ぬばたまの花

 自身の片割れがほのかに抱いている恋の欠片をすくい上げることは出来ても、己が抱いている想いには自覚できないのがリディー・マーレンという少女だった。
 目の前を背の高いブロンドの青年と妹がじゃれ合って歩いている。傍からだと、似ていない仲睦まじい兄妹としか見えないが……リディーは知っている。妹の頬へ微かに朱がさしていることに。文字通り生まれた時から一緒だった自分でなければ、わからなかっただろう。
 ふざけて青年に腕を絡ませる妹が、その一瞬前、意を決するよう息を吸ったことに……恐らくは妹本人も自覚していないであろうそれを、姉であるリディーだけは気が付いた。

今でこそ髪型や服装の違いにより周囲から一目で区別されるようになったが、それでも一糸乱れぬ姿で並べば、果たして本人達以外には区別できる事叶わぬのではないのだろうか……というくらいには、姉と自分は同質の存在であるとスール・マーレンは常々思う。そんな自分達が初めて袂を分かったと感じたのは、後ろを歩く姉が、その隣で肩を並べている銀髪の少年と出会ってからだった。
 さすがに鈍感なスールでも十二分に解かる程に、少年と相対する時の姉は色々とおかしかった。語弊があるが他に例えようもない。勘違いされやすいが、姉は決して柔和なだけの少女ではなく……年上だろうとだらしのない人間や尊敬できない相手に対しては、自分以上に辛辣な態度をとることも珍しくない。逆に言えば、姉は人として好ましいと認めた相手には、やや慇懃に敬意を尽くす。
 そんな姉が、だ。少々変わったところもあるが、新進気鋭ながらも思慮深い一面を持ちあわせている真面目な少年に対してだけは……訳もなく理不尽に怒りを露にすることが、ようようにして見られる。先程からさり気なく後ろ二人の様子を伺ってはいるが、すれ違う女性から少年が声をかけられる度に姉の口数が少なくなり……理由のわからない少年は、ひたすらに頭を抱えていた。

 つまるところ、リディーとスールという二花の両輪は、互いが互いの気持ちには気が付いてはいても、互いが自分の気持ちには盲目だったのだ。
 周囲の人間の中には双子が抱いている感情に気が付いている者もいる。
 天涯孤独だった赤毛の少女、家族と故郷を失い本物の絆を追い求めた狩人、名門の家名と父に対するコンプレックスを抱えていた小さな師匠ーー。いずれもが、四人の関係性が壊れることを極端に恐れていた。それは、形は違えど孤独な人生でようやく掴んだ家族に対する、情愛の裏返しなのかもしれない。
 結局、良くも悪くも四人の仲が進展するのには今しばらくの時が必要だろう。というのが、大よその見解であった。が、
 ――人の関係性というのは、本人の意思とは無関係に動き出す。

「急な話で悪いのだけれど、二人には頼みたいことがあるの」
 人のまばらになった午後の昼下がり。王城エントランスへやって来た双子に対して、ミレイユはそう切り出した。
「マティアスの就任祝いとして、隣国のザールブルグ大使と親睦を兼ねた夜会が開かれるのよ。式典で正式な挨拶は済ませてあるから、今回はタキシード着用のかなり砕けた会なのだけれど……」
 ミレイユは一旦ここで言葉を区切る。次の言葉がどうにも言いづらいようだ。
「はあ、それはまた結構なことで。それで、あたしたちに何の関係が?」
 せっかちなスールが頭に指を当てて首をかしげる。
「ええっと、それでね? タキシードで会に参加する際は、女性を同伴……エスコートしなければならないのよ」
 現在ではもっぱら、夜会の専用服と化しているタキシードであるが、本来の役割はイブニングドレスを身にまとう女性(主役)の引き立て服だ。漆黒色はドレスの輝きを増幅させる一種の舞台装置。外部の人間を招く際には、正当に乗っ取って親しい女性を同伴するのが一般的な慣習である。
「必ずってわけじゃないのだけれど、さすがに主賓ともなると一人で顔を出すわけにはいかないでしょ? だから、ね?」
「ふーん。そですか。マティアスのくせに生意気ですけど、せーぜー美人な女の人を連れて行けばいいじゃないですか」
 スールは何でもなさそうな口調でミレイユの言葉を遮る。
 姉は知っていた。これは心の底から怒っている時の態度である、と。
「いいんじゃないですかあ? こんな機会くらいですよ、マティアスなんかが女の人と腕を組んで歩けるなんて。あたしはホンっっっと、どーでもいいですけど……あの、バカ」
 誰にも聞かれたくないであろう、最後にぼそりと呟いた言葉は、リディーの耳に届いた。
 妹の心情を思い、胸が少し、苦しい。
「で、誰なんですか? マティアスにエスコートされる不幸な相手は。興味ないですけど、いちおー聞いておきます」
「うん、それをね、スールちゃんにお願いしたいのよ」
「へーそですか。せいぜいそのスールちゃんとやらによろしく…………って、は?」
「あの、ミレイユさん。聞き間違いじゃなければ、いまス―ちゃんっていいました?」
 処理が追い付かず固まったスールの代わりに、リディ―はミレイユに尋ねた。
「間違いじゃないわよ。これは我がアダレット王室からの正式な依頼、に一応はなるのだけれど」
「えええええ!? 無理無理無理っ! ぜぇーったいに、無理です!」
 スールは目を閉じ首を激しく左右に振って否定する。ミレイユはなぜだか少し楽しそうな顔で、首に指をあててスールへ問う。
「あら、どうして無理なの?」
「お偉い人達が集まる中に、あたしなんかが混じるなんて出来っこないです!」
「ううん、そんなことないわ。スールちゃんなら大丈夫よ。お姉さんが保証してあげます」
「ダメですダメです、お断りしますっ」
 などとしばらく押し問答をしていた二人だったが――。ミレイユがふと、ため息をついて、
「仕方ないわ。どうしても無理だって言うのなら、諦めるしかないのかしら。あーあ、マティアス、がっかりするわねぇ。あの子ったら、どうしても『スールじゃなきゃ嫌だ』って言っていたから」
「――は、はぁ!? ナナナナニを言ってるんですかミレイユさん!?アイツがそんなこと言うわけ、」
 一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になったスールは、先ほど以上にうろたえて見せた。
「うふふ、本当のことよ。まだまだ堅苦しい場は苦手だけれど、『スールが側にいてくれたらいつも通りでいられそうだ』って」 
「……………………そですか」
 スールはグッとうつ向いてしまったので表情は見て取れないが、耳元が真っ赤に染まっている。リディーとミレイユ、二人の『姉』からしたら容易に彼女の心情が読み取れた。リディーとしても、このチャンスを逃すわけにはいかない。
「スーちゃんスーちゃん。私は行ってみたらいいと思うよ。何だかんだでマティアスさんにも、極々たまだけどお世話になってる時もあるし。……それに、こんなチャンスじゃなきゃ王室のパーティーに参加する機会なんてないよ!」
 ここぞとばかりに畳みかけた。これがきっかけで少しは鈍感な二人の距離が近づけば、と。
「う、うー……。わかった、わかりました! 行きます、行けばいいんでしょ!」
 その甲斐あってか、うにゃうにゃと口ごもっていたスールも、とうとう観念した。
「まあ……! ありがとう、本当に助かるわ」
 ミレイユは両手を合わせて微笑む。
「うふふ。良かったね。スーちゃん。……ミレイユさん、スーちゃんをよろしくお願いします。私にもお手伝いできることがあれば何でも言ってください」
 小さくペコリとリディーは頭を下げた。可愛い妹の晴れ舞台。上流の世界なぞさっぱりわからない自分でも、何か力になれることがあれば……。
 それを聞いたミレイユは「あら、それは良かったわ」とリディーに向き合い、
「リディーちゃんにも、アルト君を同伴して夜会に参加してもらいたいのよ」
 まったく予想だにしていなかった爆弾を投げつけてきた。
「え? ……えええええー!? 無理無理、絶対無理ですよぉー! っていうかなんでアルトさんが出てくるんですか!?」
 さすがは血を分けた姉妹だけあって、リディーは先刻の妹と同様の反応を示す。
「ええっとね、そこはまあ、こちらの都合なのだけれど……」
 そう言ってミレイユは事情を語る。今回招くザールブルク王国は国家経営で錬金術アカデミーを設立している程には、一般社会に錬金術が浸透している。ようやくランク制度を設けただけのメルヴェイユとは雲泥万里の差があった。またそのお相手さん、宮廷お抱えの錬金術師を同伴してくるらしく、メルヴェイユの錬金術師も是非連れてきて欲しい――と要望があった。本国在住でそれに見合うだけのマイスターと言えば……。
「向こうの錬金術師は男性の方みたいで、どちらかと言えば同性で併せて欲しいみたいなのよ。……ということで、今現在、一番高ランクの男性錬金術師であるアルト君に白羽の矢が立ったってわけ」
 ミレイユの話を黙って聞き終えたリディーは、ボソっと一言、
「……アルトさんはそんな話、受けなさそうですけど」
「そこは大丈夫。既に彼からは了承を得ています」
 なぜだろう、とリディーは思った。意外と俗な所はあっても、権力に与するを良しとしないような人だと思っていたからだ。そんなリディーの困惑を打ち消すように言った。
「アルト君はね、なんていったと思う? 『リディーがパートナー。それが条件だ』……ですって」
 その言葉を聞いたリディーは、これまた既視感を感じてしまうがごとく、
「……………………そう、ですか」
 とだけ呟き、うつ向いてしまった。
「はいはーい、ミレイユさん。リディ―も喜んで参加するそうでーす!」
「なっ!? スーちゃん!?」
 もちろんそんな好機を逃す妹ではなく、スールの逆襲が始まった。
「だってぇー、あたし達もマティアスなんかよりよっぽど、アルトさんにはお世話になってますし〜? ま・さ・か、人に勧めておいて自分は断るだなんてリディーさんは言いませんよね〜?」
「う、うー……! スーちゃんに言いくるめられる日が来るだなんて……」
「もしもーし。何気に失礼な事言ってませんか」
「まあまあ。……でもアルト君がそう言っていたのは本当の話よ? どう? スールちゃんにも出てくれると助かるのだけれど」
 リディーはそれでも何か言いたげではあった。どうにか反論の糸口を探そうとしているようだが、スールにはわかっていた。
「……わかりました。私も参加します」
 アルトという少年のことに対して、見て見ぬふりが出来る姉ではないということに。

