゲームが始まって、様々な物語が雨後の筍のようにたくさん生まれた。僕はそんな無数の物語を両手にどっさりと抱えて辿る家路が大好きだった。今にして思えば、どんなに疲れていても足取り軽く帰宅できていたあの時間は、この上なく幸福な時間だったのかもしれない。何の不安も心に入り込むことなく、自由に想像の翼を広げられることが、今はどれだけ困難なことか!……話がずれた。巨人の話をしよう。


その時僕は遠くの山を眺めていた。

それは、地元の人間から北山と呼ばれている山だった。特別な由来はない。北にあるから北山。それだけ。それに北山は一つの山を言い表す呼称ではなく、北の方にある山々全体を指すものだった。なんともいい加減なネーミングの山々だが、富士山も北岳も実際にお目にかかったことのない幼少期の自分からすれば、名前がついているというだけで十分特別感があったし、町の北側に延々と続く巨大な山並みを見ているとなんだか、巨大な蛇が町全体を取り囲んで、通せんぼしているような気分になれて楽しかった。まるで神話の世界に迷い込んだみたいだった。


ズゴゴゴゴ

「なんだ! じしんか?」

大きな地ひびきがして、思わずさけんだ。

すると長ろうは首をふって

「ちがう! ふういんがとけたんじゃ!」

ととおくに見える山をゆびさした。

見ると、町をかこむようにそびえていた山がもぞもぞ動き出し、町のまわりをぐるぐると回りはじめた。

「ヲロチが目ざめたのじゃ……」

それはきょ大なヘビだった。

長ろうはきょうふにふるえていた。

ぼくは剣をヲロチにむかってかまえ、さけんだ。

「あん心しろ! ぼくがやっつけてやる!」

ぼくはヲロチにとつげきした。

すると、ヲロチもぼくに気ずいて大きな口をあけてせまってきた。木や家をなぎたおしながら、新かんせんみたいな早さでむかってくる。

「うおおおお!」

ぼくもおたけびを上げて向かっていく。ヲロチのせ中かきょ人があらわれる。剣をふりあげる。

「くらえ!ひっさつ! 



え? きょ人?



それを見た瞬間、全てが現実へと回帰した。

大蛇に怯えていた長老は霧散し、猛スピードで向かってきていた大蛇は動かざる山へと戻り、振り上げていた剣は、下校途中に拾った枝と化した。


それは妄想を軽く凌駕する、奇々怪々な姿をしていた。


それは雨で白んだ山合いから突如として現れた。


それは一見すると人間のように見えた。

だが、それは人間と言うにはあまりに大きすぎた。有に100m以上はある。そんな人間は──そんな生物はこの世に存在しない。たしかに、それのシルエットは人間によく似ていたし、二足歩行もしていた。だが、注視すると、それを構成する要素があまりに人間とかけ離れているのが分かった。まず、それの体は枯れ枝や骨のようなもので出来ていた。枯れ枝と骨が絡まり、繋がって、人型を成していた(我々の身体が筋繊維と骨によって形作られるように)。頭の形は円錐形だった。遠目だったので分からなかっただけだったのかもしれないが、その頭には目も鼻も口も見当たらなかった。とりあえず、頭らしきモノをつけてみただけに見えた。腕の長さも変だった。不可思議なほどに長い。膝下までだらんと垂れていた。その生物としてあまりにチグハグな姿を見て、僕は「とてつもなくでかい藁人形」そんな印象を受けた。


巨人は、霧雨降る山間をゆったりと歩いていた。海中を遊泳する鯨のような緩慢にして、雄大な動きだった。


僕はその姿に釘付けになってしまった。


恐怖はなかった。

ただ、感動していた。

一歩前へ足を踏み出す。

歩行に合わせて腕を降る。

ただそれだけの動作が、あまりに力強く、あまりにも圧倒的で、美しかった。

眼前の巨人の存在を感じることに夢中で、それ以外のことを考えたり、感じたりする余裕はなかった。


僕は巨人が山間を歩くのをじっと見つめ続けた。

そして巨人が山頂へ向かい、山向こうへと姿を消そうとした瞬間、そうまさにその瞬間だった。

巨人は立ち止まった。そして、ゆっくりとこちらを振り返った。


巨人はこちらを向いたまま、静止した。


──今、目があった


と、巨人の目がどこにあるかも分からないのに、そう思った。


恐怖はなかった。その代わり、沸騰しそうなほど僕は高揚していた。僕は感じていたのだ。巨人を──いや、彼女を。濃厚な彼女の存在を。まるで彼女の手のひらの中に包みこまれているみたいに、彼女を身近に感じた。彼女の湿った樹木のような肌触りも、抹香のような香りも、全て感じていた。


