当たり前



当たり前の水準が高くなるから、もっともっといろんなものが欲しくなるんだよな、人間って欲深いから、なんてふと思った。



ここ数日、症状がぶり返したかのようになってしまい、また生きるのが辛くなってしまった。

つらいなーって思ったら負けだと思って耐えてたけど、感情のベクトルが完全にマイナスだったゆえ、少しの刺激で感情がたかぶって本当生きるの向いてないってまた思ってしまった。よくない。





適応障害と診断されてから、新たに人と関わることに苦痛を覚えていた。

結局な、みたいなことが多かったせいか、人を信じることもやっぱり難しいなと感じていた、いや感じているか。今多分過去1思ってる。だからこそ信じたものは信じ切りたいとも思う。




新しいものをを得るにはなにかを捨てなきゃいけないのもわかってるから、なんとなくいろんなものを捨てた。物も人間関係も。

そんな感じでふと思ったのが冒頭の話。
いやもはや当たり前に快適な生活を送ることさえも、もしかしたらいらないんじゃないかと思った。

もう少し限界を見てみたら、見える世界も変わってくるんじゃないかなって思った。





そんなこと考えたらまたやりたいことが増えた。
いや、正確に言えば前からやりたかったけど踏みとどまっていたかな。

こればっかりは情勢もあるし、お金も必要だし、色々落ち着いてじゃないとできないなって思ったけど、これをやりたいって思ったら少し希望が見えた。

これは当たり前の生活を捨てる覚悟がなきゃできなそうなこと。いや、でも今ならできそう。わたしならって思った。迷いは無くなった。憧れてた世界線にいけることも近い。





生きるの向いてないなら生きやすいように生きよう。これをやるために生きよう。これで生活できたら多分楽しい。

わたしは多分惰性で生きれないから、どうせ生きるしかないなら好きなことしよう。そうやって生きてきたじゃん。

一般的な安定の幸せも、当たり前の生活も捨てたら少しは楽になれそう、大丈夫、明日も生きれる。



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