【第1章 幼少期編】団地生まれ 粗大ごみ置き場育ち 貧乏な奴はだいたい友達

貧乏とボク
 物心がついた頃には、当時『ベッドタウン』とカッコよく横文字に付けられた郊外の街から更に駅から歩いて25分もかかる集合住宅地に住んでいた。集合住宅と言っても集合の度合いが尋常ではないマンモス団地だ。どれくらいマンモスか、というと、そこに住む子供達たちを収容するべく団地内には数えきれないほどの保育園に幼稚園、更に小学校が6つに、中学校が3つもあった。
 家賃は2〜3万円代と格安で、言わずもがな極貧な家族が集まってきた。その数6700世帯。
 そんなghettoな集落での小学生の頃の日常と言えば、裏の林にカブトムシを捕まえに行ったり、缶蹴りや警泥(ケイドロ)をやったり、めちゃめちゃ派手に改造した自転車を乗り回したり、団地中の粗大ゴミ置き場を漁りに行ってガラクタを集めたり、秘密基地を作ってそこに森から拾ってきたエロ本を大量に収集したり、夜中に小学校のプールに忍び込んで泳いだり、商店街のおもちゃ屋にいりびたって閉店後に無料でゲームをプレイさせてもらったり、そんなくだらない想い出ばかりだった。

 幼少期の頃のイメージを一言で言うなら間違いなく「貧乏」だ。父親は会社を経営していたのだけど、給料を持って来たことを殆ど見たことがない。社長だかなんだか知らないけれど、家族を養っていけなきゃ意味がない。

 貧困からのストレスか、当時の母はめっぽう厳しかった。
 勉強をしている時も、横にぴったりついて、問題が解けるまで寝かせてくれなかったり、孫の手でひっぱたかれたりした。ちょっとテストの点数が悪いものなら、真っ裸で風呂場にぶち込まれて水シャワーをぶっかけられたり、掃除機の柄で引っぱたかれるなんて事は日常茶飯事だった。
兄は、蹴っ飛ばされてそのままガラスを突き破ってベランダに飛び出したりなんて事もあった。

 そんな時、父親の会社の資金繰りがどうにもならなくなり、社員の給料を支払う余裕すら無くなった。しかしどうしても給料だけは払わにゃいかん。と、ついにはサラ金にまで手を出してしまった。
 金がないので、母が休まずに、来る日も来る日も働くことになった。朝5時に起きては、新聞配達や牛乳配達をこなし、そこから夕方まで花見川製作所へパートに行って、夜には塾の講師を勤めていた。少しでも時間があけば、近所のコンビニへパートに入ったり、更に隙間の時間では、父親の会社の内職までやっていたから、半田ごてまで器用に使いこなすようになっていた。
自分の時間なんて一秒足りともなかったに違いない。僕ら兄弟を養うためだけに歯を食いしばって、一日一日の生活をしのいできたのだと思う。
 そんな感じで、文字通り朝から晩まで、働けど働けど、それでも金はない、精神的余裕もないわで、ストレスが極限に達したのであろう。ある日「もう死ぬしかない。お父さんがお金持ってこないから一家心中するしかない」と、母と兄と3人で大泣きした事をトラウマのように覚えている。あの時、僕らが拒まずに覚悟を決めていたら、本当に心中していたのかもしれない。

 ある日、学校から帰ると、奥の部屋から母親が電話をしている声がふすま越しに聞こえてきた。相手がどこの誰だか分からなかったけれど、ただ事ではないという事はすぐに分かった。
「それは私たちに死ねっていう事ですか!?」と、泣きながら訴える母親の言葉がとてもショックで、耳を塞ぐようにして、そっと家を出ると、こりゃいよいよ本当にヤバイんだな。迷惑かけちゃダメだな。母ちゃんはおれが助けないといけないな、って子供心に強く思ったのを覚えている。

 そんな極貧の状況で、厳しい母親だったけれど、最低限のおもちゃだけは買い与えてくれていたのを覚えている。貧乏なのに不思議だなぁとは思っていたんだけど、大人になってその理由を聞いてみた事があって、母親もしっかり覚えていた。
他の子供たちと遊んでて一人だけオモチャ持ってないと惨めでしょ?って。そんな悲しい想いをさせたくなかったんだって。
どうやら、スパルタだったけど優しいところはあったみたい。


