自尊心を獲得しようと規範や言葉と格闘するすべての人たちへ

* この記事は、2019年に韓国のメルマガ「アリババと30人のチングチング(친구친구)」連載で9月に配信されたものを、少し加筆修正した記事です。

この2年のあいだ、4月末頃に行われる東京レインボープライドのパレードで歩いた。「ハッピープラーイド!」と笑顔でハイタッチができるものと信じている人たちに対して、「自分は性的マイノリティに理解がある」と信じている人たちに対して、わたしは何度も「ハッピーじゃなくてもプライド!」と返した。日本において、そうした人たちの多くが口にする「LGBT」は、差異を認めたうえでの連帯の言葉ではなく、実態のない性的マイノリティの代名詞に過ぎないと感じられるから。
「プライド」という言葉が必要とされるとき、どこにどういうかたちで存在する困難ゆえか? と考えられたり知られる機会は、果たしてあるのだろうかと疑問が湧く。2019年7月24日、ジャネール・モネイのZepp Diversity Tokyoでのライブで、序盤の『Screwed』で「I’M DIRTY I’M PROUD」と背後のスクリーンに文字を写しながら歌うモネイの姿を見ながら、わたしはそんなことを考えながら泣いていた。
クリーンでもなく、クールでもなく、ハッピーでなくても、人はその生に誇りを持ってもいいはず。でも、「I’M DIRTY I’M PROUD」「ハッピーじゃなくてもプライド!」とわざわざ言わなければいけないのは、現実には、誇りを持って生きること自体を阻む偏見や社会構造や社会的処遇における差別が存在するからだ。

続く、畳み掛けるようにラップする『Django Jane』の終盤、モネイが「Let the vagina have a monologue」と言葉を吐き出すさまにも涙があふれた。わたしも自分のヴァジャイナに語らせたい、と。でも、そもそも一般的に性器の話はしにくいうえ、わたしにとっては、自分の非典型的なジェンダーとも関わる話題を経由する必要に迫られる場合も少なくなく、その躓きを想像すると性的欲求について語ることへのためらいは大きい。
一般的に、ヘテロセクシュアル(異性愛)の場合、わたしたちが誰かに「好意」を抱くとき、ロマンスが性的欲求より前面にあるという前提が共有されている。けれど、相手の身体が、性器の形状が、どういう状態かわからない場合、ロマンティックな感情から性的なふれあいに進むことに尻込みするのは想像がつく(その人のセクシュアリティやロマンティックな感情が、相手の身体を含めたジェンダーを問わない限り)。
わたしはまさにそうしたやりとりで、恋愛関係でうまくいかなかった経験が何度かある。性的欲求や好奇心を抱いていたけれど、わたしの身体の状態がどうなっているのか気になって、「恋愛対象として見れない」と踏み込まれなかった。身体はプライベートなものでもあるから、他人がずけずけと踏み込んだり尋ねて良いものでもないし、自分のヴァジャイナについて安心して語れる相手は限られているし、ことはそう単純ではない。
ほぼ女性的な身体と言えるだろうけれど妊娠・出産する能力ははなく、だから、典型的な「女性」として自分を認めることがわたしにはできない。さらに、性的欲求を向けられてもそれは「非日常な体験」とカッコにくくられたものばかりで、数回で飽きられる経験をこれまで何度も重ね、安定的な関係性を築いた経験もない。自分の非典型なジェンダーゆえに、恋愛関係に踏み込もうとしたときに否定される未来を恐れて、そばにいられるだけでも良いと自分の欲望を軽視してきた。

パフォーマンスし続ける2時間のあいだ、ジャネール・モネイの身体は、ダンスは、歌は最高の娯楽でありながら、同時に社会的なメッセージも発していた。個人のジェンダーとセクシュアリティは、政治の問題でもあるのだと訴え続けている、とわたしには感じられた。
モネイが、ファンキーな傑作『Q.U.E.E.N』で「Queens!」と呼びかけるとき、ドラァグクイーンやヴォーギングが生まれた社会背景にあった、性的マイノリティへの差別の歴史がその声には流れていた。ジェンダーは本質的なものではなく、身ぶりや動きや服装などによってパーフォマンス性を持つ社会的な構築物なのだと。
『Pynk』の歌詞は明らかにヴァジャイナを祝福して隠す必要のないものとするし、『I Got The Juice』の「ジュース」はセクシュアルなニュアンスを漂わせながら、アメリカの黒人への差別の歴史から生まれたストリートカルチャーにおける「尊敬」や「力」の意と絡み合う。