 言語や文化が異なる場では、最も相手に印象を与えるのは個人が身に着けている服装である。公式の場に立つ限り、それなりの装いで参加しなければならないが……既に錬金術師として名が響いたとは言え、マーレン姉妹は庶民の出。王侯貴族の参列する席に相応しいドレスなど持ち合わせていないかった。しかしそこは流石に一国の宰相だけあって、ミレイユは如才ない。今回参加する四人のドレスとスーツを新調する為に、次の休みの日、採寸の手配まで済ませているという。
「もちろんドレス代はこちら持ちだから、心配しないでいいわよ。ドレスはパタンナーと職人が実際に採寸して決めるから、当日の採寸時間がどれくらいかかるかわからないの。朝から入ってもらうけれど、念のためその日は、丸一日空けておいて貰えるかしら」

 などという具合に、あれよあれよと事態は勝手に進行して行き……。
 気が付けば、帰路につく頃には全てのお膳立てが整っていた。
「とは言ったものの……どうしよう、リディー 」
「うん、どうしよう……スーちゃん」
 まさか自宅を出るときにはこの様な事態になるとは露とも思わなかった。
 確かにリディー としてはあの少年に選ばれたと思うと、心が高揚していると自分でも感じていた。しかし、礼儀作法なぞ全く知らないのにいきなり社交界デビューするなどと大それた事に比べれば……。
 今更ながら自分達へ振られた仕事に対して、暗澹たる思いがのしかかる。
 スールも同じ気持ちなのだろう。二人は地面に顔を向けて肩を落として歩く。
 そんな彼女達が気にかかったのだろう。
「あら、どうしたの? 暗い顔しちゃって。お姉さんに相談してみない?」
 極一点を除いては、何事にも頼りになる年上の麗しき狩人に声をかけられた。
「あ、リアーネさん。実は、アタシたちぃ……」
「リアーネさん! 私達どうすればいいのかもう……!」
「あらあら。二人とも落ち着いて? お姉さんに相談してごらんなさい」
 リアーネは泣きそうな顔で二人にすがられても動じることはなく、怪しい名を掲げている露店の内側へと座るように促した。
「ーー素敵じゃない。私はいいと思うわよ」
 事情を聞いたリアーネは、あっさりとそう言いのけた。
「でもでもアタシ達、パーティーでどうすればいいかなんてわかりませんし……」
「うふふ。そこは心配ないと思うわよ。あくまで主役は男性側なんだから、二人は隣で笑っていれば良いの。流石にミレイユさんも立ち振る舞いについては事前に教えてくれるでしょうし」
ーーだから、あまり思い詰めなくてもいいのよ。と、リアーネは優しく微笑み、双子の頭を愛おしそうにゆっくりと撫でる。それはまるで、学芸会の主役に抜擢されて悩む妹に向けるような……慈母に溢れた眼差しで。撫でられる二人は、遠い過去、子供の頃を思い出すようにして目を細めた。
「そっか……そうだよね、リディー 。今からくよくよ悩んでも仕方ないよね」
「うん。そうだねスーちゃん。やる前から無理って諦めない!」
 ひとしきりされるがままだった二人は、そう言って顔を上げる。その目にやる気の炎を灯していた。
「うふふ。良かったわ」
 リアーネは小さく頷くと、
「ーーところで、デートは次のお休みなのよね?」
という、双子が仰け反るようなーー事実、後ろに倒れこむ勢いで背を反らせたーー言葉を発した。
「は、はあ!? ででででで、デート!?」
「ち、違いますよっ! ドレスの採寸です!」
「あら、どうして? 男女が休日に出かけるんだから、形はどうあれそれはデートなのよ」
 顔の前に人差し指を立て、ね? と少女から見ても蠱惑的なウインクをするリアーネに、二人は、うぅぅ、と押し黙るしかなかった。それでもいつもの二人ならば口やかましくアレコレぶーたれたに違いない。大人しく引き下がったのは、二人にしても心の奥底では……形にできない何かを期待していたのだろう。
「採寸の後は何か予定でもあるの?」
「まだ何も……採寸の終わる時間がわかりませんし、っていうかマティアスとアルトさんがその後は何したいとかも全然……べ、別にマティアスとデ、デートとかドーデモいいんですけど? ま、まあ、付き合ってやってもいいかなとかは思っちゃったり、とか」
 ――こういう時、スーちゃんは私に変わって自分の気持ちを代弁してくれるので助かるなあ。とリディーは常々思う。
「んー、そうね。採寸後に時間があるようだったら、二組に分かれてどこかでお茶でもすればいいと思うわ。あとは……そうね。うふふ。以前、二人が私の依頼でメルヴェイユルージュの贈り物を作ってくれたみたいに、今度はあなた達が――マティアスさんとアルトさんに何かプレゼントしてみたらどう? 例えば、夜会のタキシードに使うタイピンなんていいと思うわよ。そこにワンポイントでメルヴェイユルージュのモチーフをあしらうなんてどうかしら」

