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日記:6月13日(日)~6月19日(土)

6月13日(日)
定期的にやって来る結婚について考えるタイムが来てしまった。第n回目を迎える今回もこの問題は平行線をたどった。とにかくどうすればいいのか分からない。職場にも出会いが無い、誰か紹介してくれる友達もいない、そもそも友達自体が・・・。
この歳になって交際経験がないというのも恥ずかしい話で、歳を取れば取るほどその恥ずかしさが膨れ上がってくるのだが、これも自業自得だ。将来の事を蔑ろにして好きな事をし続けた結果がこれなのだからどうしようもない。そしてどうすればいいと考えながらも足は動かない。結局何回考えても行動に移そうとしないのだから本当にどうしようもない。そもそも一人の時間が好きなのにいきなり誰かとずっと一緒にいられるか?その人に時間を取られたといって心が病まないか?長続きするか?経験がないのだから考えたって分かるはずがない。分からない事と行動に移さない事しか分からない。

6月14日(月)
今日は有給を取ったので休みだった。平日に家にいると前の会社を辞めてから今の会社に入るまで転職活動をしていた時の事を思い出してしまう。なかなか転職先が決まらず、ハロワークか企業説明会、採用面接などの予定がないとずっと家にいたのでその頃の記憶がフラッシュバックしてしまう。前に転職をした友人が、次の職場に就くまでの1,2か月間に何もせずずっと家にいていいのかという罪悪感に苛まれていたらしい。自分もそういう気持ちはあったけど、段々とずっと家にいられる気持ちになってしまっていて、何なら後者の方の気持ちが強くなっていたので自分はニートに向いているかもしれない。まあもちろんそんなわけにはいかないし、今後もなる予定は無いが・・・。ニートの適正があっても嬉しくないな・・・。


6月15日(火)
お急ぎ便の力で米津玄師の新譜をフラゲした。今回はリボン盤を買ったが、予想より大きかった。棚に入らないからどこにしまおうか悩む。こうやって物として拘ったものを出されると、例えサブスクで聴けると分かっていながらもCDで買う意義がある。歌詞カードを見ると通常なら1曲の歌詞を1,2ページに収めるが、今回の表題曲Pale Blueが1番と2番で場面が切り替わる事からあえて2番以降をめくった次のページに載せるという仕様になっていて徹底した拘りを感じた。それでいて3曲とも良いし、これまでやっていなかった表現にも挑戦していてハッとさせられる。ここまで名前が広まって今や国民的アーティストとして扱われるようになってもなお新たな表現に挑むのを見ると、これからどこまで行くんだろうなと楽しみになる。

6月16日(水)
一度道を踏み外した人間の再起や復活を認めようとしない人間はまあまあ多い。その人の過ちは許されないし無かった事に出来ないのはもちろんだが、今後の人生で償いながら汚名返上をする機会を得るのは許されていいはずだ。しかしそうはいかないと待ったをかけるどころか足を引っ張る人間もいる。それは正義感故か、はたまた自分より下の者をずっと下の者として扱いたいのか。
前も言ったけど世の中は善か悪か、白か黒かの二元論だけで語れるものではないはずだ。オセロみたいに簡単に周りの人間を挟み込んで黒に出来たらたまった物ではない。一度経過観察をするという選択も出来るはずだし、そもそも足を引っ張るような人間だって社会的なモラトリアムの元でいろんなことを許されながら生きてきたはずだ。
何か正義感溢れる感じになったけど、他人にあまり興味が無いので道はズレた人がその後どう更生するかまでの興味は無い。この現状を打破する解決案だって持っていない。ただ、二元論だけで話が進んでいくのは怖いなと思っただけ。

6月17日(木)
母親が今年2歳になる親戚の子どもを見ては、自分の孫でも見ているかのような顔をする。現に服やらおもちゃやらを誕生日とかクリスマスとか何かある度に買って送っているので孫も同然なのかもしれない。それを見るとやっぱり孫が欲しいんだと思うのだが、今の自分には何もしてあげる事が出来ない。まず結婚もできなければ交際経験も無い時点で詰んでいるのだが、自分が親になれるのかというのが一番の不安だ。自分みたいな人間が子どもの教育など出来るだろうか、むしろ自分の方が教育される側ではないだろうかと考えて止まない。自分1人だけの時間が何よりも大事な人間が誰かと一緒に暮らして子どもの面倒まで見るなんて想像がつかない。それと同時に、親に対して、未だに異性と付き合った事も無く結婚も夢のまた夢で孫の顔も見せられない自分に申し訳なさもある。どうすればいいのか何も分からない。


6月18日(金)
前に好きな曲はあるけど好きなアーティストはいないという人が増えているみたいな話を聞いた事があった。自分にはその感覚がよく分からないけど、完全に作品と作者を分けて考えている典型だと思う。作品と作者は分けて考えるという人もいるが、自分としては作者がこれまでどのような人生を歩んで、どのようなものを見聞きして、どういう物に刺激を受けて生み出したか知りたい人間なのでそのように分けて考える事は出来ない。新譜を出したアーティストのインタビュー記事も読みまくるし。作者が人間的に最低な奴でそうした悪い印象が作品の評価にまで繋がってしまう事もあるかもしれない。実際、ツイッターをやっていた頃にある小説家を叩きに叩いて喚いていた人が「この人の作品を好きにならなくてよかった」みたいな事を言っていたのを見た事があるけど、その時はそんなムキにならなくてもと引いてしまった。そしてそういう事を言う人間を周りが付け上がらせるから余計に調子に乗るんだよな・・・と話がズレてくるのでこれ以上は自重する。
作品の出来と作者の人間性が伴わない事もあるかもしれないが、それもまた作品を享受する醍醐味の1つなのかもしれない。書いている途中で面倒になって適当に締めてしまった。

6月19日(土)
段々とネットに対して何か言うネタも無くなってきた。ツイッターをやっていた頃までの状況しか分からないから新しい情報が何も無いんだよな。ネットの人間が争っているのを見る為にツイッターに戻ってもいいかもしれないと逡巡したが答えはノーだった。わざわざ治安の悪い所に戻る必要は無いでしょう。
結局これまでの自分を突き動かしてきたのは厭世的な思考と、とにかくネットの人間を下に見る事で相対的に自分は正常だと自己暗示をかけることで心身の均衡を保って来たんだと思い知らされる。これからのネットもお互いの発言を監視しあってほんの些細な事で言い争いをして欲しい。世の中がめちゃくちゃになるほど自分みたいなはみ出し者は生きやすいし、相対的に自分は正常だと自己陶酔する事が出来る。酔っぱらってなきゃネットなんて出来ないよ。ホルモンのロック番狂わせは黒帯バンドを自分たちの所まで落とすという事を歌っていると亮君がインタビューで答えていた。だからみんなも自分の所まで落ちてきてくれ。みんなで落ちぶれれば自分はとても生きやすい。

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