トランキライザー〜『梅雨のプール』SS
※この物語は、『梅雨のプール』(榎戸鍵著)の番外編となるショートストーリーです。
トランキライザー
サブスクで選んだ映画の開始5分あたりから、理日斗が動かなくなった。
放心した様子でじっと画面を見つめて時折思い出したように瞬きをする。
これはあまりよくないパターンだと、京介は知っていた。
理日斗が額に手をやって、短く息を吐く。汗をぬぐう指先は心なしか青白い。春の終わりのこの季節に室内で汗ばむことなんてほとんどないのに。
どのシーンだ。
どのシーンが彼の心の地雷を踏みつけた。
冒頭の兄弟の別れのシーンだろうか。
兄は刑務所に入り、弟は兄に背を向けた。
それともその後唐突に始まった家族での食事シーンか。
庭で花に水やりをしたシーンか。
青年がマラソン途中に太陽を見上げて目を眇めたシーンか……。
理日斗は耐えかねたように眉を寄せ、とうとう俯いた。
画面から彼の目が逸れたのでリモコンに手をやって停止ボタンを押す。
青ざめた、幽鬼のような表情がゆらりとこちらを向いた。
「……京介君、ごめん。俺……、」
「謝らないでください。何か飲みますか?」
「うん……ごめん」
こういう時、彼を一人にするべきだと学んでいた。
だから京介は立ち上がってリビングを出る。
なるべく時間がかかるように、豆から挽いて熱いコーヒーを淹れよう。
商店街の福引で理日斗が当てたミルの上蓋を外す。黒光りする豆をざらりと投入し、蓋を閉じ、取っ手を掴んだ。ごりごりと豆を挽く音に心は落ち着いていく。
「──京介くん、」
トン、と背中に軽い衝撃があった。
服越しに肩甲骨をなぞるような掌の間隔と、ぬくもりがじわじわと肌に染みて理日斗がしがみついたのだとわかった。こくりと、つばを飲んだ。
「先輩……、」
「ごめん……少しだけ、」
「……」
「……」
「……俺、そっち向いて、正面から抱っこしていいですか」
「……うん」
そっと理日斗を振り返って強すぎない力で抱きしめた。
腕のなかの身体は熱を取り戻し、水中から浮上した瞬間のように深い呼吸をした。
「…──京介君、ありがとう」
柔らかな感情を帯びた理日斗の声が好きで、少しだけ抱きしめる力を強くする。
この人の精神が安定する要素に、少しでも自分が組み込まれているのであれば嬉しいと京介は思う。
少しだけ昏い喜びと、嫌悪にも似た罪悪感の狭間で揺れる気持ちを押し殺しながら理日斗の背中をよしよしと撫で続けた。
ふと窓の外に視線を向けると、いつの間にか雨が降り始めていることに気が付いた。
いろいろなことがあった去年の雨季から、一年──。
もうすぐ、ふたたび梅雨が訪れようとしていた。
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