その『I Got The Juice』の際、4人の観客がステージに上がり、思い思いにパフォーマンスする余興があった。公演後、ツイッター上でブラックミュージックに詳しいあるライターが、そのうち一人の白人を指して「ゲイ」と書いた。わたしは違和感を持った。ステージでは自称されてなかったのに、そのライターは、白人で男性と見える姿の人物が、くねっとした振る舞いやヴォーギングをする様子から断言したのだと思う。
確かに、ゲイコミュニティで生まれ、根づいている「ゲイっぽい」振る舞いというのはあるだろうし、そのことで自尊心を得てきた人もいたり、そのライターの方が判断したように「経験的知識」として軽視はできないとも思う。しかしやはり、「同性に好意を抱く男性は女っぽい」という偏見が横たわっていることを、わたしは看過できない。
歴史的に、シスジェンダーであるゲイ男性とトランスジェンダー女性が(当事者のあいだでも)同一視されてきたけれど、ジェンダーとセクシュアリティは基本的には異なるもの。だから、「同性に好意を抱く男性がマッチョ」ということもあれば「異性に好意を抱く男性がフェミニン」ということだってあるはず。「同性に好意を抱く男性は女っぽい」という偏見やステレオタイプは、ゲイ男性を縛るだけでなく、ヘテロの男性をもジェンダー規範で縛る。細い身体や高い声を持つ男性が「男っぽくない」と揶揄されてしまうように。
特に日本では、出生時に「男性」とされたものたちとして、(シス)ゲイ男性とトランス女性をひとまとめにした「オネエ」「オカマ」という呼び名で嘲笑や蔑視のイメージとしてメディアで広がっていて、こうしたジェンダー規範はトランス女性を抑圧する。通常は、シスジェンダーのゲイ男性は自身のセクシュアリティを言葉や行為として明かさなければ、異性愛中心の一般社会に同化できる一方、有徴性の高いトランス女性からは、すれ違いざまに「オカマかよ」と吐き捨てるように侮蔑される経験を聞く。
常日頃、少なくないトランス女性たちは、振る舞いや容姿によって「女性として相応しいか?」とジャッジする視線に晒され、「いかに男っぽいか」と粗探しをされやすい。だから少しでも「シス女性」に同化しようと美容や服装に気を遣い、場合によっては美容整形を繰り返す。しかし、同化しようとするからこそ、また美容は自己表現と理解される面もあるから、そういった視線と向き合う経験の困難は可視化されにくく、社会における構造上の問題として伝わらない。「女っぽさを過剰に体現している」とシス女性のフェミニストに批判・攻撃の対象と見なされることもある。

確かに、わたしもその4人を「黒人女性、白人男性、アジア人女性、車椅子に乗ったアジア人男性」と見た。しかし、そこには男/女二元のジェンダーに規定できないノンバイナリーや、肌の色で大別できないさまざまな文化的背景が、個々の身体にあったかもしれない。社会的な権力構造を踏まえず、誰かを属性で名指すとき、本人の尊厳を損なう暴力的な眼差しが生まれる可能性がある。

モネイはライブで、「女性」「トランス女性」とふたつの言葉を使い、意識的にトランスジェンダーへの祝福の声をかけていた。これは、トランスジェンダーの女性は女性に含まれるけれど、なかでもトランスと女性の複合的な差別を考慮してのことだろうとわたしは理解した。音楽やパフォーマンスによって、モネイの言う「ユニティ」がステージと観客席に生まれていたと思うけれど、同時に厳然と存在する「差異」が、その言葉の奥で意識されていたと思う。「黒人」とひとまとめにせず「Black people」「Brown people」と微妙な差異をはっきり口にしていたことからも、推測がつく。「LGBTQIA+の人々」ともモネイは呼びかけたけれど、きっとそこにもそれぞれのカテゴリーの中/間の差異も考えられていただろう。
モネイの音楽は、祝福の声は、性的マイノリティやアメリカの黒人差別に対する権利運動の歴史や現実の課題と向き合ったものだと思う。例えば、ステージ後方のスクリーンに表示されていたピンク色の三角形は、反転させると、かつてナチスによって同性愛者を差別するために使われ、性的マイノリティの運動の文脈でポジティブに読み替えられたピンクトライアングルを想起させたように。
ジェンダーやセクシュアリティをめぐって、自尊心を獲得しようと規範や言葉と格闘してきた個人や運動の歴史を踏まえて、モネイの表現を読み解く言説がもっと必要ではないだろうか。どれだけの観客があのモネイの呼びかけに対して、言葉だけの「連帯」や「祝福」ではなく、現実と向き合おうと考えただろうと、疑問が残った。

『Cold War』を聴きながら、ライブでモネイが「Keep Fighting」と言った声を思い出す。わたし(はもちろん多くの人)にとって、恋愛やセックスは信頼や安心と切り離せるものではなく(“I’m trying find my peace”)自尊心を得る経験にもなり得るはずなのに、取るに足らないものだと感じてしまっていた(“I was made to belive there’s something wrong with me”)。
ここ1年近く日本では(改稿している2020年7月現在はさらに)、トランスジェンダー女性を排除する言説がネットを中心に過熱して見えるけれど、トランス女性の実態とは遠い言葉だと感じられる。
「ニューハーフ」や「シーメール」といったポルノやセックスワークの文脈でセクシュアルな存在としてのみ、あるいは社会構造上の不遇を強いられている存在としてのみ語られる、トランス女性像。そうした言葉からわたしは距離を置きたかった。自分をそのなかで、トランス女性と規定したくも、されたくもなかった。けれどモネイのライブでは、自分の内に存在する性的欲求や恋愛感情も含めて、生まれて初めて、公的な空間で「トランス女性」であることを祝福されたと感じた(この後わたしは女性的なノンバイナリー:trans fem nonbinary personとして自己規定し直すのだけど)。

最後の曲『Come Alive』を観客と歌うために、モネイはステージを降りて観客席を歩き、共に地べたに座った。「スターと観客」と分断する姿勢ではなく、同じ地平にいることを行動で示すモネイの態度は、ライブ中ずっと一貫していた。わたしはこの夜のことを一生忘れたくない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?