無題 / 創作
昼下がりの一景、夏休みを来週に控えたクラスの中にばらけた、落ち着かない空気が立ち込める。
首の回りが相当悪くなった扇風機は、キシキシと音を立てながら教室をぐるり見渡す。
" 夢を語れ "などと言われても、周りのヤツが書く内容など分かりきったものである。特に横の席の真面目君がスペースの多い紙面に「弁護士」とでかでかと書いてあるのを見た時は身の毛もよだつ思いだった。
黒板には、担任教師によってかかれた、「夢」という文字が少しだけ斜めに傾いている。「進路指導なんていうお堅い箱庭で考えて欲しくないから、先ず自分自身の夢を決めよう。」なんて言うことかららしい。誇らしげにそんなことを嘯く担任。一息に末尾まで軽やかに語るその様よ、どれだけ練習してきたんだろう。ドラマの見すぎだ。
転勤してきてから早々私のクラスを受け持った担任は、新学期が始まるなりクラス目標を発表するとか言って、後ろの石膏ボードに直筆で書かれた模造紙を貼った。
「一人はみんなのために、みんなは一人のために。」
サイアクだ。とその瞬間に思った。
私のクラスに居る人間は、生真面目に夢を語る人間と、起きていながらも夢を見ているかのようにちゃらちゃらと生きている人間の二極で構成されているわけだから、あんたの思うような世界観は築けない。残念だね。
夢なんて考えるのも馬鹿らしかった。
漢字一文字、平仮名数文字、プリントの真ん中に見えるか見えないかくらいの小さな字を幾つか書いた。人に見られると面倒なので、即座に翻して窓の外を眺める。
二階の窓から見える、錆び付いた鉄棒。人気も無くなったグラウンドで、放課後にぶら下がるのが好きだった。今となってはやらないけど。
鉄棒の麓に、小さく蠢くものを発見する。
猫だ。
どうやって採ったのだろうか、まだ息絶えていない鳩を咥え直しつつ貪っていた。今にも首が千切れそうな鳩。虚ろな目など当然見えるわけなどないが、羽のバタつきからその苦悶などがよく分かる。
首を掻き切った猫は満足そうに、鳩の腹部を喰らい始める。散らばった小羽が、風に乗ってグラウンドに舞った。綺麗だと思った。
蝉が鳴いている。蝉の騒めきと、グラウンドに舞う羽を見て、散った記憶が浮遊している。
部活の練習試合が終わったある夏の日、あれは昨年の7月だったかと思う。最寄り駅に向かおうと電車を待っていた。友人と、シーブリーズの蓋を交換した。流行りで無意味だと思っていた行為が、なんだか悪くなかったと思う。
アナウンスが流れ、一斉に乗客は線の内側へと下がる。陽炎がゆらゆらと流れるのを掻き分けるように、鉄が空を切って流れてきた。首元に振り掛けた制汗剤の匂いが、空間を包む。
目の前に立った小柄なサラリーマン。歳の割に頭皮が見えるほどに髪は薄い。
電車が来るなりビジネスバッグの中を検め、中から一枚の封書を出した。なにか書いてある。なんだろう。そう目を凝らしていると、フレアの隙間から、封書に書き付けてある二文字が見えたのだ。
「遺書」
ホームに電車が侵入してくる。止める間もなく、彼は目の前で腕を広げて消えた。
鈍い音をスターターピストルとして、スプラッター映画さながら、彼は電車に轢かれた。どの部分かも分からないような血と肉片がそこかしこに飛び散る。
よく人体は豆腐くらいの柔さ、というけれど本当にその通りで、目の前で腕と脚がもげるのが見えた。爪先の所へ転がってきた肉片は顎の部分なのだろうか、てろてろとした皮下脂肪の脇に歯のようなものが見える。
瞬き程の間に引き起こされた惨状を見て、周囲に突っ立っていた乗客は何語か分からない語を叫ぶ。中にはスマホを向け始めるものが居る。友人は目を覆い、足元に蹲った。
頬に、鮮血が飛んだ。だらりと垂れる汗と同じ位の速度で、飛び付いたばかりの鮮血が下へ下へと流れ落ちる。
地面に置かれた、遺書と、ビジネスバッグ。遺書の二文字が凄く綺麗な筆致であった。離れようと顔をぐしゃぐしゃにして慟哭する友人が引っ張るのにも動じず、私は動かなかった。動けなかったのではなく、動かなかったのだ。
先程まで普通に呼吸をしていた人間が潰える模様を目撃したことがリリカルに思えて堪らなかった。
ほとぼりが冷めるまで、友人と共に駅構内の控え室で時を過ごした。警察に何かを聞かれた。泣きじゃくる友人に何かを言われた。多分、駅員に労われた。しかしながら内容に於いては一ミリたりとも覚えていない。
視覚と聴覚にザッピングしてくる、ホーム上の一場面だけが瞬いていた。鈍色の衝突音、ドップラー効果を残して宙を舞うブレーキ音。酸っぱい様な響きを残す血腥い臭気、遊体をバラバラと撥ね付ける鶯色の車体、迸る血と、肉。
夢なんて考えるのも、馬鹿らしかった。
だから私は彼の死ぬ模様をもう一度ザッピングさせつつ、紙面に小さく 「風になりたい」と書いた。意味など、ある訳もなく。
放課後、担任からの呼び出しなぞ無視をして足早に学校を出た。
ポケットを弄る。鉄にはねられたサラリーマンのポケットから零れた煙草を、私は無意識的に拾っていたらしい。何故かと言われると返答に困るが、それを御守りのように大事に持っていた。祖母の家の仏壇からくすねてきた百円ライターも。
15歳と1ヶ月、つまらない景色、人目も気にせず煙草に火をつけた。三度咳き込む。四度目ほどで、吸い慣れる感覚。
外装のフィルムにこびり付いた乾いた血痕。爪の先で擦ると、薄いシート状になってひらひらとアスファルトの海へと消えた。気の所為だろうか、ほんの少しだけ煙草のフィルターから生臭い香りがする。脇道に腰掛けていた老爺が、こちらを明らかに訝しげな目で見つめている。
遺書など、読んでおけばよかったであろうか。
紅色に照り着いた遺書の中身が今になって気になる。
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