 年頃の少女二人にとって、メルヴェイユルージュを女性から男性に贈るということの意味について知らないはずもなく。リアーネと出会う前とは別の思惑で黙り込んでしまった二人は、とうとう一言も口を開くことなく自宅へとたどり着いてしまった。
 妙に乾いていた喉を水で潤したリディーとスールは、ソファーに並んで腰を下ろす。
 二人はしばらく沈黙を保っていたが、
「リディー! あたし、決めた!」
先に口を開いたのはやはり切り込み隊長である妹のほうだった。スールは立ち上がると、自分に言い聞かせるようにして言い放つ。
「な、何をかな、 スーちゃん」
「あたし、贈る! プレゼント! ……マ、マティアスに!」
「う、うんっ、うん!」
「だからリディーもアルトさんに贈ろう!」
「う、うんっ」
 つい勢いに任せて頷いてしまったが、むしろこれで良かったとリディーは思った。こうでもしなければ自分はアルトさんに向けて一歩踏み出すことは出来なかっただろう、と。
 反面、リディーはこうも思う。
 ――本当の所、私はアルトさんのことをどう思ってるんだろう。
 スールがマティアスに抱いてる気持ちとは、少し違うのではないかと感じる。自分ではうまく表せないが、この感情を無理やりに表現するならば『憧れ』が最も近いのではないのだろうか。
 ――恋愛小説の女の子は、好きな人に会うとドキドキして、心がふわーってなって。緊張でうまくしゃべれなくなっちゃったりもして。とってとってもキラキラしてて……。私はアルトさんの隣にいてもそんな気持ちにはなっていない気がする。
 だから、アルトさんに女の人が近づいて、心がザワザワするのは……きっと、私が嫌な子だからなんだ。

 胸の奥にうごめく、ほの暗く、てらてらと燃える燈。
 リディーはまだ知らない。
 その感情の名前を。
 
 材料である薔薇はいくつかストックがあったため、さっそく二人はその夜からタイピン制作にとりかかった。ピンへ付けるにあたり現物の花はいささかに大きい。花びらを防腐食加工したのち、タイピンのサイズに合わせた小さな薔薇へと作り替えていく。
 ピンセット片手に自分の机で花弁と格闘する。食卓の方に目を向けると、スールも薔薇と睨めっこをしていた。「タイピン作りは一人でやろう」と同じタイミングで発声した時は、二人で笑ってしまった。既に日付は変わって一時間以上は経過しているが、全く持って眠たくならなかった。贈る相手のことを思うと、どこかからか不思議な力が湧いてきた。今ならどんなことでもできそうな気がする。
 きっと、ううん、絶対にスーちゃんも同じ気持ちだよね。
 わかるよ。姉妹だもん。
 ときおりスールの放つ「あー、もう! 細かい仕事やだーっ!」という叫び声をバックグランドにしながら、作業に没頭。気がつけば、いつのまにか夜の帳は幕を開け――。
 世界で最も小さな真紅の薔薇を身にまとったタイピンが、朝日を眩しいくらいに反射させていた。

 集合場所であるテーラー近くのベンチには、三十分前だというのに男二人が暇を飽かせていた。姿を見つけるなり駆け足になったリディーとスールに対して、
「いやー、姉貴のやつがさ、絶対遅刻は許さないから1時間前にいけ! って脅してきてさぁ」
 まいったぜ、と双子が頭を下げる前に口を開く。本当はそんなことないのだろうとリディーは思った。マティアスという男は女性に対して自然と気を使える人間なのだ。彼がおどけることによって、事実スールは、
「もー、そうでもしないとマティアスがこんなに早く来ないもんね。ミレイユさんに感謝しなきゃ」
 と軽口を叩けている。スールだって彼の気遣いは十分に理解しているはずだ。遅れて申し訳ないという気持ちもあるが、早く来て待っていてくれたという事実に、嬉しそうなニヤケ顔が隠して切れていない。
「ごめんなさい、アルトさん。遅れちゃって」
 あのデコボココンビは置いておくとしても、アルトには対して、リディーはキチンと頭をさげる。
「いや、そこまで待ってはいないよ。……それにしても、マティアスといるとほとんど女性に絡まれないのがわかって良い収穫だった」
「なっ、おいアルト。それ、どういうことだよ!」
 アルトの言葉を耳に入れたマティアスは、思わず会話に入ってくる。
「ほら、マティアス。ひがまない! 普段の行いのせいでしょ」
「スーちゃんの言う通りですよ。アルトさんと自分を比べるなんて、ちょっと失礼ですよね」
「ぬ、ぐっ。……ったく、ほら、さっさと行こーぜ」
 分の悪い流れになったと感じたマティアスは、他の三人を促して先に歩き始めた。
 