ジャングルとボク
  そんな辛い幼少期だったけれど、楽しかった思い出もたくさんある。金をかけずに遊びを模索する事に長けていたのは貧乏ならではだろう。
 特に、夜中や早朝にカブトムシを捕まえに通ったことは今思い出しただけでも興奮する。
水曜スペシャルの川口浩に憧れていた時代ど真ん中だったことが影響し、当時からそういう冒険的な事が好きだった。
背丈以上に生い茂った草木をかき分けて、道など皆無に等しい、さながらジャングルの様なところへ懐中電灯一つで突っ込んで行く。当時はガキ大将よろしく偉そうにしていた僕もさすがに一人で行く勇気はなく、虫採りに興味のない友達を無理やり引き連れて行ったり、疲れて帰ってきたオヤジに付き添ってもらったりした。給料を一銭も家に入れてなかったので疲れている場合ではない。少しでもこういう時に家族の役に立たなければならなかった。
 誰と行っても、常に自分が先頭に立って"ジャングル"に突進して行った。ただ単に、いの一番にカブトムシを発見したかっただけなんだけど。
 因みに、カブトムシを捕まえるだけが楽しかったわけではない。メインイベントはその過程にあった。自力で道を切り開いて新しい椚の木(カブト虫が集まる木)を発見したり、傾斜70度はあろう崖から直角に生えている木に群がるカブト虫を捕まえようとして、そのまま崖から転げ落ちてあわや死にそうになったり、なんと言っても忘れられないのが、そんな誰も入って来ないような森のど真ん中に突然ひっそりと佇むお地蔵さんを発見した時は、思わずぎょっとした。いったい誰が何のために立てたものなのか、未だに謎は解けていない。
 他にも、でかい蛇を発見するとミヤマクワガタを捕まえた時以上に興奮した。なんと言っても水曜スペシャルに感化されていた当時の僕にとって、蛇はジャングルの代名詞的存在だった。トグロを巻いているもの、突然目の前をすごいスピードで横切るもの。こちらを威嚇するかの様に木からぶら下がっている蛇を発見した時はいたずら好きだった僕に火が付き、ワーキャーとはしゃぎながら蛇に向かって全力で投石したりした。
 しかし、ある日、その現場に居合わせた父親ー20年に1度くらいしか怒らないような、会社内でも「仏の原田」と言われていたオヤジーが鬼瓦の様な顔をして怒った。
「蛇を苛めてはダメだ!!蛇を苛めると罰が当たるぞ!」
親父の話によると蛇は「神様の使い」なんだそうだ。そんなに怒った親父を見た事がなかったもんだから、本当にびっくりした。それ以来、僕にとって蛇は神様になった。
後に母から聞いて知った話しなんだけど、オヤジは「へび年」だったみたいで偉く蛇には執着があったんだって。

そんな沢山の思い出が詰まった僕のジャングルは、開発が進み、今はもう無い。


改造自転車とボク
 小遣いはあってないようなものだったので、バスや電車に乗ることは殆どなかった。チャリンコで片道2時間圏内であれば延々とどこまでも遠征に出かけた。(片道45分の高校へも、雨の日も風の日も雪の日も自転車で通ったのだけど、3年間、無遅刻無欠席無早退の皆勤だったくらいだ。)
 小学生ながらも自転車の改造にハマり、ダイナモ(古くから自転車に備えられており、タイヤの回転をエネルギーに変換して自家発電する装置)を前輪、後輪に合せて3台装備させ、大量の電飾が点灯できるようにした。しかし、このダイナモで発電させるとなると、当然、車輪に負荷がかかることになり、極端にペダルが重くなる。ダイナモを一台つけた時だけでも自転車を漕ぐのが億劫になるレベルなのに、3つのダイナモをすべてを同時に発電させると、まるで常に坂道を登っているようなレベルで、必死に漕がないと前進してくれなかった。
しかし、夜になるとデコトラのように光った自転車は、大人からも子供からも注目の的になり、僕は得意気だった。今思えば、あれは哀れみの視線に違いなかったし、そんな息子の寄行に母親もさぞ後ろ指を差されていたのだろうけど、面白がって見守ってくれていた母の様子が目に浮かぶ。どんな視線だろうが、そんな皆からの注目は子供心に爽快だった。人と違う事をやって目立とうとする精神は、この頃から既に芽生えていたようだ。

