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周囲の風景や他者に心を開いてほほ笑みかけてみると

私たちは、目に見えないたくさんのものとかかわり合いながら存在している

「宇宙のカケラ」Sep. 2023 SALUS

東急線フリーマガジンSALUSで連載されている、理学博士、佐治晴夫先生のエッセイ「宇宙のカケラ」の一部です。

このことを、さらに詳しく述べた部分があります。

私たちは、自分という存在が、他の何者でもない独立した自分であるという確信のもとに日々生きています。しかし、考えてみれば、私たちの体を含めて、すべての存在は宇宙誕生によって形成された原子分子の集合体であり、その組み合わせのわずかな違いが個人をつくっています。しかも細胞レベルで考えれば、それらは、生成消滅を繰り返していて、有機物で構成される体全体も自然界の循環のなかにあります。

「宇宙のカケラ」Sep. 2023 SALUS

私は長い間、自分という個に固執し、何をして生きるべきか悩んできました。若い時ほど強い思いではないものの、人間である以上、自分という個この世の中で活かしたい、という気持ちは、今でも抱えています。

その一方で、

個人とは、自然界の循環の中にある、ゆるやかな原子分子の集合体。

佐治先生の文章が示してくれた事実にも安心感を覚えます。

自分という個に固執せずとも良い。
いつか、私という個が存在しなくなる日が来るけれど、今あるこの身体、自分だと思っているこの存在も、自然界で巡回している物質の一部に過ぎず、生死はその循環の中で形を変えるだけ。

それでも思いは個へと戻ります。
大事に思っている人たちが、いつかこの世からいなくなる。
そのことを、物質の循環の一部にすぎない、と割り切るのは難しいのです。

大事な一人一人の存在。

取るに足らない、でも大事な一人一人。
矛盾するような存在である自分や人とどう向き合い、どのように人と関わり、何を考えて生きていけばいいのでしょうか。

佐治先生のエッセイは、さらに続きます。

ここで、ふと思い起こすのが、世界を構成する要素の相互依存関係を表すとされる華厳経のインドラの網*が放つ青い光です。つまり、“わたくし”のなかには、世界のすべてが映し出されており、“わたくし”もまた、その意味で世界全体の担い手のひとりだということです。とすれば、日々の生活のなかで、自分を見失いかけたとき、ほんのちょっとだけでも、自分のほうから周囲の風景や他者に心を開いてほほ笑みかけてみると、それが連鎖となってインドラの網を照らし、その光が明るみへの道しるべになる…


*帝釈天の宮殿にかけられた巨大な球状の網。結び目には美しい水晶玉が縫い込まれ、水晶玉のそれぞれがごかのすべての玉を映し込んでいるので、ひとつの水晶玉に宇宙すべてが収まっている。

「宇宙のカケラ」Sep. 2023 SALUS

上に引用した文章は、私には少し難しく、理解できたと思うまで、随分時間がかかりました。ですが、この文章の意味がすとんと腑に落ちた時、インドラの網の美しい姿が見えたような気がしました。

感情に蓋をしないこと。心を閉ざさないこと。
辛さや悲しみ、恐れも、そして幸せも周囲と分け合うこと。
互いにほほ笑みかけること。
周囲と共に生きていると感じていること。

これが、先ほどの問いに、私が出した答え。
今、私が目指したいところです。

また変わるかもしれないし、言うほど容易いことでもないかも。
負の感情は墓場まで持っていきたいと思うタチの私が、感情に蓋をしないなんて、できるかなぁ。
正直そう思いますが、それでも。

インドラの網に編み込まれた水晶玉は、我々一人一人。
宇宙全体とつながる水晶玉の中に、自分のちっぽけな思いを封じ込めても仕方がない。
そういうことかなぁ、と思います。



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