 本格的な採寸というものを生まれて初めて行ってみたが、まさか直接肌にメジャーを回されるとはは思わなかったし、全身くまなく、それこそ股下にまで触れられるなどとは夢にも思わなかった。もちろん採寸者は年配の女性だったが、それにしてもこれは、なんとも恥ずかしい。自分はまだ良いが、くすぐったがりのスーちゃんは大変だ。事実、隣の採寸室から上がった笑い声が店内にコダマしている。
 中々思うように進まないスールが最後に戻ってきた頃、時計の針は正午を回っていた。
「さて、と。ちょうど昼時だな。どうするよ。三人共忙しいだろうし、ここで解散ってことにしようか?」
 マティアスは三人に視線を向けると、待機中にお店から出された紅茶を飲み干した。
 それを聞いてスールは席を立つ。
「べ、べつに今日は忙しくないんだよね〜。まだまだ時間はあるかな~。ね? リディー!」
「うん、そうだね、スーちゃん!」
 少し不自然すぎる返答だったかもしれないが、マティアスは「ふーん。そうなのか?」と、特に気にならない様子。
「あー、お腹すいちゃったなー。ってことでマティアス、お昼は当然奢ってくれるんでしょ? あたし、キドニーパイが食べたい」
「えー、ったく。しょうがねぇなあ。……よし、行くか」
 と文句を言いつつも、マティアスは席を立って三人を促す。
 慌ててリディーは、
「えと、マティアスさん! 私、その、キドニーパイはちょっと苦手で……」
「おっと、そうなのか? だったらリディーはどうするよ」
「だから、その、えと……ア、アルトさんっ!」
「……急になんだい? リディー」
 いきなり話題を振られたアルトだったが、動じることもなくリディーの方にジッと視線をむける。
 リディーは高鳴る鼓動を抑えるように、左手を胸に当てて軽く息を吸いこみ、
「私、クレープが食べたくて! あの、最近評判のお店があって、だから、よかったら……アルトさんに、着いてきてもらえたらなって……」
「ああ、いいよ」
「えと、だから、アルトさんに、アルーーって、え!? いいんですか!?」
「一体、何を驚いているんだ……。君から言い出したことだろう?」
 予めリディーが想定した返事は「なぜ僕がついていく必要がある」というものだったので、あっさりと応じられたことに驚いてしまった。決してアルトは嫌味などでそう言うのではなく、ロジカル的に疑問をぶつけてくるものだとばかりだと。
「そ、そうですよね。私ったら。あはは。……え、えと、それではアルトさん。よろしくお願いします」
「変な言い方をするね、リディー。まあいい。こちらこそよろしく」
「……えへへー」
 リディーは頬を両手で包み、破顔一笑。思わず口角が緩むことを、誰が咎められようか。
「ご歓談中の所、申し訳ございません」
 そこへ横から、先程まで後方に控えていた支配人が口を挟んできた。
「誠に失礼とは存じ上げますが、お話を聞かせて頂きました。差し出がましくもご提案をさせて頂きたいのですが……マティアス様?」
 支配人はマティアスへ向けて慇懃に頭を下げる。マティアスはそれを平然と受け止め、早く申せと言った風に促す。父親に近しい年齢の相手へ自然とこのような所作が出来るあたり、やはり育ちの違いというものが現れてしまう。
「これからお出かけされるにあたりまして、よろしければ当店にて皆様方の服をお見立てさせて頂きたいのですが。もちろんお代は頂きません」
「へえ? 随分と気前がいいじゃないか」
 マティアスの投げかけに、支配人は「そこについてはカラクリがございまして」とニヤリと笑う。
「最近、南方の方より新しい麻を仕入れました。現在流通している麻は『ヘンプ』と言って特有のゴワツキがあり、綿より下に見られています。そしてこちらが――はい、こちらが『リネン』と呼ばれる、ええ、どうぞ触ってください。新しい麻素材で作られました新生地でございます……いかがですか? 繊維が短く、滑らかでしょう」
 リディーは差し出された象牙色の布を触ると――確かにこれは、いままで見知っていた麻とはまるで違う。指に絡みつき馴染む生地は、さりとて麻特有の涼しさも持ち合わせている。これは確かに……
「すごい素材ですね」
 自然とリディーは口を開いていた。元より服飾にも興味があった彼女にとって、まるで魔法の様なこの布に果然、興味がわく。
「ええ、まさしく。……ですが、麻は昔から労働者の作業着として普及した歴史がございまして。やはりご年配の方々にはイメージは悪く、なかなか手に取っていただけないのが現状なのです。そこで御相談なのですが、このリネンで作られた衣装を皆様に着用していただき、しばらく街中を散策でもしていただけたら、と」
 ああ、なるほどな、とマティアス。
「麻に対する印象を払拭するために、俺達が服を着て歩き回れってことだろ?」
「その通りでございます。マティアス様のような、人の上に立たれるお方に率先して着用してもらえれば――周りの麻を見る目も、変わってくるというものでございます」
 シンプルに言えば、お代は無しにしてやるから広告塔になれ。ということだ。
「オッケー。やるよ。いいだろ? 三人とも」
「はい、私は構いませんけれど」
「むしろ新しい服がもらえてラッキーって感じだよね」
「まあ好きにしてくれ。……変なものでなければ、だけど」
 三者三葉の違いはあれど、残りのメンバーも了承する。
「それでは、さっそく見たたせて頂きます。まずはリディー様とスール様から、こちらへ――」
 支配人は返事を聞くと、さっそく双子を試着室へと通す。
「いいのかい、マティアス。君ならわざわざ提案を受けなくてもよかっただろうに」
「ああ。まあ、それは」
 マティアスにとってみたら、たとえ高級テーラーであろうとも四人分の平服代なぞたかが知れている。しかしそれでも快諾したのは、
「こうでもしないと、あいつら遠慮しちまうからな」
 いつも世話になっている小さな少女達に、憂いなく服を送ってあげられるチャンスだったから。

「うっ、あんまじろじろ見るなーー!」
 そう言って現れたのはスール。
 丈の長いホワイトリネンのワンピースに、ネイビーのサマーカーディガン。
 麦藁のハットにホワイトシューズ。
 シンプルな白の装いが涼しげで、見ていて心地よい。
 上品なワンピースはスールの印象をガラリと一変させ、落ち着いたの雰囲気を醸し出す。

「ど、どう……でしょうか」
 少し照れながらすぐ後ろから現れたリディー。
 浅葱色のサマーシャツに、ネイビーのジャケットシャツをラフに羽織り、下は白色にうっすらと赤い縦縞の入ったリネンミニスカート。
 同じネイビー色でも、こちらはリラックス感のある大人の余裕を感じさせる。

「二人共すっげー良いね。似合ってるじゃん」
 こと着替えの速さに関して、男性は女性陣の追随を許さない。
 すでに着替え終わったマティアスが二人を待ち構えていた。
 開口一番。さらりと褒め言葉が出せるのはマティアスの長所だ。
 グレーのパナマハットに、同じくグレーのサマーカーディガン。
 白、グレー、ライトグレーの三段ボーダーカットソー。
 ボトムスはリネンストレートパンツに、白のデッキシューズ。
 爽やかに仕立てられた組み合わせだ。夏のビーチでは極彩色が多くなる。あえてライトグレーを用いることにより、ジャケットを用いずとも落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
 それに加え、この男。さすがにエレガンテな着こなしが様になっている。
「わ、マティアスさんもかっこいいですよ」
 当たり前になりすぎて意識していなかったが、マティアスは素材として悪くないどころか、かなり上玉の部類だ。生来のスタイルの良さに加えて、日頃の訓練で引き締まった肉体がジャケット越しにもよくわかる。
「むむ……。ま、まあ、似合ってるんじゃない? 店主に感謝しなさいよね」
 と、スールは相変わらずだが、リディーから見たら、自分の彼氏が褒められたような反応だなあと見てとれる。
 ――ううん、そんなことよりも。
 リディーはかぶりを振って周囲に目を配る。そしてすぐに、マティアスの背後るような形で座っていたアルトを見つけた。
 アルトはおもむろに席を立ち上がり、こちらへ向き直る。

