短く詰めるとデータっぽくなる?

長い単語を短く詰めることがある。損害保険会社を損保、日本労働総連合会を連合、安全保障理事会は安保理、こういうのは複合語として長くなったもので短く詰めた時になんとなく元の言葉のニュアンスが感じられるような気がする。

これに対して、朝の連続テレビ小説を朝ドラ、アニメーションソングをアニソン、などというのは私が聞き慣れていないだけなのか、言葉が記号化されているように感じる。別にそれがお互いの頭の中で元の言葉に展開されて意味を持って来るのなら記号にしても何か情報量が多いような感じもするが、単なる記号となっているとそれはもう、ただの名前である。いや、もともと名前なのだが。漢字が表意文字なのに対して、カタカナが表音文字であるように、意味をそぎ落として発音だけの名前になっているような気がする。

そんなことを考えたのは、デンマーク語に出会ったからだ。彼の国の言葉は、単語は異常に長いものがある。あまりに長くて1行に収まらず、ハイフン“-“でつないで次の行に行くものまである。これはどうも日本語の複合語と同じで単語で区切れるのだがつなげているらしい。だから目で単語の区切りを見つけながら読んでいく。こちらはもともとアルファベットー表音文字だから、日本のような詰め方はしないようだ。頭文字をつなげて詰めるようなものだろう。となればこれは完全に記号化である。

記号というのは文字や単語の持つ情報をかなりそぎ落としているという意味でデータに近づいているようだ。データっぽい。コンピュータで扱いやすそうではないか。言葉の持つ微妙なニュアンスや色合いのようなものがデジタル化によって削ぎ落とされるのだろうか。とすれば少し寂しいがそうならないような言葉の詰め方と厚みのあるデータの扱い方がこれからの技術の進歩から生まれて来るものと期待したい。

ちょっと取り留めのない話になってしまった。


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