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あの会話をきっかけに

2012年9月、横浜の朝日カルチャーセンターでチェーホフの講座があった。

その講座を知るまでチェーホフを読んだことがなかったが、講座を受講するなら、チェーホフの作品を読んでから参加したほうがいいだろうと思い、講座までに全集を読んでから参加しようと思った。しかし、3か月くらいで、読めたのは、500くらいの作品で、全集読破までは行かなかった。それでも、参加者の中でチェーホフの作品を一番読んでいた。

どうして、チェーホフの作品を読んだことがなかったのに、その講座に興味をもったか?

それは、講師がK先生だったから。

K先生に講座で会えると思い、それで参加した。申し込んだ時点では、チェーホフを読んだこともないし、好きとかでもなかった。それでも、作品を読んでいくうちにチェーホフが好きになり、今では、全集を読破し、ロシア文学の作家の中でチェーホフが一番好きとなった。

その講座終了後のお茶会の会話をきっかけに、奇跡的なことが起こった。

それを書こうと思う。


お茶会

お茶会は、K先生を囲んで6人くらいだったと思う。初めはチェーホフの話をしていたが、その後、ロシア連邦に関する他の話になっていった。

その時、K先生が今している仕事の話になったのだ。

「悪魔の飽食合唱団というのがあってね、その合唱団は日本全国を縦断演奏している。それで、来年は、ロシア公演が予定されていて、その準備をしているの。」とK先生が言い出したのだ。

その話を聞いて、私は「悪魔の飽食」って何?と思ったくらい、全く知らなかった。

さらに、話が続いて、

「森村誠一さんが書いた「悪魔の飽食」に池辺晋一郎さんが作曲をして合唱曲になったものがあるの。その曲を、来年の7月にモスクワ音楽院とペテルブルクで歌う予定があるのよ。」と。

私が知っているのは、

・サスペンスを書いている森村誠一さん。
・池辺晋一郎先生は、私の大学の時の先生の初めての教え子。だから、私は、池辺晋一郎先生と兄弟弟子になる。
・池辺晋一郎先生と言えば、大河ドラマ「元禄繚乱」の曲を作り、その時、私の母が案内した。
・モスクワ音楽院と言えば、チャイコフスキーコンクールが行われるところ。

「悪魔の飽食」は全く知らないけれども、何やらすごい話だと思った。

小学校、高校と合唱経験があり、大学も音楽専攻だから、歌うことに抵抗はない。そして、同い年の上原彩子さんが日本人として初めて、女性として初めてチャイコフスキーコンクールで優勝し、ピアノを弾いたあの舞台で歌いたいと思った。

そこから、私は、K先生に来年の日程を詳しくきいた。

出発日は、絶対に仕事を休めない日だが、1日遅れて出発しても、モスクワ音楽院の公演に間に合うことが分かった。

とりあえず、「悪魔の飽食」が何か分からないから、それをまず調べようと思って、その日のお茶会は終わった。

お茶会後

それで、横浜からの帰り道。銀座のヤマハに寄った。すぐに楽譜を見たいと思ったのだ。私が歌えるかどうかを知るために。

ヤマハに在庫があったから、すぐに楽譜を買って、家に着いたら、ピアノで一通り弾いてみた。

歌詞の内容はものすごく、音楽も重々しいものもある。

それでも、モスクワ音楽院で歌いたいと思い、池辺晋一郎先生にお手紙を書くことにした。母が案内したときに、名刺を頂いていて、私はいつも持ち歩いていたのだ。

お手紙を書いてから、数日後、返事が来た。そして、合唱団員ではないのだが、代表者にも池辺先生がお願いしてくださり、何とか歌えるようにしてくださった。

その後、代表者からは、練習用CDが送られてきて、通勤時間に聴いて、暗譜をした。

「悪魔の飽食」を知らないので、図書館でも本を借りて読んだ。

家で、個人練習をし、旅行会社に申し込みをした後、合同練習の案内が来て、その時に参加した。

いよいよロシアへ

合同練習から1か月後、1日遅れで成田からモスクワに向かった。1日遅れの人は7人しかいないから、添乗員はつかず、唯一ロシア渡航歴のあった私が皆さんを案内した。
といっても、それまでのロシア渡航はツアーで行っただけだから、添乗員なしの渡航は初めて。
しかも、行きだけとは言え、誰かを連れて行くというのも初めて。
空港について、初顔合わせだった。山口、広島、奈良からの人で、合同練習の時に奈良の人だけに会っていたが、他の人たちには会っていなかった。
空港でアンコール曲を聞かされた。「カチューシャ」だそうだ。1番と2番は日本語で、3番はロシア語で歌うということだった。ロシア語のカチューシャを知っているから、機内で日本語のカチューシャの歌詞を覚えた。

モスクワの空港でガイドさんが待っていてくれたから、ここでほっとし、200人以上の合唱団員や池辺先生に再会した。

モスクワ到着の翌日、モスクワ音楽院の公演。昼間のリハーサルの時間からテレビ局が来ていた。私にインタビューをしたいと言われ、インタビューを受けたが、それは、ニュースで流れなかったが、映像ではしっかり映った。会場には現在の夫も聴きにきてくれた。

モスクワ音楽院の大ホールの音響効果はものすごくよくて、気持ちよく歌えた。アンコールをロシア語で歌うときは、ステージの前に出てきていいと言われた。ほとんどの人がロシア語に自信がなく、遠慮しているから、私は、ステージの前に出て他の人が視界に入らないくらい前に行き、ソロで歌っているような感じで歌った。
このコンサートには、チェブラーシカをあのようなかわいい姿にデザインしたレオニード・シュワルツマンさん夫妻も聴きに来てくださり、終演後お話をすることもできた。一緒に写真を撮ったのだが、ロシア連邦のカメラマンが撮ってくれて、その後、その写真は手に入らなかった。

モスクワ公演の翌日、ペテルブルクへ移動し、ペテルブルクのア・カペラホールでも歌った。この時は、ソクーロフ監督と一緒に舞台を作り上げた。


2012年9月12日のあのお茶会の会話がきっかけで、ロシア連邦で歌うという二度とない奇跡が起こった。

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