 バンドカラーのリネンシャツを五分までまくり、ネイビーパンツを合わせたシンプルな組み合わせ。
 左手には自動巻きの腕時計。彼の細腕にメンズは少々大きく見えるが、決して嫌らしさを感じさせない繊細なデザイン。時計の文字盤には「ジーメンス」の文字。
 海沿いの降り注ぐ陽気にキラリと光る時計がリネンの清涼さと併さり、風に揺れて良い表情を醸し出していた。あえて主張を抑えた取り合わせは、時計よりも何よりも――作り物のように綺羅びやかなアルトという少年を一層、際立たせていた。
 
 飾り立てられるだろうなと予期していたリディーは、全く思ってもいなかったコーディネートに、しばし呆然となり……
「ほら、リディー」
 スールに肘で小突かれてようやく正気を取り戻し、
「す、すすすっっっごく良いです! 素敵です! かっこいいですアルトさんっ!」
 両手を握りしめて力強い声を上げた。対してアルトは、
「そうか。ありがとう、リディー」
 と、どこまでも冷静に答える。ただ、これまでと違う点が一つ。
「リディー。君も似合っているよ。うん、可愛いんじゃないかな。もちろんスールもね」
 誰に対してもお世辞を言うような少年ではなかったアルトが――特に女性の容姿に対して褒める等と、以前の彼からは考えられなかった。
「えっ!? あ、その、えと、は、はひっ! ありがとうございます……」
「はいはーい。ありがとうございます。アルトさんに褒められると嬉しいですねっ」
「え、俺は? なあ、俺も褒めただろ?」
 少し前に古い友人と打ち解けてから、徐々にではあるが、アルトも確かに変わってきているのだ。

 全部マティアスの奢りだからっ!
 と嬉しそうに去っていくスールとマティアスを見送りながら、残されたリディーはちらりと横に目をやると、ちょうどアルトと目があった。
「じゃあ僕達も行こうか。案内を任せるよ」
「あっ、えっと、じゃあこっちですっ」
 思えばアルトと二人きりになるなんて初めての体験だ。そのことを意識しだすと、徐々に鼓動が早まりだすのを感じる。
 ――うぅ、どうしよスーちゃん。普段どおりに振る舞えてるかな。
 リディーは高鳴る胸を抑えて歩き出したが……。
 そんな乙女の心配は、杞憂に終わった。

「お、おいっリディー! 見てないでなんとかしてくれっ!」
 リディーの目の前には蜂球ができている。
 中心にいるアルトを囲むように、うら若き女性が群がっているのだ。
 最初はリディーもお帰りいただくのに協力していたが……数メートル歩けばすぐ、誘蛾灯に群がるがごとく女性がフラフラと寄って来る。何度追い払ってもキリがない。
 およそ一般人には話し掛けづらい普段の錬金術スタイルですらも、常に数名の女性から付きまとわれてしまうアルトなのだ。一転、カジュアルな装いに身を包めば、このような自体になることは無理なからぬことだった。
 飽和状態を迎えた群れがその場から動かなくなって数分が経過して、リディーはすっかりと冷え切った視線になっていた。ただし、その胸にはだんだんと、
「ねえ、君だれ? すっごいかっこいいね!」
「いやすまない、通してくれないか」
 ――ほら、アルトさんったらデレデレしちゃって。
「あ、君って錬金術師の子だよね? いつものミステリアスな恰好もいいけど、そっちの服も似合ってるなー」
「……悪いが、連れが待っているんだ」
 ――口では断ってるふりしても……そんなこと言われて、ほんとは嬉しいんでしょ!
「お姉さんと遊ばない? 奢ってあげるからさ。ほらあ、行こうよ」
「だから放してくれ! はなせっ! おい、リディー、リディー!」
 ――どうしてハッキリと断らないの!? 
 あーっ、もう、限界!
「アルトさんっ! こっちです!」
「なっ!? リ、リディー!?」
 リディーは蜂玉の中に飛び込むと、有象無象をかき分けて、アルトの白い手を見つけて無理やりに引きずり出した。
「きゃ、もう、なによ」「あ、いない?」「ちょっとあんた、何してんのよ」「ひきはなせ!」
 アルトから離された女性たちは、思い思いに己の欲望猛けるままを小さな少女にぶつけた。が、
「……なにか?」
 第二次性徴も終えていない小さな体躯から、考えられないほどの圧が周囲へ放たれた。周囲の女性達は揃って口を紡ぎ、無意識に半歩下がって身構える。こうなるのも無理はない。リディーは日頃から異世界へ飛び込み、必要とあれば魔物と一戦交えている。のほほんと日々を謳歌する一般人では役者が違う。
「どいてもらえますか? 私達はこれから用事がありますから。必要以上に近づかないでください。――さ、アルトさん。行きましょうか」
「あ、ああ……助かったよ、リディー」
 まるで海を割った聖人さながらに。左右に離れた人垣のアーチを、二人は堂々手をつないで凱旋した。

 ――どうしよう。
 瞬間に沸いた熱は冷めるのも早い。数分と立たず冷静になったリディーは、気まずさから隣を歩くアルトを極力視界に入れないように努めて歩く。つないだ右手が熱を持ちだした。緊張で汗をかかないか気が気ではなく、意識しまいとすればするほど思考は手の先へと集中する。アルトがどんな表情をしているかわからないが……少なくとも自分以上の力を込めて握り返してくれているという事実が、心の平穏を保つ命綱となっていた。すれ違う人達はこちらを一瞥しては、様々な表情を浮かべている。彼らが何を思っているのかはわからない。それでもリディーは、今この瞬間だけは……自分たちのことをきっと、仲の良い……そう、仲の良い――なんて思ってくれていたらいいな、と。
 そんなリディーの心情を知ってか知らずか、アルトはふと歩みを止める。怪訝に思ったリディーは思わずアルトの方を振り向くと、じっと水晶のような瞳がこちらを向いて――
「うん。これはいいね、リディー。手をつないでいると誰も話しかけてこない。……久しぶりだな、邪魔されずに歩くことができるのは」
 空いた手を顎に当て、アルトは満足そうに頷いた。そしてまた、リディーの手を引いて歩きだす。
「……はい、よかったです」
 アルトにとってはただ本当にそれだけの理由かもしれない。
 それでも、もう少しこの時間が続くようにと、リディーは目を細めて静かに祈った。

