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『中動態の世界』意志と責任の考古学

能動態(自分の動作を表す状態)と、受動態(自分がある行為を受けた状態)について、英語の授業でよく私たちは扱ったのを、皆さん覚えていらっしゃると思います。(上記の画像の人は、歌っているのでしょうか、宇渡せられているのでしょうか)しかし、このタイトルの本は、その真ん中の「中動態」について論じている書籍です。よく考えると、「この動作って、自分でしてるのかな、それともやらされているのかな」という感覚は、私たちも持つことがありますが、本書では言語の特徴から、その感覚に迫っていくものです。

古代のギリシャは、ソクラテスなどの哲学者で知られている通り、学問が生まれた場所として知られるような国です。そのギリシャ語にはもともと、能動態と中動態しかなかったそうです。自分の動作ではない場合は、その主体(その行為を起こす意思を持っている人)がどこにいるか分からないので、全て中動態としていたとのことです。

こうしたことの背景は、当時の哲学者が、「意志」という概念をあまり強く持っていなかったことが原因にあるとされています。アリストテレスは、外部の状況によって決まる欲望によって、人間の行為は規定されてしまい、そこから選択をして、一つの行為をしているということを述べています。しかし、その行為は、どんな行為でもいいわけではありません。そのため、人間は、選択をするタイミングで、理性を用いて行動を決めているのです。

それでは「意志」は私たちにとって、大事ではないのでしょうか。別にそうではありません。ただ、強く意識をされ始めたのが、近代になってからとのことでした。例えば、ミシェル・フーコーは、工場の労働者を管理するための権力は、働いている人の主体性を生み出すためのもので、決して暴力のようにその人々の主体性を無くすものではないとして、暴力と権力の違いを語っています。こうした生産が意識されるようになった近代において、権力や暴力との緊張感によって、自分の意志は何なのかということを、深く考えるようになったのかもしれません。

現代の私たちは、働き方が変わってきたり、キャリア教育が充実したりと、時代が自分の意志、主体性を強調することに重きをおいています。その表れの一つが、学校などで行うボランティア学習などかもしれません。「ボランティア」は、volo(意志)というラテン語から来ています。そのため、自分で主体的に行動を決め、新しい道を開いていくことを求められている行為です。もちろん、こうした行為は素晴らしいですし、続けていく価値があります。

しかし一方で、古代ギリシャの思想のように、自分が他の要素によって影響を受けて行動していること、理性の働きによって調整を行わないと、正しい行動ができないことも、しっかりと念頭に置かなくてはいけません。そうでないと、自分の意志だけが先行して、他人への感謝も忘れ、ボランティアを実践しても、自己満足に陥ってしまうかもしれません。こうしたことを反省しながら、自分の行動を決めていくことが、社会に本当に貢献できる活動、事業を生み出せるかもしれません。そんなことを、本書は教えてくれる気がしました。

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