 ある日、そんな自慢の愛車でサイクリング中、突然飛び出してきた車と激突して勢いよく吹っとんだ。そのまま車は走り去ってしまったので、つまり、今思えば轢き逃げされたという事だろう。
 暫く動けず地面に突っ伏したまま、遠くに目をやると、横たわった愛車は無残な姿になっていた。愛車には、通常「リンリン」と手動で鳴らすベルの代わりに、ボタンを押すとビーっと音が鳴る電動式のベルを付けていたのだけど、衝突のショックで故障し、ブぴーービビビーぴぃーーーッッ!!と、けたたましい音をあげたまま鳴り止まなくなっていた。この音があまりにもやかましく奇天烈な音を発し続けていたので、なんだなんだ、と辺りの住民が駆け寄ってきた。「大丈夫?」「ぶつかった車は?」「救急車救急車!」「警察も呼ばなくちゃ!」
 至るところから出血していて、身体中の痛みもそれはもう酷かったんだけど、皆の視線が、怪我しているボクなんかよりも改造自転車の方に向けられていた事を察すると、恥ずかしさのあまり、「大丈夫です!全然大丈夫です!」と言って、自転車を起こすと、足を引きずりながら一目散にその場から立ち去った。その間もベルは鳴り続けていたので、みんなの視界から消えるまで注目の的になっていた。改造自転車がこんな形で注目を浴びる事になるとは、なんとも皮肉なものだなと思った。
 電池を抜けばすぐ鳴り止んだのに、と気付いたのは、近くの公園までなんとか辿り着いた時だった。痛みでうずくまりながら、ぼーっと、無残になった姿の相棒を見ながら、とても悔しく、虚しい気持ちになって涙がとまらなくなった。
 それ以来、改造チャリには乗らなくなった。

キャンプ修行とボク
 小学校5年生のとき、担任の先生から目の敵にされ登校拒否状態になった時期がある。
そんな僕を見かねた母親に、謎の北海道長期キャンプの旅に送り込まれる事になる。もちろん僕の意思なんてものは関係なく、気付いたら申し込まれていて出発日も決まっていた。
長期とは言え、わずか2週間だったので、はじめはそこまで深く考えてはいなかったのだけれど、人生経験がまだまだ少ない11才の僕にとって、この2週間が果てしがなく感じる期間になろうとは、知る由もなかった。

 東京から北海道への往復は謎の36時間のフェリー移動だった。後から思えば、この出発の時点で危しい雰囲気は醸し出していたのだ。
 初めてのフェリーは、巨大で開放的な雰囲気ではあったが、周りは海でこの状況から脱出する術がないと思うだけで、まるで牢屋に閉じ込められている気分になった。閉所恐怖症になるんじゃないかという不安と戦いながら、陸へ着くのが待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がない時間が続いた。
 寝る場所は、当然、個室なんてものは用意されておらず、何百人も収容できるような仕切りのない畳の大部屋で、寝袋に包まっての雑魚寝だった。
そのような前情報もなかったし、11才で、いきなりこの環境に突っ込まれて相当のストレスとプレッシャーだったに違いないが、発狂せずにすんだ救いの娯楽があった。それは、船内に、ちょっとしたミニゲームコーナーが設けられており、当時かなりハマっていたスパルタンXというゲームがあったことだった。キャンプ二週間分の小遣いの殆どが、いきなりフェリー内のゲームセンターに注ぎ込まれていった事は言うまでもない。

 やっと北海道の地を踏むことができ、素晴らしき開放感に喜びを感じていたのも束の間、ここからが本当の地獄の始まりだった。
 キャンプ場に到着すると、その無法地帯っぷりに驚愕した。どういう経緯で、どんな目的でこのキャンプが開催されているのか分からなかったが、参加している子供達は全国から集まった登校拒否者や問題児ばかりだった。
こ、、、このキャンプ場、まるで少年院状態じゃないか!!