 十三時を回ると流石に飲食店はピークは過ぎ、入店と同時に席へと案内された。室内にもそこそこ空席は目立っていたものの、通されたのはテラス席の中央部。一番大通りから目に付く場所だ。大方、銀髪の美少年を軒先の広告塔にでも使おうという魂胆なのだろう、とリディーは察した。――おおむね間違ってはいないのだが、リディー自身も見え麗しい客寄せパンダの一人だということには気が付かなかった。
 流石にこの程度で店員の上げ足を取るわけにもいかず、黙って促されるままに席へ着く。
 いつもならメニュー表を開いてたっぷりと悩むリディーも、今日ばかりはすぐに決まった。水を運んできた給仕に、お目当ての名物ハウスクレープを二つ――アルトが「同じものを」と言ったのは意外だった――頼んだ。 
 食べ盛りかつ年頃の少女というものは大変に現金なもの。クレープが運ばれてきた途端、リディーは満面の笑みを浮かべ、アルトは引きつった笑みを浮かべた。テーブルの上に鎮座するお目当ての品――本体が隠れるまでに盛られたクリームに加えて、宝石の様に輝く色とりどりの果物達。おまけにこれでもかとかけられたチョコレートソース。
 生地よりも添加品のほうが明らかに多いコレを、果たしてこれはクレープ(石挽き生地)と呼んでいいのかどうか甚だ疑問ではある所だが……リディーは目を輝かせ、飢えた獣のように今にも飛びつきそうな勢いになっていた。
 僕に遠慮なくどうぞ、と気にしていた相手に促された途端、
「えへへ。では、いただきますっ」
 と、リディーは巨大なクリームにフォークを突き刺し始めた。
 アルトはとりあえずティースプーンでクリームをひと舐めし……歯が溶けそうになるほどの甘味の暴力に顔をしかめる。まさか「ハウス」を掲げる一品でこんなものが来るとはまったく理外のだった。アルルはこの地方ではクレープに必ずついてくるシードル――当然ノンアルコール――を片手に、さてどうしようか、とチビリ口にして聡明な頭脳をフルに回転させ始めた。

 ――食べかけでよかったら僕の分も少しばかりどうだい?
 そんなことをアルトから言われた時は努めて冷静を装ったつもりだったが、果たしてその効果はあったのだろうか……とリディーは思いつつも。二人で一皿をフォークでつつき合うという、いつか読んだ少女漫画で憧れていた展開に胸は一杯となり。なんだか妙に楽しくて、ちょっとくすぐったかった。
 お腹もそこそこに膨れ、ようやくいつもの調子が戻ってきたのか、リディーはアルトと何気ない話を交えた。あまり聞きだす機会のなかったアルトの私生活について――好きな雑誌や音楽、食の好みなど――を知れたのは大きな収穫だったと、リディーは心の中で拳を握った。
 ――そうだ、私は何を緊張していたのだろう。採集に出かけた時のように、工房で錬金術のアドバイスを受けていた時の様に。いつもどおり話せばよかったんだよ。
 食後に頼んだつもりの無い紅茶が「サービスです」と言って運ばれてきた。砂糖を入れるのは淑女らしくない――とリディーは思っていたので大人ぶってストレートのまま喉に流し込み、あまりの渋さに一口でたまらず降参。備え付けの角砂糖を四つ程投入する。
 それがおかしかったのか、アルトがくすりと笑う。
 笑われた、と気恥ずかしそうな顔になったリディ―に対して、
「ああ、いや悪気はないんだ。昔、知り合いが同じようなことをしてね。懐かしく思ったんだ」
 アルトはどこか懐かしむような顔でそう答える。
「知り合い、ですか」
 遠くを見て呟くその視線の先が誰なのか、リディ―は直感で理解した。
「プラフタさん」
「御明察。よくわかったね。……まだ僕とプラフタが、君たち姉妹とあまり年のかわらない頃だったかな」
 自分の素性をほとんど語らないこの少年について、唯一わかっていること。それは過去にプラフタという、リディーもよく知る女性と確執があったということだけだ。心の奥底に潜む古い記憶をすくい上げるあの砂漠で、リディーは確かに見た。目の前の少年とは似ても似つかない、禍々しい雰囲気をまとった錬金術師がプラフタをその手にかけている景色を。この目で見て、本人の口から聞かされてなお、未だにそれがアルトの過去だとは信じがたかった。
 ともあれ、彼が自分から昔のことを話すのは珍しことだった。ここがチャンス、とばかりにリディーは意を決してアルトにどうしても聞きたかったことを尋ねる。
「――アルトさんは、その、プラフタさんとはどういった関係なんですか?」
 リディーの質問に対して、アルトは、ふむ、と一言呟くと少しの間、目を閉じて思案に暮れた。
「そうだね」
 とゆっくり視界を開く。時間にしてわずか数秒の思案だったが、リディーにとっては妙に長く感じられた、その答えは、
「この関係を強いて言葉にするならば――家族、に近いと僕は思っている。プラフタの方はどうかわからないけどね」
 という、リディーの予想とは少しばかり外れたものであった。
「家族、ですか」
「一番それに近い、というだけではあるけれどね。僕と彼女は、君達と同じように、幼いころからずっと錬金術に明け暮れていたんだ。寝食を共にしてね。僕にとって彼女は、友であり、姉であり、妹であり、錬金術の深淵を探求する仲間で……ライバル、だった。もしかしたら、一人の異性として見ていたのかもしれない。……ある時までは」
 アルトは一度言葉を区切り、ゆっくりとカップに残されたお茶を嚥下する。
「後は前に話した通りさ。僕は自分のくだらない嫉妬と羨望で彼女を傷つた」
 ――結果、かけがいのない家族を失い、永年に近い時をさまよう罰を受けた。それだけさ。
 とアルトは自嘲した。
 どう答えれば良いのか答えの浮かばないリディーに対し、アルトは優しい笑みを浮かべた。
「心配することは無いよ。つい最近、プラフタとのわだかまりは解けたんだ。まあ、完全に元のままに収まることはないけれどね。……さすがに、年月が経ちすぎた。うん。本当に、本当に長い時間が経ってしまった。きっと僕とプラフタは、そういう道だったんだと思う」
 アルトは一息に喋ると、そのまま口をとじた。リディーは黙って紅茶を口に含む。
 ――もっとお砂糖入れればよかったな。
 先ほどよりも苦い味が口腔に広がった。
 きっと、この二人に私は追い付けないんだ、と。
「難しく言い過ぎたね。実はそんな複雑なものでもないんだよ。今の僕にとって彼女は、妹のようなものさ。……きっとプラフタが聞けば『何を言っているのですか。私の方が姉ですよ』と言うだろうけどね」
「プラフタさんが妹ですか」
「そうだよ。おかしいかい?」
 あきらかに見た目でいえばアルトの方が弟なのだが、妙に自信満々で答えるアルトが少し可愛く、おかしくて。思わず、うふふと漏れてしまう。
 少し心外そうな表情になったアルトは、年相応の少年に見えた。
 ――ちょっと、ほっとしたかも。妹なら、私にもまだ。
 リディ―は少し胸をなでおろす。
 そしてすぐに――本当は気が付いていて、それでも見て見ぬふりを続けている自分の心の内へと問いかけた。
 まだ……私はアルトさんと、どうなりたいんだろう。

