『ザ・ベストテン』1980年12月25日放送分の田原俊彦と松田聖子

TBSチャンネル『ザ・ベストテン』、マニアックな見どころ。

TBSチャンネルで放送を開始した『ザ・ベストテン』、その一回目に選ばれたのは、1978年1月19日放送分の記念すべき番組初回とかではなく、1980年12月25日放送分。80年代を代表するアイドル、マッチこと近藤真彦の初出演回でもある。番組本編に付随して新規撮影の番組『ザ・ベストテン 特別対談 黒柳徹子×近藤真彦』も作られて一緒に放送されていることから、この日の放送分が一回目に選ばれたのであろう。

TBSチャンネル公式『ザ・ベストテン』特設ページ

さて、この日の番組、マッチ以外にも80年代を代表するアイドル(それも新人時代!)が幾人も登場している。発熱による体調不良でスタジオには来られず、電話出演&VTRでの歌唱のみだった三原順子(現・三原じゅん子)のほか、田原俊彦と松田聖子も出演。

この出演の二週間ほど前に歌手デビューしたマッチに先駆けて4月に歌手デビューした松田聖子と6月に歌手デビューした田原俊彦。すでに二人は番組の常連となっていて、ランキングされた曲は何週にも渡って第1位も獲得するなどして熱狂的な人気は起こっていた。

ただ、マッチが初出演回にして当時番組史上新記録である、二十人抜きの前週第23位からイキナリの第3位という鮮烈なものに対して、田原俊彦は10月からランキングされていた2曲目のシングル「ハッとして!Good」が前週第5位から5ランクダウンの第10位で、しかもその曲では最後の出演でもあり、だからというか…、出演に気合というか、あまり感慨がないようにも…(笑)。

松田聖子もじつにあっさりとしたもの。12月25日放送で番組はクリスマス・ムードなのに、ランキングしている曲名は「風は秋色」と季節はずれもいいところ。裏を返せば、それだけロングセラーであったことの証左なのだけど、第2位ながら田原の「ハッとして!Good」同様にその曲の流行りもピークは越していて、翌週の元日による番組休止回を挟んでの次回は第8位と大幅にランクダウンし、次々回の第10位がその曲での最後の出演となる。

二人の気持ちはすでに6日後の大晦日へ

二人とも、翌月1981年1月には次作のシングル発売が予定されていて、翌年に放送するテレビ番組の収録などではもう歌い出していたし、それ以上に心の内を占めていたことは6日後に迫った大晦日のことであろう。賞レースの真打ち、日本レコード大賞 新人賞受賞者5人のうちに選ばれていて、大晦日の夜に生放送されるTBS『輝く!日本レコード大賞』のなかで投票型式によって唯一人に与えられる栄冠、最優秀新人賞の下馬評はこの二人に絞られていたのだから。

結局は一歩リードしていた田原が受賞。数年前、所属事務所・ジャニーズ事務所の稼ぎ頭だった郷ひろみが契約更新の隙をついて突如離れてしまって以来低迷していたところを再興させた、その最大の証を獲得したことで、受賞の瞬間、極度の緊張から史上この上ない感激へと変わった姿は、終始リラックスしていたこの『ザ・ベストテン』出演日とは対照的であった。

松田聖子もまた同じ。この日の番組は通常の一時間枠ながら年間ベストテンの発表も兼ねており、いつもの週間ベストテン10曲中9曲(中島みゆきは出演辞退)の歌唱に加え、年間ベストテン上位50曲の発表と第3位・第2位・第1位が出演してきて計12組も歌唱するという盛りだくさんな内容であったから、週間ベストテンの方では初出演のマッチ以外どの歌手もそつがない歌唱に終わる。しかも、生放送だからこそ生まれる、名迷場面集に取り上げられるようなハプニングもなく、正直印象に残るような回ではないのだ。日本レコード大賞の最優秀新人賞の前哨戦、日本歌謡大賞の最優秀新人賞を分け合った田原俊彦と松田聖子、果たしてどちらが…というようなゾクゾク感がない。

松田聖子にとってレコ大の最優秀新人賞を逃したことに悔しさはあったんだろうけれど、田原とは男女の仲を超えた存在で、NHK『レッツゴーヤング』の番組内アシスタントグループ、駆け出しの若手アイドル中心に編成されたサンデーズのメンバーどうしなど、春先の歌手デビュー当初から一緒にやってきた盟友であり、なにより背負うものが違ってたから素直に祝福している。そして二人は『レコ大』の直後に放送されるNHK『紅白歌合戦』にも揃って初出場。

松田聖子はこの紅白出場のために誂えた衣裳の、顔の輪郭と髪型が隠れてしまうのだが、その衣裳のチャームポイントになっている帽子を被るかどうか最後まで悩んだ末、被ってしまい、やっぱり後悔してしまったとのこと。おそらく、松田聖子にとって1980年大晦日の印象と悔しさはこっちの方だろう。

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