 集合場所を確認していると、いかにもスれてそうな連中が話しかけてきた。
「お、新入りか?うちら先発隊でもう一ヶ月も前から来てるから!よろしくな!毎年参加してる経験者だからなんでも聞いてくれ。初めてか?それならホームシック、覚悟しておきな!」
いやいや、なんだよ、先発隊って。なんか妙に偉そうにしやがって。それにホームシックってなんだよ!聞いたことないワードだわ!っていうか、毎年このキャンプ開催してるのかよ!

 キャンプをする現地に到着すると、僕たちは、まるでトランプのカードを配るかのように、パッパッパッと8人ほどのグループに振り分けられた。そして、それぞれのグループに、ボランティアで参加している大学生がリーダーとして1人づつ配属された。
 我々のリーダーは大学8年生だという事を聞いた僕は、「おいおい!大学8年生って聞いたことねぇよ、超バカでしょ!」と言って『ダイハチ』と名付けてやった。あとで知ったのだが、ただの大8ではなく、東京大学8年生と聞いてこれまたビックリした。

 それぞれのテントに案内され、とりあえず荷物を置いて、ダイハチとその仲間たちで辺りを散策しに出かける事にした。周りは殆ど森で、近くに流れている川に行くと、「当たり前だけどシャワーなんて無いから、ここが風呂代わりだからね」と言われた。風呂がない生活なんて聞いてない!しかもここからの二週間、川で身体洗うのかよ!そんな経験をした事も、想像すらした事がなかったのでいきなりハンマーで頭を殴られたようなショックを受けた。
 一時間くらい散策し、テントに戻ってくると、この旅一番のショッキングな事件がおこった。まだ初日の、到着して2時間くらいだというのに。
テント内に置いておいた荷物が荒らされており、2週間分のパンツと、母親に持たせてもらった食料が盗まれていたのだ。
 いきなりでこれは、いくらなんでも酷すぎる。もはやどうしていいのか分からなくなり放心状態になる。さっきの先発隊と名乗っていた不良共が、完全に我々新入りを狙っていたのだろう。
ダイハチも責任を感じ、とても落ち込んでいた。

 このキャンプは、大学生リーダーのサバイバル能力で、我々小学生の生活環境も快適さも変わり、リーダーに全てがかかっていると言っても過言ではなかった。
因みに、隣のキャンプのリーダーは常にテントにしっかり鍵をかけていた。そんな鍵なんて気休めかもしれないが、鍵をかけているテントとかけていないテント、狙われるとすればどちらか、言うまでもない。 

 そして、立て続けに事件は起きる。キャンプ2日目のこと。前触れも無くいきなり洪水のような大雨が降ってきた。今でいうゲリラ豪雨というやつだ。テントは防水になってるとはいえ、これだけの雨量。限界はあったし、床からも浸水してきて、荷物も寝袋もびしゃびしゃになった。とりあえず雨宿りをしようにも逃げ場があるわけでもなく、どうやっても寝れる状態ではなくなった。今置かれている状況すら分からなくなり、自分はいったいこんなところで何をやっているんだ、と呆然と立ち尽くすしかなかった。
 そして、我々小学生と一緒になってテンパるダイハチ。それに比べ、となりのリーダーは、万が一雨が降ってきた時のことを想定し、初日のうちに、テントのふちに沿って深く溝を掘って川に流れるような水路を作っていた。
ダイハチのダメさ加減に、小学生ながらみんな呆れていた。リーダーをやるつもりで来ているのなら、キャンプの座学だけでもしっかり勉強してきてほしかったものだ。
翌日、張り切って水路を作るダイハチだが、その後、一度も雨が降る事はなかった。

 いきなり盗難にはあうし、テントは浸水するしで、わずか2日目にして家に帰りたい、家族に会いたい、という気持ちでいっぱいになり、その気持ちを全て吐き出すかのように、恥ずかしげもなく空に向かって大泣きした。横を見ると他の仲間も声をあげて大泣きしていた。
この状況に一番泣きたかったのは、きっとダイハチだったに違いないんだけど。