 持ち前の健啖さを発揮してしまい、思った以上に早く片付いた食事の後。
 もう一年以上は経とうというのに、今だこの街を生活圏以上に出歩いたことが無いというアルトの為に、リディ―・マーレンによるメルヴェイユ観光ツアーが始まった。
 最初の内は食事をとった店から近い、流行りのショップや最近造られたモニュメントへ案内してみた。リディ―の予想通り、この辺りについてアルトはあまり興味を示さず……ああ、うん、と楽しいのかどうなのかわかりずらい反応を見せる。ここまでは折り込み済みだ。それではと、すぐに中央から少し街の外れへと足を向けた――。
 そこは、建国から続く……メルヴェイユで最も歴史の古い区画。
 細い道はいくつも枝分かれし、煤けた石壁で作られた家々が軒を連ねる。
 もとは白亜であったという、この石壁。風化具合を見ると、造られたのは百年や二百年前どころのではないという年月を感じさせる。塩分が含まれた海風にこれほど長期間耐えうる石材を作り出す技術は、既に失われて久しい。
 リディーにとっては当たり前すぎて気にも留めない家や道路の造成、名前のない守り神の小さな像などへ、アルトはしきりに興味を向ける。数十メートル歩いては、ふむ、と顎に手を当てて、楽しそうに思考を巡らせ――積み上げた歴史に思いを馳せていた。時折、アルトは見つけたものに対して独自の解釈を伴った質問をリディーに投げかける。それはこの街で生まれ育ち、ビブリオマニアとまではいかなくても、ある程度には読書をたしなむリディーですら答えに窮するくらいには難解で。リディーは会話についていくので精一杯だった。遊歩を楽しむ余裕などほとんどなかったが、それでもこの時。後から思い出して見ると、やはり楽しくて素敵な一時だったとリディーは思う。

 一日で最も陽が照る時間帯を過ぎた頃。
 リディ―は最後にとっておきの場所へとアルトを案内した。
 メルヴェイユの市街地の南東。既にもまばらになった城壁の一角に、小さな石の要塞があった。
 こっちです、と。
 半壊した要塞の扉を通り抜けて中に入る。薄暗い階段を昇ると、すぐに屋上へと出た。
 見晴らしの良い景色が眼前に広がる。周囲一帯は背の低い家々が並ぶため、遠くの方まで見通せた。
「卵砦と言うんです」
 砦の淵に並んで腰を下ろし、リディーとアルトは、しばし無言で街を眺める。その間、二人とも特に言葉を交わさなかったが――リディ―は不思議な心地よさを感じていた。数年前、まだ幼かった頃にスールと何度か探検ゴッコとして訪れたことがある。これは何度も見た景色。だというにのに、アルトが横へ立っている。それだけで――知っているはずの場所が、リディ―の瞳にはまるで未知の世界であるかの様に輝いて写っていた。
「ここには、伝説が眠っているんです」
 海風に髪先を揺らされながら、リディ―はぽつぽつと口を開き始める。
 ――古代帝国時代、この地はメルヴェの波濤島と呼ばれていた。この要塞、もともとは帝国の錬金術師が建てたという豪華な別荘だった。錬金術師亡き後、要塞として建て替えられたのは今から五世紀程前だと言われているらしい。卵砦という名前には由来が残されていた。錬金術師が土地の基礎の中に卵を埋め込み「卵が割れる時、この場所はおろか、帝国まで危機が迫るであろう」と呪文をかけた。
「――という伝説があって、この街では誰でも知っているお話なんです。ただ、古くて人気の少ない場所なので……あまり地元の人間も近寄らない場所なんです」
 リディ―の説明をアルトは口を挟まず耳を傾けていた。
「ごめんなさい、つまらなかったですか?」
 いや興味深い、と首を振るアルト。
「この国の歴史について、ある程度は文献で調べたつもりだったのだけれど、知らなかった。民間伝承の類は口伝が多いから、貴重な話を聞かせてもらったよ。……それにしても錬金術師の遺産、か」
 またもや一人、思考の世界へ旅立とうとしたアルトだったが――。
 夕暮れを知らせる鐘が、高く遠く鳴り響いた。
「おや、もうこんな時間か」
 鐘の音を聞いてお天道様も慌てたのか、陽光はオレンジへと移ろいはじめる。
 街のいたるところでは、井戸端会議をしていた主婦や駆け回っていた子供たちが、段々と帰路につく。
「うん、ここまで出歩けば、服の代金としても文句はないだろう。リディ―の方も、いいかい?」
「あ……はい……」
 ――全然良くない!
 とリディーは今更になって焦った。
 今日の本命はアルトにプレゼントを渡すことなのだ。デートは嬉しかったけれど、あくまで棚ぼたに過ぎない。
「あのっ、アルト、さん!」
 このままズルズルといけば、渡せずじまいで自宅へ着くことになると、容易に想像できる。暮れの陽光に照らされて眩しそうに目を細めるアルトに向け、リディーは腹をくくって声をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってください、あの、あ、あれ? おかしいな、ここにいれたのに――」
 慌てたままでは、カバンの奥底に仕舞い込まれた箱の発掘が思うようにうまくいかない。焦れば焦るほどに手元が狂う。渡す前からこんなはずでは……と自分の要領の悪さに泣きそうになる。ようやく取り出せた箱を、無意識に一度だけギュッと両手で握りしめる。そして、
「ア、アルトさん。これを……あの、受け取ってもらえませんか」
 アルトに向けて、かすかに震える手付きで箱を差し出した。
「うん? いや、まずはありがとう、リディー……これは?」
「えと、えと、いつもアルトさんには色々と助けてもらっているので、今日はいい機会だからって、だから、その……日頃のお礼です」
 ――言ってすぐリディーは後悔した。もっと他にいくらでも言い方があっただろうに。コレではまるで義理のようではないか、と。
「あまり力を貸した覚えはないけれどね。君たちの成功は、君たち自身の努力の結果だよ。だけどまあ、うん、ありがたく貰うよ。――開けてもいいかい?」
「は、はひ。ど、どうぞ」
 まさかこの場で箱を開かれるとは思わなかったリディーだったが、さりとて断る理由も思い浮かず。目の前で『想い人へ謳う花』を見られることになろうとは……。
「タイピン。――それも手作りだね。これはリディーが?」
「はい、拙作ですけれど……」
「とんでもない。素晴らしい出来だよ。特にこの薔薇……装飾はメルヴェイユルージュか。うん、本職に劣らない出来だ。国から一番のお墨付きを頂戴したあとも、日々の努力を怠らなかったことがよくわかる。ますます成長したね、リディー」
「え、えへ、えへへ。ありがとうございます、アルトさん」
 思わずリディーの頬が緩む。
 錬金術に関しては偽りを述べることの無いアルトから、こうも手放しに褒められては無理からぬこと。
「それにしても、メルヴェイユルージュか。いつぞや、リアーネ君の為に手配したものだね。――いくら僕でも、異性に対してこれを送る意味は知っているつもりだよ」
「っ…………!」
 弛緩していた表情が一瞬で引き締まり、リディーは身を硬直させた。
 来た、と。
 覚悟はしていた。というより、このために用意したものなのだ。とはいえ、未だこの時点においてもリディーは己の心の内が定まってはいなかった。
 ――もしもアルトさんが喜んで受けとめてくれたなら。私は、私とアルトさんは、一体、そこからどうなりたいのだろう。
 そして、もう一つの可能性についても。
 ――考えたくもないけれど、アルトさんがこの気持ちを受け取ってくれなかったら。私は、わたしは……。
 一瞬で駆け巡ったリディーの思考を知る由もないアルトは、普段と変わらない、淡々とした口調で。
「嬉しいよ、リディー」
 と。
「僕もリディーのことは大切に想っている」
 アルトは静かに笑っていた。
 リディーはその言葉をすぐには理解できず。
 耳から入ってきた言葉をようやく脳が認識した途端に、リディーの心臓は『ドクン』と大きく一度跳ね上がった。気がした。
「う、嬉しいです! アルトさん……! わ、わたし、私も、アルトさんの、こと、大切な人だから、だから、それを――」
 最後は言葉にならなかった。感情の奔流が止まらず、自分でも何を言っているのか全く持ってわからない。それでも確かに、胸の内から湧いてくるのは、熱く暖かい何かだった。
 ……ああ、そうか。私はやっぱりアルトさんのことが。
 アルトはまるで優しい笑みを浮かべた。それはまるで、父母が稚児に見せるような、慈愛に溢れた眼差しで――。
「リディーとスールは家族の様に思っているよ」

