”嫌いな人”の話

「俺嫌いな人居ないんですよー。」
なんて飲み会やらの席で言うと、驚かれることが多い。

どうやら周りから見た俺は「とにかく敵が多い」みたいな印象らしく、全然そんなことないのになーって自分の中での認識はあるもののどこまでいっても主観は狭いな、とも感じる。

「だって、許せないことされたら嫌いになっちゃいません?」

(うーん、許せないこと…。家族や仲間友達を殺されたりそれに値することされたりとか…?でもそんなの経験したことないし初手で極論出しちゃうと会話終わっちゃって相手に申し訳ねぇな…。うーん、目の前で俺のギター叩き割られたりすること…?いやそもそもそんな狂人と出会ったことないわ…。うーん、うーん……)

「まあ確かに…なるかもしれんな…」

「うん…」

結果的に会話終わっちゃうんですけどね。あー悲しい、ほんと申し訳なすび

そもそも、許せないってなんなんだろう。
本当にそんな感覚は存在するのかなとも思うわけさ。
温室育ちとか恵まれた家庭環境で育ったからわからないんだよ、なんて言われたこともあったけど、それは悪いことじゃないやん。
単純に俺とあなたが違うってだけ。優劣とか皆無。そもそも同じ人なんぞおらんわ。ふてくされてんじゃねェーぞこのダボがァーーッッ!

でも関心することもあるわけです。
「アイツ嫌いなんだよね」って話す誰かは”アイツ”のSNS更新を毎日のように見ているし、”アイツ”の動向は常にチェックしているし、とにかく”アイツ”のことを逐一見ているわけです。(ちょっとこわいけど健気で可愛らしくもある)

ともすればめちゃくちゃ仲良くなれるんじゃね?だって”アイツ”の趣味嗜好やらなんやら、表面上だけでも少しは把握してるでしょう、って思ったりもする。
嫌いどころか興味大アリじゃん!て。
精神的な距離はもうストーカーの域だ!きみは凄い!て。
向こうからの歩み寄りがあるかどうかはわからんから、なんとも言えんが。

でも嫌いなんだってね。ムズすぎ。

そうなると、
嫌いな人が居ない俺は、嫌いな人だらけの誰かより、人のことを見る能力が低いんじゃないだろうか。
気付かずに、無自覚に、距離を取っているのは俺の方じゃないんだろうか。
心のどこかで「それでも誰にでも良い所はあるよ、嫌いになるようなことじゃないよ」ってかっこつけて美談にしようとしてるだけじゃないだろうか。

なんて思ったりもする。

「私はあなたみたいに人に対するキャパシティが広いわけじゃないの」
なんて、むっかーーーしお付き合いしていた彼女に言われたこともあったっけなー。

ただその一方で「優しい」と捉えてくれる人が少なからず居てくれているのも知っている、そんでその存在はとてもとても大きいのである。

どうせなら嫌いな人増やしてそこに注力するより、自分の中でとてもとても大きな存在に注力したいもんです。
キレイゴトって言うけれど そうよ綺麗なの!!
って、でんぱ組inc.の曲の歌詞でもあるし。
しかも未鈴ちゃんが歌ってるパート!!!!
でんぱはいいぞ。

それと、ちょくちょく愚痴を聞いてくれる友達が居てくれてとても嬉しく思います。そのおかげもあってか、まだ俺は人のことを嫌いにならずにすみそうやわい。ありがとう。

さいごに処世術をひとつ。

うわ!!!!!!!!痛った!!!!!!!!
ウォシュレットの威力最強にしたままトイレ出る人めちゃ嫌い!!!!ケツ破裂するか思うやろ!!!!!!!誰やねん!!!!!!!!!

って風に、あらかじめ顔も名前も何ひとつ知らん誰かの行動を「許せねぇ…」と思っとくことで自分の中に抗体を作っとくのオススメです。
なるべく個人を特定出来ない公の場が望ましい。
その人のことは嫌いになってもいいんです。何故なら顔も名前も何ひとつ知らないのだから。
そしたらいざそういう場面に出くわした時にその対象が知ってる人でも、余裕ができてるとおもいます。
許せないことされても抗体ある分、その人のこと嫌いにはならないとおもいます。
へぇ〜、ウォシュレットの威力いきなり最強でいける人なんや〜。てな具合に
多分ね。

例えが悪いのは言うな

使い物になるかわからん処世術を見せびらかして、久しぶりのnote更新を終わります

あと沢山カルシウムとれ

ではまた

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