しばらくして、彼女は動き出し山向こうへと去っていった。


僕は彼女が去ってからも

しばらくその場に立ち尽くし、彼女の余韻を感じていた。


結局、家に帰ったのは完全に日が暮れてからだった。


あまりに帰りが遅くなったので、母からひどく心配されたが、僕は何も言わなかった。ただ曖昧に笑って見せる僕の姿に、母が戸惑っていたのを覚えている。


結局、その日は食事もとらずに部屋にこもり、眠った。ひどく寝苦しい夜だった。



朝起きると、夢精していたことに気づいた。

それが、僕の精通だった。



暗い部屋の片隅で一人の男が毛布を頭から被り、スマホを見つめている。スマホの画面の中では鯨を擬人化したVtuber、安飲喰イサナ(あんのんじきいさな)の配信が繰り広げられていた。


→(フトシ・タチカゼ)¥1000 そういえば、この間言ってた旅行はどこ行ってきたん?

「おお、スパチャありがと! フトシ・タチカゼ。相変わらず斬魄刀みたいな名前してるねぇ」

→斬魄刀www

→瞬殺されそう

「そうそう、こないだ言ってた旅行はねぇ、後輩ちゃんたちと熊本行ってきたんだよ」

→おごったんか?

「まぁね、可愛い後輩のためなら安いもんさね」

→さすイサ

→阿蘇山には行ったんか?

「『阿蘇山には行ったんか?』うん、行った行った!……やっぱすごいね、前回来たときより感動したよ」

「ほら、これ。そん時の写真。噴火すごいよねぇ」

→ すげぇ

→前にも行ったことあるんか?

「昔、社会人やってた時にね」

→深海からやってきたんじゃ……

→急にメタいのやめろ

「社員旅行で行ったんだけどね、まぁ……そのときゃあんま楽しくなかったかな」

「あんまいい職場じゃなかったし」

「周り、御局とかセクハラジジイばっかだったから」

→それはしんどいな

→イサ姉がしっかりしてんのは、社会人やってたからか

「でも、今回はちゃんと楽しかった」

→それはよかった

「後輩ちゃんたち、皆いい子だったしね!」

「……この事務所入って良かったなぁ」

→小声でそれはずるい

→(;_;)

→えかったなぁ

→イサ姉が幸せならOKです

「ホントにアタシは幸運だなって思うよ」

「配信で食ってけてるのもそうだけどさ」

「同僚がいい奴なのが、1番ラッキーだわ」

→いい奴の周りにはいい奴が集まる

「おいおい、褒めても何もでないぞ〜」

「……ま、結局社会に出たら1番大事なのは人だね」

「出会う人がいい人ばっかりなら、仕事きつくてもなんとかなる」

→それな

→ほんそれ

→わかるー

→ワイも毎日事務のお姉さんのご尊顔拝むため出勤してるまである

「それは、なんか違う気が」

「あ! そうそう社会人で思い出したんだけど──」


そこで颯太は動画を止めた。


──はいはい、なしなし、消しまして


そして唐突にブラウザバックすると、ホーム画面に戻り、別の配信をザッピングし始めた。画面をスクロールし続ける颯太。だが、いつまで経っても次の動画を開く気配がない。眉間にシワを寄せ、画面を上下にスライドし続ける、ただそれだけの動作が10分以上も続いたところで、屋外から車の走行音が聞こえてきた。

「ひっ!」

颯太は軽い悲鳴を上げ、毛布に包まるとベッドの隅へと──部屋の扉からなるべく遠い位置へと移動した。


車輪が庭の敷石を踏む音が聞こえる。そして、車のドアを開けるバタンという音がしたかと思うと、賑やかな話し声が二階まで響いてきた。


「──マジで来週期末とかだるいわー」と妹。

「ねぇちゃん、前回赤点だったもんね」と弟。

「はいはい、さっさと降りなさい」と母。


颯太はその3つの賑やかな声を聞くや否や先ほどよりもしっかりと毛布にくるまった。

玄関が開き、賑やかな声が先程よりもはっきり二階に響いてくる。そして、そのうちの一つ、母の声が次第に近づいてきて、颯太の部屋の前に来て止んだ。


ややあって

「そうちゃん、起きてる?」 

と、扉の向こうの母が尋ねてきた。

「……」

「……さっきスーパーで惣菜買ってきたんだけど食べる?」

「……」

「また夕飯時になったら部屋の前に置いとくね」

ベッドの片隅で固くなっていた颯太だったが

母のスリッパの音が遠ざかると、ようやく肩の力を抜いた。


※「ただいま」

「おかえりなさい」

「はぁ、今日も疲れたなぁ。いつまでも、俺に現場を任せるのは止めてほしいよ」

「大変だったわね」

「ああ、いい加減若手が育ってくれないと困る……颯太は部屋?」

「……ええ」

「そうか……」

「颯ちゃんには、颯ちゃんのペースがあるから」

「そう…だな。……あいつ、勉強は出来たのにな」

「ちょっと!」 

「…… すまん」



夕飯時、階下から楽しそうな、幸せそうな笑い声が聞こえてきて、聡太を削った。イヤホンを装着しても、漏れ聞こえてくる会話の中に「聡太」という名前が出てくるたび、颯太の肩はびくんと震えた。結局、その日は部屋の前まで運ばれてきた食事には一切手を付けずがたがた震えて眠った。



