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タイトル②

サンダルを履きながら足下に拡がるヘドロを掻き分ける。幾度と無く同じ場所を周回しながら二年分の蓄積を保った其れは、確かに中三時に行った熊本の海の匂いがした。きっと熊本で無くても通用する香りなのかもしれないけど。

嫌いな人の写真は撮らない。ファインダーに写った人々と、例えどれだけ関係が悪くなって行ったとしても映る像に変わりは無いし、消さずに取っておいている。ただ、表に出せないということだけが悲しい。撮ることもまた取っておくことも、詰まるところエゴなのであるし。良い意味でも悪い意味でも、写真は嘘を付かない。

時が経っても忘れない、などと人は簡単に言うけど、結構忘れる。忘れている。嘘は無いから、と言われるし言うけど、根深く残るのは嘘ばかりだ。相手にその思いが無くとも、受け取る側にとっては全てが嘘として残る。だと思う。長期の蓄積がどれほど根強いものであれども、現在という一点にのみ拘束されるから、無論全て信用に置けなくなる。一部を美談として残して、汚い部分だけ剥離させて考えるのは綺麗事だし、ミニマリズム人間は綺麗事だから嫌いだ。
今が最悪でもあの頃は良かったから、みたいな解釈が出来るなら苦労はしないし、そんなの非生産的だし。今が最悪なら総評は最悪にまとめられる。良い思い出も、曲解していく。つくづく生きることは面倒だと思う。

しかし惰性で暮らし続けて生き続けることもそれはそれで退屈だし苦痛なので、これくらいのことがあるならご愛嬌でしょう。クソ嫌だけど、ずっと幸せでもそれが普通だと感じればマンネリ化は必須だし、清濁併せ呑まねばならないのは常、当たりばかりのクジは馬鹿みたいに詰まらないから、皆外れる気持ちあって夏祭りのクジを引いたりするのだ。そうして、ちゃちな水鉄砲とか貰うわけ。壊れやすくて出費分に見合わないほどに脆い。
残るモノより経過時間の間に何をしたかとか、何を考えたかとかの方が価値が高いから、ちゃちでも全然イイ

ずっと待つ、とか決めたモノ、何一つ待ったことは無かった。今も変わらない。何せ私はモバイルゲームの初期ダウンロード時間が長いと気怠いと感じて消してしまう人間なので、長考と待ちが圧倒的に向いてない。

幸せなんて派遣労働くらい短絡的なモノと捉えていた方が気が楽だ。ひと月に渡る無賃労働で得たモノよりそっちの方が割合大きかった。

汚いプールに溜まった水を汚れながら駆け巡った時、色々な感情がごちゃごちゃになった。あちらは冷たくて、こちらは温かい。感情とかでなくてプールの水の話をしてるんだけど。

それにしても、排水溝に流されて行った数百のトンボのヤゴ、どこ行くんだろうな。死んじゃうんだろうな〜。

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