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作曲家 スヴィリードフとの出会い

今までの記事でもスヴィリードフについて時々書いてきた。


今回は、私がスヴィリードフに出会ったきっかけと、その後のいろいろを書く。

まず、私がスヴィリードフという作曲家の名前を知ったのは、2013年7月20日。

夫からのお土産にスヴィリードフのピアノ曲の楽譜があった。私が、ロシア音楽を好きなことを知っていた夫からのナイスなお土産だった。

スヴィリードフという作曲家はロシア国内では有名だが、外国ではほとんど知られていない作曲家。
1915年12月16日に生まれ、1998年1月6日に亡くなった。
楽譜を渡された私は当然知らなかった。

日本に帰国して、すぐにピアノで弾いてみた。
「なぜ?この和音?」と思うような不協和音が多く、気に入った曲は、数曲だった。
それでも、この気に入った曲を当時師事していたピアノの先生の発表会で弾きたいと思った。おそらく、日本初演になるだろう。しかし、ピアノの先生は、留学時に乗り継ぎでソビエト時代のモスクワの空港に降り立ったことがある。当時は、銃を持った人が立っていて、恐ろしいイメージしかなかったようだ。私がロシア連邦はそんなことはないと言っても、昔の印象が強烈のようだった。それでも、発表会で弾く許可をいただくことができ、練習を始めた。
レッスンで弾いても、先生もスヴィリードフの曲は初めてだし、私のロシア連邦のイメージもあるし、いろいろ思うことはあったが、何とか発表会で弾くことができた。
モスクワに住むことになるまで、翌年とその翌々年の発表会でも、別の曲を弾いた。

日本でスヴィリードフの文献を調べようと、国会図書館に行ってみた。それで出てきたのが、N先生の書いた文章だけだった。しかし、読んでみると、作曲家のことを書いたのではなく、息子さんのことを書いた記事だった。その時に、息子さんは日本に住んでいて、日本古典文学の研究者であることが分かった。国会図書館の音楽資料室でもレコードを探してみた。1枚出てきたが、マヤコフスキーの詩に音楽をつけたもので、いかにもソビエトといった感じのジャケットで、ものものしい音楽だった。

さらに、上野の文化会館の音楽資料室や東京芸術大学の図書館でも調べてみた。RILMを見てみたが、日本語での論文は1つも見つからなかった。ここにもレコードがあるから、聞いてみた。合唱曲のレコードがあり、美しい曲もあった。
ヤマハや山野楽器にいっても、スヴィリードフの楽譜を取り扱っていなくて、日本でスヴィリードフのことをたどるのは限界を感じた。

モスクワに住むまでは、夏と冬とロシア旅行に来ていたため、楽譜屋さんに寄った時は、楽譜屋さんでスヴィリードフの本を買うこともあった。

帰国後、買った本を読んでいると、日本人の名前を2人見つけた。N先生とI先生。
N先生は、国会図書館で見つけた記事を書いた人と同じだった。直接お会いしてお話をしたいと思い始めた。
たまたま渋谷ロゴスキーの入り口に置いてあったちらしにI先生のお名前があった。コンサートで司会をするようだ。この機会を逃さなかった私は、本を買ってきて1か月もしない2014年1月に、I先生にお会いすることができた。
I先生がおっしゃるには、作曲家のスヴィリードフさんに会ったことはなかったけれども、息子さんのスヴィリードフと交流があったようだ。「1997年12月に息子さんが京都で亡くなり、ご遺体がそろそろ届くかなあという、1998年1月6日に作曲家のスヴィリードフが亡くなった。」と話してくださった。さらに、「息子さんのスヴィリードフさんは、父親の音楽が日本で広がることを願っていた。」という話も聞くことができた。
この時に、やはり日本でスヴィリードフのピアノ曲を弾こうと思った。
そして、楽譜屋さんで見つけた分厚い本もいつか訳したいと思った。

I先生にお会いした翌年の2015年5月、ロシア文化フェスティバルのオープニングセレモニーでN先生にお会いすることができた。N先生も作曲家のお父さんに会ったことはなく、息子さんと交流があっただけだった。「スヴィリードフの音楽は自然の音がかなり入っているように感じる。」というお話を聞けた。

2015年5月下旬は、私が購入した本にも書かれていたフェドセーエフさんの来日コンサートがあった。
運よく、2回の公演を聴きに行くことができた。私が尊敬しているK先生から誘われ、一緒に行ったから、楽屋へ行きフェドセーエフさんとのお話を通訳していただけると思っていた。ところが、K先生は忙しくて楽屋へ行く時間がないということだっため、私の片言ロシア語で楽屋へ行くことにした。
もともと片言ロシア語で話すつもりであれば、事前に準備をしたのだが、通訳があると思っていたから、何も準備をしていなかった。楽屋までの道で必死に単語を思い出し、舞台袖へ。
舞台袖は、ロシア大使のアファナシエフさんも来ていて、賑わっている。ロシア大使とフェドセーエフさんの話は、いつ終わるか分からない。私も帰りの電車が気になるし、「すみません」とロシア語で割り込んだ。片言ロシア語で割り込んだのだが、ロシア大使からは、「どこで勉強したのか?」と質問された。とりあえず、フェドセーエフさんに、私はスヴィリードフが好きで、ピアノを弾いていることを伝え、お土産を渡した。ロシア大使ご夫妻とフェドセーエフさんのご夫妻がいたのが分かったから、「写真を撮りましょう」と言ってみた。すると、他のプレスの人たちは、ロシア語ができないから、もどかしい気持ちでいたのか、話し中だからと待っていたのか、私が段取りを組んだら、喜んで、その後、写真を撮っていた。私は、フェドセーエフさんと写真を撮りたかったから、恐れ多くもロシア大使にシャッターを押してもらって、写真を撮って頂いた。

それでも、片言ロシア語では、スヴィリードフに関して踏み込んだことはきけなかった。若干消化不良だったため、専属通訳者の手が空くのを待っていた。すると、フェドセーエフを追いかけて京都から来たというたかぴしゃな人が、「あんたはん、初めてでなぜここまで(舞台袖まで)こられました?」と言われた。私からすれば、初めてでも、舞台袖への行き方を知っていて、片言ロシア語があれば、簡単なことである。
そうしているうちに、専属通訳の方の手が空いたので、私が聞きたいことを通訳していただいた。フェドセーエフさんは、初めは、本に書いてあるようなよく知られていることしか話してくれなかったが、本で分かることではなく、交流していたからこそ分かることを教えてくださいとお願いしたら、話してくださった。

ここまでが、日本に住んでいた時のスヴィリードフとの出会い。
モスクワに住むようになってからのスヴィリードフの出会いについては別記事に書く。

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