部屋から出られなくなって、もうそろそろ3年が経とうとしている。父親に半分ゴミ屋敷と化したアパートから引っ張り出された時に言われた。「何があった?」って。


それに対する僕の答えは「何も」だった。


特別な悲劇があった訳じゃない。

むしろ「何も」なかったから僕はこうなった。


「人生には悲劇が必要である。それすらない人間はゆっくりと死んでいくしかない」


これが何も実を結ばなかった大学時代に、僕が得た唯一の教訓である。生きていくには痛みが必要なのだ。




それは聡太が安飲喰イサナの配信を途中で見るのを止めた日の夜のことだった。


早めに床に就いた聡太だったが、その夜は階下から聞こえてきた父親の言葉がいつまでリフレインして全く眠れずにいた。仕方がないので、聡太はスマホでYouTubeを開き、ショート動画を延々と見続けていた。特に面白みもない低刺激のコンテンツたち。だが痛み止めにはなるので、聡太は重宝していた。画面をスワイプし続けている間は余計なことを考えずに済む。今の聡太は、空白を何より恐れていた。空白があると、何かを考えてしまう。考え始めると止まらなくなる。考え続けると、結局希死念慮へと行きつく。その繰り返し。だから、その日も動画をスワイプし続けることで精神の均衡を保っていたのだが……突然動画をスワイプ出来なくなってしまった。YouTubeの不具合だろうと考え、再起動を試みるが駄目だった。そもそもブラウザバックすることすら出来ない。スマホ本体の電源を落とそうとしても駄目。何度押しても電源ボタンは反応しない。画面は「䬁靠彁」という、意味のわからないタイトルの動画を流し続けていた。それはある雄大な山を遠くから映しただけの動画だった。ショート動画にしては長い1分半近くある動画だったが、あまりに変化に乏しいため一見するとただの画像にしか見えなかった。だが、よく見ると尾根の方で雲が動いていたり、麓の草原で馬が草を食んでいたりするのでかろうじて動画だと分かった。


聡太が、動画を視聴し始めてから50秒が経過した時だった。無味変哲な動画に大きな変化が訪れた。変化は山の中腹で起こった。何か巨大なものが山の中腹からのっそりと起き上がってきたのだ。聡太は息を飲んだ。見間違えようもない。彼女だった。巨大な背丈に、膝下まである長い腕、円錐形の頭。幼少期の聡太が見た時のままの姿──彼を魅了して止まなかった姿が画面の向こうに現れた。聡太は食い入るように画面を見つめた。雄大な彼女の一挙手一投足に目を奪われ、心を奪われた。しかし、彼女の出現から約40秒後、動画は終了した。そして普通なら終了と同時にループ再生に入るはずの動画は真っ暗な画面のまま静止し、やがて「このコンテンツは表示できません」という文字が浮かび上がってきた。颯太はしばらく呆然としていた。それから、一時間が経っても颯太はスマホの画面を見つめたまま、微動だにしなかった。だが、少しして、「うん……きっと、そうだ」と小さな掠れた声で呟いた。


その後、颯太はベッドから這い出てしばらく着ていなかったロングコートを羽織り、ポケットにサイフとスマホを入れた。そして、迷いのない足取りで扉へと近づくと彼はあまりにも呆気なく、ここが自分の棺桶と決めたはずの部屋から飛び出した。



イサナの配信を見ていて良かったと思った。

もしも、あの動画を見ていなかったら、僕はもう一度彼女に再会することは出来なかっただろう。

同じだったんだ。

彼女がいた山、あの山はイサナが配信で見せた旅行写真に写っていたものと全く同じだった。

彼女は阿蘇山にいた。



阿蘇山に着いたのは、次の日の午後だった。

天気はあいにくの雨。

だが、細雨は肌に心地よく、傘も合羽もいらないくらいだった。それに雨具を買う時間が惜しいという気持ちの方が強かったし、一刻も早く彼女に会いたかった。ただ、やっぱり雨の中彼女に会いに行くというのは素敵だなと思った。だって僕らが出会ったあの日もこんな柔らかな雨の降る日だったから。