 そう言えば、ここに到着したとき、「ホームシックは覚悟しておきな」って、先発隊から言われていた事を思い出した。ホームシックなんて初めて聞く言葉だったし、まさか自分がいきなりここまで追い込まれるなんて思ってもいなかったので、なるほど、これのことだったのか、と泣きながらも冷静に頭の中で考えている自分がいた。
 身体の水分がなくなるんじゃないかってくらい極限までとことん泣いた事が効いたのか翌日になると意外とカラっと吹っ切れて気持ちは晴れていた。

 熊が本気で出没するような山奥のキャンプ場だったので、当然、周りには何もなく、一番近くの小さい商店まで行くのでさえ、歩いて1時間かかった。身体を洗うための銭湯やスーパーマーケットがある通称『町』と呼ばれる村まで行くのにかぎっては3時間以上もかかった。
そんなところまで行ける気力も余裕もなかったので、結局、川での水浴びをシャワー代わりにする事になった。しかし、後半の一週間はやはり面倒くさくなって、身体も洗わずにいたもんだから、東京に帰って来たときは、家族総出で迎えに来てくれたのだけど、みんなの鼻がもぎとれるくらい臭かったんだって。今でも突然思い出したかのように母親に言われる事があるのでやはりよっぽど臭かったんだろう。

 キャンプも終盤に差し掛かってきた頃に開催された全体ハイキングの時、アブに目の上を刺された。だんだん痛みも強くなり、みるみるうちに腫れあがり、ついには視界が消えてしまった。病院も何もない山奥でのこの状況がいっそうの不安を感じさせ、自然に泣けてきた。そろそろ精神力も限界に達してきていた。
そんな泣き言を言っている僕をダイハチがひょいっとおんぶしてくれて、「行くぞ!がんばれ!」と言って救急隊のところまで走って連れて行ってくれた。
ダイハチ!カッコいい!やる時はやるのだ!

 小学生の自分にとっては苦行でしかなかったこの謎のキャンプもついに帰りの日を迎えようとしていた。
 最終日のキャンプファイヤーの夜、あまりにも濃かったこの二週間、たまに楽しく、そしてほぼ辛い日々を思い出し、感極まって号泣してしまった。やっと帰れる、という安堵の気持ちからなのか、苦楽を共にしたみんなやダイハチとの別れが寂しかったからなのか分からないけれど、溜まっていた色んな感情が一気に溢れ出した。
 特にこの頃は、人前では泣かない方だったのだけど、このキャンプの間だけで一生分泣いたんじゃないかな、と思うほどだった。

 結果的にこの訳の分からない北海道武者修行の旅が僕の精神力を大きく成長させてくれたのは間違いないだろう。

 無事に、2週間の任期(笑)を終え、まだ、キャンプ場に残る仲間達に申し訳なさげにテントを後にする。(キャンプの期間は、2ヶ月間過ごす人、4週間の人、僕みたいに最短2週間の人、それぞれだった。)

 帰りの船に乗り込むやいなや、言うまでもなく真っ先にゲームコーナーに走った。しかし、期待していたスパルタンXのゲームはなく、この2日間どうやって過ごしたらいいんだという絶望感を覚えた。

 千葉の港に到着して、船を降りると父、母、兄が迎えに来てくれていた。
帰ってくるまでは、家族の顔を見た瞬間、号泣するんだろうなぁと漠然と思っていたんだけど、意外にも涙は出なかった。
むしろ、小学生ながらに、しっかりとやり切って帰って来たんだ、という達成感と自信でいっぱいだった。
 (余談だけど、今思うと家族が全員揃った記憶って殆どないので、あの帰りの車のなかは貴重な時間だったなぁ。)

 僕が東京へ帰ってからその一週間後、キャンプ参加者達が『町』に向かって歩いているところに車が突っ込んで数人が重軽傷を負うという大事故が起こった。その中に僕と同じ班の友人もいて、あわや一命を落とすところだった。
この事件がきっかけでこのキャンプは閉鎖される事になる。


●粗大ごみ置き場とボク
 当時は、粗大ゴミ置き場というものが存在していて、冷蔵庫だろうがベッドだろうが、なんでもかんでも、好きな時に好きなだけ粗大ごみが捨てられる時代だった。特に、僕が住んでいたところは、7000世帯を超えるマンモス団地だったので、粗大ゴミ置き場だけでも20箇所以上あって、色んな人が色んなものを捨てていた。

