みんななんでそんなに怒っているのだろう。
みんななんでそんなに怒っているのだろう。
そう思ったのは最近のことだ。ニュースや、ツイッター、毎日誰かが別の誰かのアラを探している。
何かにつけて怒りをぶつけている。
おかしい気がする。
みんなただつぶやいているだけなのに、それを拾い上げて、みんなに攻撃対象として広めて。
なんだか悲しい。
怒りとはなんなのだろう。
たった20数年間の僕の人生を振り返ってみると、怒って何かが正しく伝わったことはなかったと思う。
怒りが機能していたのは、幼い頃だけだった。
あの時、怒りが機能していたのにはいくつか理由があるのではないかと思う。
一つは、向けられた敵意に対する耐性を持ち合わせていなかったこと。
怒りというのは、愛情の裏返しだとかなんだとかいう人もいるかもしれないが、
受け取り手側からすると敵意に近い。少なくとも僕はそう感じる。
幼い頃というものは、まだ精神的に未発達で、
向けられた敵意に対して立ち向かったり躱したりするすべを知らない時期だ。
であれば、それを素直に受け取るしかない。
また、自分が怒ったところで何一つ変わらないということもわかっていたため、涙を流すほかなかったのだ。
だから怒りは機能した。
そして、その怒りを元に僕は怒られないようにするためのすべを学んでいった。
これをすると怒られない。
こういうことをしてしまうと怒られる。
そうやって自分の中の判断軸が形成されていったのかもしれない。
上下関係が明白で、両者ともにそれを理解していた際、怒りは一種の教育として成り立つのだ。
学校の先生と、児童や生徒の関係はそれと同様のものであると考えられる。
部活の先輩や後輩もそうだ。
また、社会人においても、上司と部下はその関係にあたる。
いわば教育的指導なのだ。
果たしてそれが教育的指導として適切かどうかは、この場ではおいておくとするが、
だとすると怒りというものは、上下関係における上のものが、下のものを従わせるための手段の一つだとも考えられる。
この考えにたつと、上の立場が下の立場の者の命を守るために怒る、というのは極めて健全だ。
そもそも怒りとはなんなのか。
どこかの何かの記事で、「怒りというのは二次感情である」という話を目にしたことがある。
確かその記事によると、寂しさや、悲しみや、悔しさなど、別の感情が怒りの基となってはたらいている。
というようなことが書いてあった気がする。(気になる人は、ググってみてください。)
僕はこの主張が正しいと思うのだが、本当に正しいとするのであれば、怒りはやはり手段でしかない。
自分の感情を相手に伝えるための手段のうちの一つでしかないのだ。
相手に愛しているという感情を伝えるために抱きしめる。
相手にありがたいということを伝えるためにお礼を言う。
それらと全く変わらない。
怒りの元になる感情を伝える手段として、怒るという行動を選択していることになる。
無意識的にそれ選択しているのかはわからないが。
・怒りが機能するのは、両者の共通認識として上下関係が成り立っている時だけである。
・怒りというのは、別の感情を伝えるための手段でしかない。
今世間で様々なことに首を突っ込んで怒っている人たちに、想いを馳せてみよう。
彼らはきっと、何か別の感情を伝えたくて怒っている。
ファンが悲しむという表現を目にするが、悲しみを伝えるために怒るなどはまさにそれだ。
そして、彼らと怒りが向けられる人との間には、上下関係が成り立っていることはまずない。
機能するわけなんてないのに怒りが蔓延しているこの状況を見ると、
今の世の中の怒りというのは感情を伝える手段の欠如によるものなのかもしれない。
怒りを選択するのは簡単だ。おそらく誰もが一度は経験しているから、なんとなくそのやり方がわかる。
マウントを取ったり、相手が反論できないようにまくし立てたり、論点をすり替えたり、そんな具合だろうか。
これは僕の仮説なのだが、SNS上で怒りをぶつけるという行為においては、一人で勝手に怒っていても満たされない。
感情が伝わった実感は得られないからだ。
ただ、目立つところに対する怒りの場合、その意見に対する賛同者がきっと現れる。
より過激な発言をする人も現れるかもしれない。
