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花の色

「花の色は地球のペンキなの」

初めて聞いた彼女の言葉がこれで、最後に聞いた言葉もこれだった。

彼女と出会ったのは代官山にある、朝7時から営業している喫茶店。僕は仕事前に1人でコーヒーを飲んでいた。

「花の色は地球のペンキなの」

少しだけ枯れた声で妙な言葉が聞こえてきた。

奥のテーブルに目をやると、30代の男女が資料を広げて打ち合わせをしていた。朝が早いせいなのか、両者の意見が真っ向から違っているせいなのか、機嫌の悪さは容易に伝わってきた。

「なんだよ、それ」
「何度言わせるの? 花の色は地球のペンキなの」
「何が言いたい?」
「デザインした花を、カラーインクで着色するだなんて、お断りです」
「あのさー、コストのことわかってる? 1着しか作らないワンピースならわかるよ? 今回は1000着も作るわけ。花のデザインだけを藍染してたら、倍はかかるよ? いや、10倍だな」
「だから! 花の色というのは地球が絞り出したペンキなの。デザインした花を人工的なカラーインクで着色すると偽物の花になる。藍の花で染めることによって、ワンピースの花は本当の花になるの!」
「こだわりが強いんだよ」

頭を抱える男。立ち上がりさらに怒鳴る女。

「こだわりを持って仕事して、何が悪いのよ! では、誰かに聞きましょう。あの人に聞きましょう」

店内には、この男女を除けば、店主と僕しかいない。女の目線は真っ直ぐにこちらを向いていて、近付いてきている。黒髪のロングヘアー、真っ白のオーバーサイズのシャツ、細身の黒いパンツ、黒のヒール。シンプルなファッションが彼女のスタイルの良さを引き立たせていた。

「すみません。ちょっと1つ聞いていいですか?」
「はい、なんでしょう」

切れ長の目が鋭くなって威圧的になっている。しかし美人。30代半ば、自分と同い年くらいだろうか。

「私は服のデザイナーをしています。この度、このワンピースを1000着作ることになりました。経緯や用途は割愛します。最小限お伝えしなければいけないのであれば、表参道ヒルズのクリスマスのイベントです。そこで、1つ聞かせてください」
「はい」
「この花のデザインをカラーインクで着色するのと、藍染どちらがいいと思いますか?」
「さっきコストのことが、聞こえたのですが」
「あなたは部外者です。コストは気にしないでください」
「部外者? あ、そうですよね」
「で、どちらがいいと思いますか?」
「そもそもこれはなんの花ですか?」
「アイスランドポピーです」
「聞き慣れない名前だな」
「でしょうね。花の色は地球のペンキです」
「花の色は地球のペンキか……素敵な言葉だな。率直に言わせてもらっていいですか?」
「はい」
「藍の花をデザインしたのなら、藍染は良いと思うんです。あなたが仰る通り、本当の藍の花になる。でもこれがアイスランドポピーであれば、藍の花で染めるのは変ですよ。家にあるCDやDVDでもあるじゃないですか? ケースを開けたら中身が違うとき。アイスランドポピーのデザインなら、アイスランドポピーで染めるべきです」

ウェブデザイナーの仕事をしていて、創作の知識や感性はそれなりに備えていた。

「なるほど。アイスランドポピーは染められない花です。多分。なので藍染はやめてカラーインクを使います。ありがとうございました。お礼に今度、お食事でもどうですか? ご馳走しますので、こちらに連絡を」

あっさりと意見を変えた彼女はテーブルに名刺を置いた。

「ありがとうございます。僕、今、名刺なくて」
「結構です。こちらに後で連絡を頂ければ」
「ところで、本当に花の色は地球のペンキなのでしょうか?……」
「花の色は地球のペンキなの」
「わかりました」

僕が少し笑うと、彼女はテーブルに戻った。そして男に頭を下げ、すぐに身支度を始め、喫茶店を出て行った。その際、男はこちらに会釈をしてきたが、彼女は見向きもしなかった。

その日の昼過ぎ、彼女に連絡しようと思い、ジャケットのポケットに入れた名刺を探したが見当たらなかった。どれだけ探しても見つからなかった。仕事終わりに再び喫茶店に寄って同じ席に座り探したが見つからず、店主に聞いても、無いと言われた。結局、名刺は見つからなかった。

そのせいか、彼女の顔をうまく思い出せなかった。しかし「花の色は地球のペンキなの」と少し枯れた彼女の声だけは、耳に鮮明に残っていた。