 僕にとっては毎日が宝探しみたいなものだった。今でもあの時のワクワク感は忘れられない。使えそうなものは、森の中に作った秘密基地に運んだり、自分の部屋に持ち帰ったりした。家で使っていたラジカセやレコードプレイヤーは殆ど拾ってきたものだったりしたし、挙句の果てには、通っていた塾にも持ち込んで置いたりしていた。
 回収日が間近になると、粗大ゴミが山積みにされている時もあった。もう3mくらいの宝の山だ。そこをよじ上って、下の方にお宝が埋まってるんじゃないかって、掘って掘って掘りまくったりもした。
酷い時は部屋がたくさんのラジカセで溢れかえったりもした。あぁ、本当に楽しかったなぁ。

 そんな中でも一番印象に残っている粗大ゴミは8ミリの映写機だった。それを発見した瞬間は見た目だけでもえらく興奮したのだけれど、どうせ壊れているんだろうなぁと期待せずに、とりあえず家に持ち帰ってドキドキしながらコンセントに繋いでみたら電源は入るもののやっぱり動かなかった。
どのみち故障しているので、ドライバーで分解してガチャガチャやっていたら、なんのきっかけか分からないけど動くようになって、これまたえらく興奮した。しかし、やっぱりすぐフィルムが絡まってしまう。それでも、子供のオモチャとしては充分に高価なものだった。フィルムにはアラレちゃんの映像が入っていて、何回も何回も同じストーリーを観た。あんなに繰り返し見ていたのに内容はまったく覚えてないから不思議なんだけど。

 また、倒産したまま廃墟化したホームセンターに商品が残ったまま放置されているという噂を聞いて、ワクワクしながら夜中に忍び込んだんだけど、僕が行った時には散々荒らされた後で、何も残っておらず、ガッカリして帰ろうとしたところ、レジカウンター内に業務用のVHSダビング機を発見した。うぉ!これはすごいお宝が残っていたものだ。ただ、この機械がバカでかいし、かなりの重量で、まさかこれを持って帰ろうとは、誰も思いもしなかったんだろう。
 当時は、ビデオデッキがとても高価なもので、二台持ちなんてできなかった時代だった。そのため、こういう所に持ち込んで有料でダビングしてもらったりしていた。
 このダビングマシーンが自分の部屋にある事を想像しただけでワクワクが止まらなくなり、どうしても手に入れたくなった。細かく配線されたコードを外し、大きく分解して、数日に分けて持ち出す作戦を決行した。
 無事に全ての機器を自分の部屋に運び終え、複雑な配線を再び接続して電源に繋げてみると、なんの支障もなく起動した。
 それからは、多くの友人がダビングをお願いしてくるようになった。依頼されるのは無論、殆どすべてがエロビデオだったので、自然と僕のところに沢山のエロビデオが集まってきた。
(今でこそアダルトビデオの事をAVって言うけれども、昔はエロビデオとかエロビと言っていた。)
 ある日、友人のエロビデオをダビングする時に、音量をゼロまで絞ることを忘れたまま出かけてしまった。音声が漏れている状態の部屋に母親が入ってしまい、帰ってきた時に、あんた、変な音がずっと流れてるよ、いい加減にしなさい!って。もう本当に恥ずかしくてしょうがなかった。

スパルタ塾とボク
 中学生になると母親にケツピン塾と言うスパルタ塾に入塾させられた。
男も女も関係なく、スリッパやメガホンで頭を引っ叩かれる。塾での模擬試験の点数が悪かったりすると容赦なくケツピンをされるのだ。
 例えばテストの合格点が80点だとする。自分の点数が60点だと合格点に足りてない分の20発が罰としてケツピンされる事になる。
 ケツピンに使われるケツピン棒はふとん叩きを改良したものだった。改良したと言ってもなんてことはない。布団を叩く広がってる方を持ち手にする。ちょうど大きい穴二つに親指と4本の指を通すと持ちやすいらしい。強度を増すために、ビニールテープでぐるぐる巻くとケツピン棒の完成だ。
このビニールテープの色はやはり黒の時が一番恐怖心を煽った。
しかも、皮肉なもので、このケツピン棒を作るのは生徒の役目であり、さらには、ケツピンをしている最中にケツピン棒が折れる事がしばしばあったのだけど、「おまえ買ってこーいーー!」と言われ、自分のケツを叩くケツピン棒を自ら買いに行くという理不尽なことをやらされていた。