怒りの声が集まると、炎上しているなどと、マスメディアやネットニュースが取り上げる。
場合によっては謝罪会見などが開かれることもある。
怒りに近い意見をぶつけられた人々は、自身のつぶやきや、行動が間違っていたことを謝罪する。
削除するかもしれない。
その行動は怒った側からすると、自分の感情が伝わったという勘違いにつながる。
この勘違いが起きると、この方法で伝えれば自分の感情は伝わるのだという成功体験を生み、また勘違いを生む。
そして別の何かを見つけた時、また同様の行動を起こしてしまう。
自分が著名人や他人を動かしたという勘違いは、自分が偉くなったような勘違いを生み出し、
上下関係における上の立場に自分がいるのではないかという勘違いを生みだす。
勘違いの連鎖だ。
こうして怒りは蔓延していくのではないか。
最近のSNS上の怒りのパターンとして上記の例は存在しているのではないかと僕は思う。
では、この勘違いや怒りの連鎖はどう止められるのだろうか。
正直なところ無理だと思う。
日本全国各地で、怒っている人々に対して、
何かを説いたところでそれは怒りの的になるだけだ。
僕にできることは、せめてこれを読んでくれているあなたが、
怒りをSNS上で他人にぶつけずにいられるようになるための何かを探すことくらいだ。
怒らなくて済むようになる方法はいくつかあると思う。
一つ目は、
趣味を見つけること。
没頭できる趣味があれば怒っている時間すら勿体無く感じる。
これは実体験だけれども、そんな簡単なことではないというのもわかっている。よく自己啓発本に書いてありそうな解決策だ。
無視してくれればいい。
二つ目は、
愚痴れる友達を見つけること。
近くにいる人に対する怒りは、元の感情の部分を本人に伝えるべきだとは思うが、
遠くにいる人や、全く顔も見たことがない人に対する怒りは、わざわざ本人にぶつける必要はない。
面倒になるだけだし、心が疲れるだけだ。SNS上でもリアルでも構わない、愚痴れる友達がいると、わざわざ怒りを公言しなくて済む気がする。
でも、そんなの探すのは面倒だし、愚痴を言い合うだけの関係を、友達と言えるのかはわからない。
三つ目
悟りを開く。
感謝と喜びに心が満たされるらしい。
やったことないのでわからないが。
多分きっと他にも方法はあると思う。みんなそれぞれ頑張って、勝手に探してくれ。
急に投げやりになった僕に怒りたくなっているならそれは間違いだ。
僕にあなたの怒りを抑える方法を見つける義務はない。
ちなみに僕は趣味で怒りの元を絶った。
ここまで、怒らないことは素晴らしい。怒ることは悪である。的な立場から意見を述べてきたわけであるが、
怒らないことが重要なのではないことをここで改めていっておかなければならない。
怒りが機能するかどうかという話、怒らないためにどんなことをすればいいかという話をしたものの、
人には怒らないといけない時が存在するというのもまた事実だとも思う。
仲間の夢を笑われた時、
自分の夢を笑われた時、
自分の尊厳を侮辱された時。
もちろんこれも人それぞれだとは思うが、
何かを守るための怒りはあるべきものだとも思う。
怒らなければならない時が必ず人生にある。
そんな時はしっかり怒っていい。
守るべきもののために怒れる人のことを僕は少し羨ましく思う。
しかしそれ以外の時、ただイライラしてしまう時など、怒らなくてもいい時の方が人生の中にはきっと多い。
そんな時は怒らずとも自分の意思を行動で示す。というのが重要なのではないかと思う。
自分自身も怒るという行為が苦手でずっと逃げてきてはいたものの、ここだけは譲れないというところで、
抗議をしたり、行動で表したり、冷静に伝えたり、守るための行動は示してきた。つもりだ。
最初にもいったことではあるが、怒りというのはあくまで手段だ。
怒る以外の方法で、守るべきものを守れるようになれると、案外自分が楽になれたりするのかもしれないなと思う。
伝え方が9割なんてよく言ったものだ。
感情を、意思を伝える方法のストックをたくさん持っておきたい。
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