『春江水暖』を観て、思ったこと。
『春江水暖』という映画を観た。
この映画を知ったのは、去年の8月だった。地元である杭州近くの富陽という町が舞台となっている映画で、これは観なければならないものだと思った。
故郷を離れて異国で暮らす9年目の春、映画館で『春江水暖』を観た。
しかしそれは感動とか郷愁とかを遥かに超えた、言いようのないやるせなさに襲われる体験だった。
富陽、という町
舞台は大河・富春江が流れる町、富陽。この富春江というのは、実は杭州市の南に流れる、旧暦8月18日の大逆流で有名な銭塘江の上流だった。つまり、富春江と銭塘江はまさに同じ川で、富春江の民と同じ水を飲んでいる銭塘江の民ならば、富春江という名前に馴染みがあるのも当然であろう。そして、杭州市都市計画の一環として、2015年、富陽が「杭州市富陽区」となった。
しかしながら、わたしはそれ以上に富陽という町について知らないのかもしれない。杭州っ子にとって富陽は近くて遠い町。仕事上の関わりもなく、人間関係の縁もないから、なんとなく近くに存在している、日帰り旅行で行ける(けど行こうと思ったことはない)町だというくらいの認識だったのではないか。
しかし富陽(を含めて浙江省各地)の人はそれ以上に杭州へ行く。進学の時に行く。大病にかかる時に行く。観光も行く。杭州はそういう「客」を受け入れるのにとっくに慣れている町だった。
映画の中では「近々杭州へ地下鉄直通」(2020年12月30日開通)という出来事が何度か提示され、あるシーンで、そのニュースの流れるテレビが映り、インタビューを受ける富陽市民が嬉々として「(買い物とかで)杭州へ行くのに便利になる!」と語る。一方で、「休日の観光に来た」と語る杭州市民も映っており、対称なように見えて非対称性が潜んでいる構図だった。
杭州への距離
たしかに、今は昔に比べてだいぶ便利になった。思い出すのは、映画の中でも名前が言及される郁達夫(1896-1945)の自伝で語るものであった。郁達夫は1911年、杭州府中学堂(わたしの高校の前身)を受験するため杭州へ赴くが、出発の際にまず祖先の位牌に線香をあげ、ひざまずいて拝礼するという儀礼を経なければならない、というのだった。郁達夫が言うには、「那时候到杭州去一趟,乡下人叫做充军,以为杭州是和新疆伊犁一样的远,非犯下流罪,是可以不去的极边」(当時、杭州へ行くということを、田舎〔=富陽〕の人々は「)(《远一程,再远一程!——自传之五》)
郁達夫はナチュラルにも故郷の人たちを「乡下人」(田舎者)と呼ぶ。これは、実際杭州周辺の町の人々が杭州で呼ばれる名だと思う。呼びかけへの応答としての「名乗ること」。
我らプライドの高い杭州人は、いつも杭州を田舎扱いする上海人を冷笑するが、富陽のような周辺の町の人々もまた、杭州人の日常の絵巻で「田舎者」の役割を演じてくれているのではないか。それが西湖の景色に興奮する姿であったり、慣れない街並みで道を訪ねる姿であったり、あらゆる場所で働く姿である。我々は、ことばを聞いたとたんに分かるのだ。ことばがはるかに違う「よそ者」とは別の、ことばの近い「田舎者」という枠がある。
ことばにあるもの
杭州市の中心部はひとつの言語島だと言われている。杭州の方言は、呉方言の中でも官話系に近い特徴を有するものとして知られている。(たとえば、二人称は紹興や上海の「侬(nong)」ではなく北京語と同じ「你(ni)」を使い、三人称も紹興や上海の「伊(yi)」ではなく北京語と同じ「他(ta)」を使う。紹興や上海では「二」を「ni」と発音するが、杭州の方言では北京語と同じ「er」(ただし、声調は違う)で発音する。)宋の遷都とともに流入した北方移民の影響だというのが通常の説である。実際、隣接地域と通じることばも多いが、やや特別なのは事実なのかもしれない。そう言いながらわたしは実は映画の中のグーシーたちと同じく、「方言を話せない/話さない」世代の一人であるが、杭州の方言なら聞き取りだけは90%できると思う。(祖母の話す上海語なら75%聞き取れるのかもしれない。)だが、映画の中の富陽の方言は、早口の時だと50%も分からなかった。方言と普通話(共通語)の間に位置するような話し方だと、わりと分かりやすかったのだけれど。
映画のセリフを聞きながら思った。純粋な方言でなくても、「杭州の人の話し方」と「周辺地域の人たちの話し方」を聞き分ける耳は、わたしは持っていた。そして、それが田舎のことばだという感覚はいつの間にか育まれていた。
それゆえ、映画の中の人の話し方は、わたしにとって故郷を思い起こす親近感を与えるものでありながら、「故郷」が喚起される時点で彼らを「杭州周辺の田舎者」と思う感覚も喚起されなければならない。それが切なかった。
方言を話せないことがわたしのコンプレックスではあったが、話せないということには、方言対共通語、という二項対立の図式で語りきれないものがある。方言を話すという行為は、方言の中の序列を再生産せざるをえないものだと何となく意識し、葛藤していたのではないかと今になって思う。それならいっそみんな普通話で話した方が公平で平等なのかもしれない、とまでははっきり意識していなかったとしても。
わたしはかつて、方言が話せないというコンプレックスをある友人に打ち明けたことがあった。彼は杭州市周辺の小さい町(20年前から杭州市の一部になっていたが)の生まれ育ちで、わたしと同じく方言が話せない人だった。驚いたことに、彼はわたしとは真っ逆で、方言を話すという行為が「土 tǔ」(ダサい)ことだという感覚を持っていると言ったのだった。彼の親や親戚は普段その土地の方言(杭州のことばに近いが微妙に違うもの)を話すが、杭州の市街地に行くと杭州の人っぽく話すようになると言ったのも印象深かった。今こうして考えてみると、もしかしたら、わたしたちは普通話を(それも、母語として)共有しているからこそ、ことばの差異を意識せずに平等でいられるのかもしれない。
絵巻の世界
中国社会は確実に変わりつつある。杭州も変わりつつある。今はもう郁達夫の時代ではないし、わたしの感覚も何年も前から止まったままのものなのかもしれない。交通手段がますます発達し、人口の流動がますます激しくなっている今、人々のアイデンティティがどのように変化していくか、遠く離れたわたしにはその答えを見出すことができない。
映画の話に戻ろう。富陽という町の人々。杭州の街に行くと杭州人の日常絵巻で「田舎者」の役割を演じる人々。彼らにも彼らの日常絵巻がある。彼らは彼らの日常を、彼らの生を生きている。映画を観てそう思ったのだ。当たり前なことだが、杭州人のわたしにとってほとんど無関心なことだった。杭州人にとって、ふだん彼らは杭州の街を構成する背景にすぎないからだ。その発見は、わたしにとってまったく予期せぬことであり、スクリーンの中の、ゆったりと流れる大河を眺めながらやるせない気持ちになった。
高い山や大きな川。その間にぽつんと描かれる人々。それが中国伝統の山水絵巻の世界。そのぽつんとした人々の、渺小(びょうしょう)でありながらそれぞれひとつの宇宙として存在することを描いて見せたのが、『春江水暖』という映画ではないか。
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