 このケツピン塾へ行くことによって磨かれたのは尻のテカりや成績だけではない。カンニングのテクニックを鍛える事にも必死だった。カンニングをしてでもケツピンを免れたかったし、それ以上に塾長にしごかれるのが恐ろしかった。
 一番多くやったカンニングが、消しゴムに解けない問題の番号をエンピツで書いて、テーブルの上を滑らせて隣の席のやつにシュッとパスする。相棒が答えを素早く書いてシュッと返してくる。もはや映画でよく見るようなアレをリアルの世界でやっていた。パスを受け取れずにうっかり床に落としてしまった時はもう大惨事なんだけど。
 当時の親友の谷口は、僕の誘いでこの塾に入る事になったのだけど、基本的に成績優秀なやつだったので、3年間、一方的にカンニングでお世話になりっぱなしだった。ただ、不思議なのが、この塾でのカンニングは一番の重罪だった事を考えると、なんでリスクを背負ってまで僕に協力してくれていたのか本当に謎である。純粋にひたすらいいやつだったに違いない。

 パンツにタオルを縫いこみ、ケツピンの威力を緩和させるパンツも作った。しかし、そんな事にさえテクニックが必要だった。分厚すぎるタオルを仕込ませすぎると、ケツピンされた時に、ぱすっぱすっ、という明らかに空気を含んだ音で塾長にバレてしまう。
なので、縫い込んだ後も家でシュミレーションをして、適度な調整が必要になる。因みに、タオルを縫いこんでくれるのも、シミュレーションでケツを叩いてくれるのも母親なのだけれど。それなら思う。ケツピン塾なかに行かせるなよと。
 たまに入塾したばかりの浅はかな新人がタオルの仕込みの量に失敗し、ケツピンされた時にバフバフと不自然な音をならす。当然、塾長はブチ切れて、「あ~あ~あ~おまえ、舐めてんのかー!?」と言って、逆上してタオルが入っていないケツよりも下の太ももを何発も引っぱたく。こうなったら最悪だ。太ももに見事なミミズ腫れを作り泣くことになる。もちろんかくいう僕も経験者である。

 カンニングが見つかったり、遅刻の理由がウソだとバレたりした時は、それはもう悲惨であり、先輩ケツピンという拷問にかけられる事になる。
 普段からケツピンされてばかりで、うっぷんが溜まっている先輩達が列を作り、一人一発ずつ、会心の一撃のケツピンをくらわしてくるのである。走り込んでケツピンしてくる輩もいるもんだから、ケツにあたらずに太ももや背中にくらう事もある。もう、本当にたまったもんじゃない。痛みと悔しさで陰で泣いたりした事もあった。

 なんでそこまでされても、塾に通い続ける事ができるのか。それは、単純な事なんだけど、ズバリこの塾に通っていると成績が上がるからだ。
ケツピンされたくない一心で、勉強するのも事実。僕の成績もぐんぐんあがって行き最高では全学年500人中6番までなったし、平均しても30番台から後ろに行くことはなかった。

 面白いのが、この塾長がただただ怖いだけではない。
基本的にはユニーク、もとい変人なのだ。勿論ケツピンされること自体は恐怖なのだけれど、塾長自身が変態なので、塾へ行くのがひたすら嫌なわけではなかった。
そもそも、塾なのに自習室に漫画が数百冊置いてあり、しかも、半強制的に読まされる漫画があったりもしたくらいだ。にも関わらず、自習していると魔がさして漫画を読んでしまう事があるのだけど、それが見つかるとケツピンされたりもした。それなら、漫画置くなよ!
こんな具合でとにかく無茶苦茶だった。
 ただ、この塾長の漫画のセレクトが本当によくて、僕が最も影響を受けたと言ったも過言ではない漫画「暴力大将」はバイブルとなった。