 ふっつりと、リディーの胸に灯っていた何かが消えた。
「うん。そうだ。プラフタの話をしただろう? 妹のようだと。まさに同じだ。アルトという新しい生を受けた僕にとって、プラフタ以外で唯一、君達双子のことは身内だと思えるくらいには……親しい間柄だと勝手に思っているよ」
 アルトは本当に、心の底からそう思っているのだとわかった。
「リディー?」
 アルトが、急に顔をうつ向かせて何かを必死で耐えているようなリディーに近づいて。
「リディ」
「ごめんないかえります」
 その言葉をちゃんと言葉に出来ていたか記憶になかった。
 たぶん嗚咽交じりでまともに言えなかったのだろうと思う。
 こちらへ伸びたアルトの腕を振り払って、滲んでまともに映らない視界で。
 両手両足を振り回しながら階段を駆け下りる。
 酸欠で頭が朦朧とする。呼吸をしているのかしていないのかわからない。
 転がり下りるようにして砦から飛び出した。
 一瞬だけ砦の方を見る。
 最後に見たのは、何が起きたかわからずに、茫然と立ちすくむアルトの姿。
 沈んでいくオレンジの陽と、どこからか飛び立っていく海鳥の姿。

 追い付かれまいと逃げ込んだ裏路地からようやく大通りに抜けると、夜のとばりはすっかりと降りていた。 日頃は頼りないガス灯の明かりも、今日だけは都合が良かった。鏡なんて見てないが、きっと酷い顔をしているのだろう。
自分のみっともなさが本当に情けない。
――アルトさんからしてみれば、迷惑以外の何者でもないよね。唐突にプレゼントを押し付けられたと思ったら、勝手に泣いて、怒って、急に逃げ去って。
もう自分がわからない。
わからないよ。
いいじゃない、家族のようだと言ってもらえて。私は一体、何が不満なんだろう。ううん、不満とはちょっと違う。
嫌。嫌なんだ。
苦しい。心が、締め付けられて、苦しい。
頬を伝う涙を袖で拭うが、何度拭いても、拭いても、乾かない。
ズサッと。
不明瞭な視界で浮ついたリディーは案の定、小さな段差に足を取られて転げてしまった。
地面に倒れ込んだまま、リディーは嗚咽を漏らしはじめる。
ーー痛い。痛いよ。
どうしてこんな事になったんだろう。
ついさっきまでは本当に楽しい1日だったのに。自分で勝手に期待を膨らませておいて、それが全部、自分の先走った勘違いで。受け止めきれなくなって逃げ出して。
……スーちゃん。スーちゃんはどうしているのかな? あの二人のことだから、きっと最後まで楽しく過ごせたに決まってる。私なんかと違ってスーちゃんは可愛くて素直だから。マティアスさんもスーちゃんのこと、スーちゃんの事がーー。

 ……スーちゃんもお父さんもまだ帰ってないのかな?
 どうやって自宅に辿り着いたのかわからないが、家の窓は暗く、中には誰もいない事がわかる。いつもフラフラ出歩いている父はともかくとして、スールはまだ帰っていないらしい。
ーー疲れちゃったな。今日はもう寝ちゃおう。
とにかく今はこの現実から夢の世界へ逃げ込みたいと、半ば倒れるようにしてリディーは玄関へとなだれ込んだ。すると、
ガタッーー
人が動く気配。
ほんの一瞬、驚いてしまったが、
「……スーちゃん?」
 ソファーにうっすらと浮かび上がる輪郭。間違いようもない。最愛の妹だ。
 スールから返事はない。
 ただ、暗闇の静寂の中。
 静かに鼻をすする音が響いた。
 リディーはそっと、スールの隣に腰を下ろす。
 スールに何が起こったか直感で理解したリディーは、スールの手を優しく握った。
「リディー、あたし、あたしぃ……」
 暗さに慣れたリディーの瞳に映し出されていたのは――。
 泣きはらした目が痛々しい、憔悴しきったスールの姿だった。
「マ、マティアスが、ね……あたしの、あたしのこと……」
 ――ああ、そっか。
「い、いも、妹、っ……みたい、って……マティアスがぁ……」
 私は今、きっとスーちゃんと顔をしているんだ。
「あたし、や、嫌だ、それじゃやだよ、リディー……」
 うん。私も嫌だよ、スーちゃん。
 家族じゃなくて、あの人の特別になりたいよ。
 私達はいつの間にか抱きしめ合っていた。
 強く、強く。
 もう我慢しなくていいんだと。大きな声を出して泣きじゃくった。
 嗚咽も涙も混じり合い、どちらが自分なのかわからない。
「スーちゃん、私、私ねアルトさんのことが――」
「リディー、あたしマティアスのこと――」
 気付かないふりをして素直になれなかった私は。
 心に去来する思いを自覚できていなかった妹は。
 胸を貫く痛みと引き換えに――
 ようやく、恋を自覚した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?