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紅茶の乱

僕は27歳でコーヒーデビューした。

コーヒーといっても、無糖のブラックコーヒー。
デビューといっても、飲めるということではなく、美味しく飲めるということ。

ある日突然、無糖のブラックコーヒーを飲めるようになったわけではない。2年という歳月をかけて、無糖のブラックコーヒーを飲めるようになった。
カフェオレから始まり→カフェラテ(微糖)→カフェラテ(無糖)→ブラックコーヒー(微糖+ミルク)→ブラックコーヒー(ミルクのみ)→ブラックコーヒーに辿り着いた。

コーヒーデビューした時期に同い年の彼女ができた。服のデザイナーをしていて、その業界では有名な賞の新人賞を獲った期待の星。さらに美人。写真家のアシスタントをしている僕とは釣り合わない彼女だった。

初めてのデートで表参道をぶらぶらした後、喫茶店に入った。

「ホットコーヒーで」
「私はホットミルクティーで」

店員が「かしこまりました」と言ってその場を離れた瞬間、僕は彼女を罵った。

「え? コーヒー飲めないの?」
「飲めるよ」
「じゃなんでコーヒー頼まないの?」
「紅茶の気分だから」
「え? 本当はコーヒー飲めないんじゃない?」
「飲めるよ。ただ紅茶が飲みたいの」
「コーヒー苦くて飲めないんじゃないの?」

自分より格上の彼女に対して気負いしていない雰囲気を出したかったのか、僕は積極的かつ高圧的に攻撃した。

それが良くなかった。彼女の癇に触った。

「あなたが言いたいことが全くわからない。なんでコーヒーを注文しなかったら、コーヒーを飲めないことになるの? つまりは、あなたは紅茶を飲む人よりコーヒーを飲む人が偉いというわけ? 私はコーヒーを飲めないと疑われていることに対して、一切怒っていません。ただ紅茶を馬鹿にするあなたに対してそれなりに怒っています。紅茶を飲みたいときもあります。コーヒーを飲みたいときもあります。紅茶に合うもの。コーヒーに合うものがあります。そんなことをわかっていない人が喫茶店に来るのはやめてほしいです」
「ごめん。そんなつもりじゃ」
「どうせ、あなたみたいな人はコーヒーを飲めることを誇らしく思い、紅茶は子供の飲み物とでも言いたいのでしょ? "紅茶"には"お"をつけて"お紅茶"とも言いますが、"コーヒー"を"おコーヒー"と言うことはありません。つまり、私が言いたいのは紅茶の方が偉いということです。そもそも紅茶とコーヒーに上下関係があるとは思っていませんが、あなたが優越を決めだかるので、それに付き合ったまでです。あくまでも私の意見としてはコーヒーも紅茶も同等です」

個性的な彼女だ。人間としての種類が違う。熱くなれるものが全く違う。それは価値観の違い。
予想通り、長くは続かなかった。たった3週間で振られた。「別れましょう」と言われたとき、一安心したものの礼儀として「なんで?」と聞くと、「便宜上の質問はいらないわ。わかってるくせに」と言われ、少しだけ笑ってしまった。

年月は流れるもので、僕は40歳になった。一人称を"私"に変更してもいい年齢。写真家として独立し、アシスタントを2人雇えるほどにもなった。独身。
休みの日は1人で喫茶店に行く。中目黒にある行きつけの喫茶店の扉を開けると鈴の音が店内に響く。「いらっしゃい」と言ったマスターは私に尋ねる。

「今日はどちら?」
「うーん……紅茶で。ホット。ミルクでお願いします」
「やっぱり秋になるとコーヒーより紅茶が美味しく感じるよね」
「わかります。そういえば、若い頃、紅茶を馬鹿にして、付き合ってた子に怒られたことがあったんです。現在だったら彼女の言い分が理解できるんですよね」
「紅茶の乱だね」
「歴史の教科書に載らないかな」

鈴の音が店内に響き渡る。不思議な感覚がした。直感が刺激された。素早く入口に目をやると、同世代の綺麗な女性だった。勿論、彼女ではなかった。あの彼女ではなかった。直感は外れた。でも直感は震えたままである。姿勢を戻し、瞬きを一回だけした。

この女性が紅茶を注文すれば声をかけよう。