 ここまで気合いの入った塾長だ。もちろん様々な武勇伝や、伝説もあった。退塾した生徒が逆恨みで仲間を連れて仕返しに着たり、暴走族がバイクにまたがって、冷やかしに来るという事もしばしば。そんなヤンキー達を一人で返り討ちにしたって伝説もあるし、実際に僕もその現場に居合わせた事もあって冷や冷やしたのを覚えている。バットを片手にガラっと扉を開けて「おぅ?お前ら何しに来たー?」って一蹴したりもしていた。
中学生のケツをペンペンしているただの弱い者いじめではなく純粋に強くて男気の強い部分もあった。

ケツピン塾では、努力するという事を覚え、厳しさの中でも自由に楽しむ事も学んだ。何百発ケツピンされたかは計り知れないけれど、不思議と塾長の事を憎んだり恨んだ事は一度もない。愛に溢れた人ってわけでは決してなかったけど、純粋におもろい人だった。
少なからず、僕はこの塾長の事を尊敬しているし影響も大きく受けている。

母ちゃんの育て方もそうだけど、厳しさの中に楽しさを見つける事って大事なんだと思う。

最近、このケツピン塾へ行ってみたら塾があった場所は更地になっていて跡形もなく消えていた。

幼少期の夢とボク
 小中校の頃は本気で漫画家を目指していたのだけど、絵の才能は本当になかった。あんなに毎日何時間も描いていたし、何よりもあんなに好きだったのに何故上達しなかったんだろう?やっぱり向き不向きってあるんだなって思う。好きこそものの上手なれって言葉。あれ、半分嘘だ。
 しかし、恐ろしいことに当時は、自分で絵が上手いと思っていたから手が付けられない。描いた漫画を得意げにクラスの友達に回し読みさせて、ご丁寧に一番後ろのページに名簿を作って感想まで書かせていた。
今見ると内容も作画も顔から火が出るレベルで酷いんだけど、思い出しただけでも「うわぁーーーーーーー!」叫びたくなる。  
好きこそ物の向き不向き!

オタク、ヤンキー、時々ボク
 中学校でのボクのポジションは、特にどのグループに属するわけでもなく、ヤンキーの仲間も多くいたし、オタクの友人や、成績優秀のいわゆるガリ勉のやつらとも親交が深かった。
つまり親友と呼べるような友人がいなかったわけなのだけれど、良く言えば別け隔てなく派閥を作らずに色んな友達との付き合いを大切にしていた。その方が色んなインプットがあって純粋に楽しいと思っていた。
 当然、その時々でつるむグループによって全く別の遊び方をしていた。ヤンキーのヤツらとは、ゲーセンでたむろったり、それこそビーバップハイスクールさながら他校にケンカを売りに行ったりもした。騒ぎになり、地元のパトカーが総出動し、仲間の殆どが捕まっちゃったのだけど、上っ面だけで根性無しだった僕は、泣きながら必死に走って逃げ延びた。ここで捕まったら少年院行きだ!一生を棒にふってしまうと大袈裟に本気で思っていたのだ。
 オタクなやつらとは地元のおもちゃ屋にいりびたってゲームをしたり、アニメや漫画の話しをしたり、また彼らからBASICというプログラムを習ったりもした。ハマりすぎてポケットコンピューターというポータブルパソコンを秋葉原で父親に買ってもらったりもした。
 ガリ勉なやつらとも普通に遊んだし、勉強を一緒にしたりもした。一見、不真面目そうに見られていた僕も、教育熱心な母親とケツピン塾のおかげで優秀な成績を保ち、なんとなく一目おかれる存在になっていた。

 決して、すべてにおいて秀でていたものはなかったのだけれども、この頃の交友関係の影響から、何に対してでも興味を持つようになったのだと思う。

オタクでありながら身体を動かすこともするし、
引きこもりながらも世界一周にも行ってしまう。
経営をしながらも、自由に動き回ったり、一輪車まで本気で初めてしまう。
 ジャンル問わず色んな人やコトに興味を持って追求したり、仲良くなるというスタンスは、僕のアイデンティの一部であり、今も昔も変わらない。


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