濁流が溢れるとき
ウクライナへのロシア侵攻について、報道され、SNSでも発言が続いています。
戦争は悪であり、それを引き起こしたロシアも当然悪である。
従って制裁を受けるのは、当然であるという論調が主です。
特にSNSは匿名発言なので、正悪をはっきりさせた論調となりがちです。
何故、正なのか。
いや、それは、悪があるから。
では、何故悪なのか。
悪である理由は、雨後の筍。
しかし、もっと考えなければいけないのは、「何故」悪になったのかです。
”清濁併せ吞む”という言葉があります。
清流も濁流も分け隔てなく受け入れる大海の様子から、「器や度量の大きいこと」のたとえとして使われます。
しかし、大海も濁流を受け入れ続けると、濁流れが溢れ、大海そのものも濁海となってしまいます。
何故、濁流となったのか。
どうすれば、清流に変わるのか。
これを考えることで、大海は大海であり続けると思うのです。
大海、即ち器の大きい大国は、濁流を受け入れることが今までは、可能でした。
しかし、現代は、大海が大海でいられなくなっています。
ほんの少しの濁流でさえ、受け入れられなくなっている。
これは、第二次世界大戦開戦時に似ています。
英米という大国が、国内の事情や弱体化状況で、ドイツ・日本という濁流を受け入れるほどの余裕がなくなった。
何故、濁流となったのか、根本的原因を見つけようとはしなかった。
単に、濁流が悪い。
だから、濁流をなくせ!と、世界大戦へとむかっていった。
様々な開戦理由が考えられていますが、これも一つの理由ではないかと思っています。
大海を更に大きくする一方で、濁流の発生を減らすことを考えなければいけません。
何故濁流が発生したのか、どうすれば清流に変わるのか。
窮鼠猫を噛む例えもあるように、悪だと言い続けるのは危険であり、最終手段として、大量の猫を投入しかねません。
その前に、何故、鼠が噛むのかを、猫は考えるべきではないかと、思う次第です。
理由がわかれば、もっと前向きで具体的な解決方法が見つかる、
いや、見つけなければいけないのではないでしょうか。