感情で書いてしまう。 それってどうなの?いいの悪いの?

ジャニーズが好きだ!
なんで好きか?好きだから。本当に理由なんてない。気付いたら好きだった。

こんな風に書いてたら、頭が悪いって思われるのかなぁ。

昨日は、大学の課題の小論文の返却日。小論文の添削をして下さった先生から全体へ一言。
「この課題は皆さんの日記ではないので…中には自分自身の気付きを与えてくれる文章もありましたが、半分は10回ぐらい読んでも理解しにくい文章でした。私は何度も読み返しました。
皆さん、文章はちゃんと読み返しましょう…」

話はちゃんと耳では聞いていたけど、心の中では、はぁ…と、はぁ?そんな言い方しなくても、よくないですか?という感情が飛び出た。

なんでそんな感情が生まれたのか帰り道考えてみた。
1つは、ちょっとは期待していたから。文章を認めてもらえて、自分自身を認めてもらえるって。
でも、先生の示す"日記"のような文章を書いていたのは紛れもなく自分だった。
すぐに答えは見つかった。小論文の中に"先生に認めてもらいたい"という感情が紛れていたから。

怒りのような気持ちは何だったんだろう。
先生は見た目、声からして感情的に語ったりするような人ではない、たぶん。いや、感情を隠しているのかもしれないけど見え隠れしている感じがする。
わたしの頭の中は妄想パラダイスなため、およそ100人くらいの教室内で先生が仰った言葉の矛先は、私にしか向けられていなかったかのように感じてしまった。先生の言葉には冷たさもあり、でも顔では不自然な笑顔を浮かべていた。
この時、人間同士が100%理解し合えることはないんだと悟った。その瞬間悟ったから、先生!あなたと私は違います。私の書く文章なんてあなたに分からなくていいです。と心の中で言った。

というのも全部妄想であり、本当は私の小論文のことなんか頭の片隅にも置いてなかったかもしれない。

(じつは、小論文の最後に赤ペンで「〇〇の発想は面白い」と書かれていたのが、本当はちょっと嬉しかったりしたから、ちょっと望みはあるかなぁなんて思った。)

結論(ここまでの色々を踏まえ)、今は、感情を表現してなんぼ!という気持ちになっている。
ただ反省しているのは、誰かに認めてもらうために書いたということ。理解してもらおうという感情が勝ちすぎてしまったことだ。ただ、文章の本来の目的は文を読んでもらうことである(昨日帰ってからすぐにググった「文章力 ない」)から、間違ってはないのだけれど…
面白いって言ってもらえるなら面白さは無くさず、でも読んでもらえる面白さを追求しよう。なんてポジティブな考えを持ちながら、街灯やデパートの明かりが広がる帰り道を歩いた昨夜であった。



最後に、先生に最も理解してほしかったことを、文章で書いてみる。

「私は探しています、世界のどこかに。私のことを認めてくれる人を。
伝えてもどうしようもないことだと分かっていますが、ただ"探している"という思いを抱えたまま筆を走らせてしまいました。先生にとっては不必要であった私の個人的な感情の混ざった文章を読ませてしまいすみませんでした。」

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