しかし、逸る気持ちに反して彼女はなかなか見つからなかった。場所についてはおおよその検討はついていて、大体「中岳」の当たりだと分かっていたが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。目に入るのは放牧された馬ばかり。こちらの気持ちも知らず呑気に草を食んでいた。


結局、探せど探せど彼女は見つからなかった。


どの山の尾根にも彼女の姿はなく、時が経てば経つほど立ち上る噴煙と霧で山の様子も曖昧になっていった。


絶望のせいか、はたまた3年ぶりに体を動かしたためか、僕は膝から崩れ落ち立てなくなってしまった。そして、そのまま慟哭した。

嫌だったのだ。このまま彼女に出会えないのは。

僕は画面の向こうに彼女の姿を見つけた時、救われた気がした。彼女を見た瞬間、僕は彼女のことしか考えられなくなった。嫌なこと全部忘れた。頭からモノローグが消えたんだ。あれほど煩かった声が。本当の意味での「空白」が僕の心に生まれたんだ。


──僕は君に逢いたかった、誰にも犯せない空白を僕の中に生み出し続けてほしかった


と、その時遠くで轟音が聞こえた。

音がした方へ目を向けると大きなキノコのような噴煙が上がっているのが見えた。小規模な噴火が起こったようだった。噴煙は山の尾根をゆっくりと包み始めた。


「ああ、ああ!」


それはもう彼女の探索が不可能となったことへの悲鳴。



ではない。



歓喜の声だった。


彼女だった。山を覆う黒煙をかき分けるように彼女が姿を現した。

彼女は、あの日のように雄大な足取りで山を歩いていた。ところが、今日の彼女はあの日とは明らかに違うところがあった。15年前目にした彼女は山の山頂を目指し歩いていた。だが、目の前の彼女はその逆。麓に向かって、いや、僕に向かって歩いてきていた!


噴煙をかき分け、霧雨をかき分け

彼女は僕へ真っ直ぐ向かってくる。


彼女の姿がはっきりして来るに連れ、僕の体は震えていた。恐怖で、じゃない。悦びで! 喜びで! 歓びで! 


そして彼女が目と鼻の先まで迫った時

僕は人生でこれ以上ないというほど勃起していた。


彼女は、見上げれば首が痛くなるほど大きかった。しかし、そんな僕を気遣ってくれてか、彼女は僕の前で膝をついた。それでもやっぱり見上げると首が痛くなったが、僕には十分だった。これ以上彼女と近づきすぎたら、もうおかしくなりそうだった。


僕はただ、あの日のように、彼女と見つめ合っていたかった。


僕は彼女の顔を見上げた。


彼女と目が合う。円錐形の頭のちょうど真ん中に、きらりと宝石のようなものが光ったのが見えた。この距離まで近づいて初めて分かった。彼女は単眼だったのだ。吸い込まれそうなほど綺麗な瞳だった。夜の海のような、夜明け前の空のような。そんな瞳。


彼女は僕をじいっと見つめたまま、動かなかった。一本の巨木のようにじいっとしたまま、僕を見つめていた。彼女に見つめられた僕もまた足裏から地面に根がはったみたいに、動けなかった。いや、動きたくなくなっていた。


僕の足は自ら地面に根を張っていた。もうどこにも行きたくないと思った。ずっとずっとそこにいて、100年でも200年でも、彼女と見つめ合っていたかった。


『雨が降つてゐる 雨が降つてゐる

雨が蕭々と降つてゐる』 


穏やかな雨音が僕らを包みこんでいた。

静かだった。

まるで世界に僕と彼女しか存在しないみたいに。

その甘美な時間を僕は堪能していた。


が、それも潰えた。

静寂を破ったのは彼女だった。

彼女は突如踵を返し、霧の立ち込める山間へと入っていった。


「待って」と僕は言おうとした。

「行かないで、ずっとここにいて」とも。


だが、それも叶わなかった。

僕の喉はすでに朽ちていたから。

声を発しようとした途端、僕の喉仏は、朽木のようにぽろぽろと崩れ落ちた。喉仏だけじゃない。唇を動かそうとした途端、それは顎ごと崩れた。彼女に向かって伸ばした手も、指先から順に崩れ、僕だったものは風に吹かれ、阿蘇山に向かって舞い、消えた。


もう、彼女の姿はどこにもなかった。

彼女はすでに行き過ぎた。


山は噴煙をあげていた。その煙は空を覆う雨雲と、境もなく続いていた。僕は丘の真ん中に、草を一心に食む馬たちと一緒に静かに立っていた。僕は立っていた……

立ち続けていた………

立ち尽くしていた……………………



(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?