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日記:5月9日(日)~5月15日(土)

5月9日(日)
ニジガク2期決定!!!最高!!!!これまでのシリーズを見れば2期はやるんだろうなとは思っていたんだけど、実際の所どうなのかは分かり様が無かったので本当に決まって良かった。来年まで生きる意味を見出した気分だ。今後はまちカドまぞく2期、ヤマノススメ4期のみならずニジガクの為にも命を繋いでいかなければならない。
昼間は無性に眠くなる。昼間眠くなって夜が遅ければ遅いほど目が覚めてくる。実際昼は寝ていないし夜は何だかんだちゃんと寝ているので昼夜逆転はしていないけど何とかしたいな。体まで逆張りしてどうするんだよ・・・。漫画家とか小説家みたいに、家で仕事をしていたら昼夜逆転していたかもしれない。


5月10日(月)
歳を取ると感性が鈍ってくると思う。昔は楽しめたものが今では興味を持てなくなったり、理解出来なくなったりしてくる。例えば最近の音楽はどれも同じように聞こえるとか、最近のお笑いは意味が分からないとか。これは自分にも起こりうる事なので他人事ではない。普段アニメばかり見ているが、いつの日か見ても何も感じなくなったり、興味が持てなくなったりするのではないかと気がかりでいる。しかしもう10年もアニメばかり見る生活を送っているのでまだまだやめられそうにない。
前から考えていた事だけど、いざアニメに興味が無くなったら毎日映画を観て過ごそうと考えている。90~120分なら普段アニメを見ている時間とそんなに変わらないし。でもまだその時は来そうにない。


5月11日(火)
YMOの本を読み進めて何とか半分以上は読み終わった。1980年前後の時点で海外から日本人は没個性的で集団行動をするといったステレオタイプを持たれていたらしく、そういうのを逆手にとってYMOはあえて演出に盛り込んだりしていたが、そうしたステレオタイプは40年経った今もさほど変わらないと思う。小学生の頃ですら周りと同じ事が出来ない子は目を付けられてからかわれる対象になっていたので、集団に属する事を重んじて育ってくると集団行動や同調圧力から脱するのは簡単ではない。よく「同調圧力に屈するな!」と警告しているネットの人間を見るが、同調圧力に屈するなという言葉で同調圧力をかけていることを当人は気づいているだろうか。個を殺し集団に属する事を受動的な行動と見て、あえて周りと隔たりを作り、キャラ付けのように自分の個性を曝け出す事で自分は能動的に動いていると思っている人もいるが、そういった態度こそ受動的ではないだろうか。個性を出そうと何にでも逆張りをして目立とうとする人間がネットにはたくさんいるが、沢山いるが為に逆に没個性になっている。自分は大丈夫と思っていても傍から見れば他の人間と変わらない人は多い。こんな事言い出したら何も言えないけどね。


5月12日(水)
日記と称しておきながら全然日記になっていない。そもそも毎日同じような事をやっているから書き留めておくような事をしていない。もうどうすればいいのか分からない。
明けない夜は無いとか、止まない雨は無いといった手垢の付いた使い古しの言葉があるけど、自分としては生まれてからずっと夜だしずっと雨の気分でいる。米津玄師の「眼福」の”明日なんて見たこともないのにさ
随分あっけらかんとしてるわ”というフレーズを思い出す。だから必ず夜は明けると言われても、夜明けなんて見た事も無いのにあっけらかんとしていると思うだけだ。世界がどうのこうのよりも自分の半径数メートルで起きている事が一番大事だし、自分の世界はそれだけでいいと思う。それこそ、”あなたのいる未来がただこの目に映るくらいでいい”と歌った眼福みたいに。


5月13日(木)
物心ついた頃から、自分と馬が合わない人間とは一切関わらないようにするし何ならその人の事全てを否定するといった幼稚さをずっと抱えている。小学生の時も生活班で1人も仲が良い子がいなかったら、仲良くなろうとはせず一言もしゃべらず1日中黙ってやり過ごしていた。
今は人間関係が希薄で新しく友達が出来る事もないからそういった事は無くなってきている。むしろ自分が望んでいた形に落ち着いてきたのかもしれない。今の職場はかなり周りの人間に恵まれているのでそういった事は無いが、前の職場ではとにかく関わりたくない人だらけで業務外で話をするくらい仲が良い同期もいなかったし完全に孤立していた。大人になっても小学生の頃と変わらないんだからどうしようもない。もちろんこのままではいけないと思っているが死ぬまで直らないのではないかとどこかで諦めている気持ちもある。米津玄師も1stアルバムを出した頃は、結局(他人とは)どうやっても分かり合えないと語っていたが、数年前からは自分と対岸にいる人を理解するといった事を話していた。これは角が取れて丸くなったとかそういう話ではなく、本来変わるべき姿に変わっていっただけなのだ。自分はいつまで行方の無い鳥になるのだろうか。


5月14日(金)
最近は坂本慎太郎の『ナマで踊ろう』を繰り返し聴いている。恥ずかしながら初めて聴いたのが1か月くらい前の事だ。2014年リリースのアルバムで当時の空気感を詰め込んだと思われるが、リリースから7年経とうとしている今聴いても当時と何も変わっていないと思うし、これからもあの頃と何も変わっていないと思い続けるのだろう。そういった意味では一過性ではなく今後も残っていく普遍的なメッセージを込めたアルバムと言っていいと思う。残念ながらとか皮肉にも普遍的と言った方がいいのだろうか?
『幻とのつきあい方』でも”幻を扱う仕事には気をつけよう”というフレーズだけでドキッとしたが、今作は全曲に渡ってそうしたメッセージが込められていると思う。ピチカートファイヴの『東京は夜の7時』では会えていないから早くあなたに会いたいと繰り返していたように、『この世はもっと素敵なはず』でも、素敵じゃないから素敵なはずと繰り返すと思うとそこには喪失感や虚無しかない。今後もずっと鳴り続けるのだろう。それこそ人類が滅亡した後にも鳴っているかもしれない。


5月15日(土)
どうして自分の日記と称した文章はこうも暗いのだろうと悲しくなってくる。もう既にこの出だしから暗いのだが。この1週間で感情が昂った出来事といえばニジガクの2期が決まった事くらいだし・・・。とりあえず何か言いたい事のタンクが空になるまで書き続けなければいけないんだと思う。
今日は本屋に行って色々買ってきた。最近は読書にハマっているので色々読みたい気持ちはあるのだが、気持ちが先走って積み本を増やしてしまっている。土日で読み進めていかねば。

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