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女の裸の像を作る人間のずるさ

最寄駅の前の広場に、女の裸の像がある。毎日私はその前を通る、今日もいつもどおりその前をただ歩いて通り過ぎる、通り過ぎたのだったが、ふと、その女の裸の像を何ともなしに見上げた。いつも目に入ってはいたが、今日はなんか、見た。見て、裸だなと思った。
女の裸の像は、ただ裸だった。本当に裸だった。本当に、何も一切まとっていない、本当に裸だった。本当に裸のその像を見て、ふと、なんだかものすごく、ずるさ、という言葉が浮かんできた。ずるさ。女の裸の像の向こうに、それを作った人間のずるさが見えた。

女の芸術家だったら、というか、女の身体を持つ芸術家だったら、こんなにもただ裸な像を作ったりしない気がしたのである。女の身体を持つ人間は、女の身体、女の身体そのものが何も語らないただ身体だということを思い知っている、気がする。身体はただたまたま与えられた、割り振られたもの、自分で選んだわけではなくただ割り振られてただ長い時間の中で徐々に大きく伸ばされていき今の形に至った、もの。に過ぎない。なのでその身体を表面的になぞった形態が何かを語りうる、という発想に、女の身体を持つ人間は至らないと思うのである。(その身体そのもの、時間をともなった、時間を共にしてきたあらゆる証拠をそのもの自身に内包した、物体としての身体そのものが何かを語ることは大いにありうるが)
女の身体の表象的な形に対して思想、幻想、ドラマを持たせるという、発想、発想はその身体を持たないからこそしでかすことができる。自分のものではない、その形が自分のものではないという安心があるから、その形に対しある意味無遠慮に名付け、価値付けすることができる、のではないかと思う。その形そのものが本来体現することのない飛躍したテーマ、支離滅裂なテーマ、本来の身体の機能を超えた価値付けをするかのようなテーマを堂々とその形に冠することができるのは、その身体を持たないからできる、その形が自分とはなんら無関係であるという思い込みによってできることのように見える。

一切をまとわない、明らかな裸。明らかな裸の形に、語らせる。思想を。それを作った芸術家の、思想、を、芸術家本人の、自分の身体ではなく、借り物の裸、自分のものではない裸、ただその形をなぞっただけの形態、借り物の形態に、語らせる。芸術家自身は裸になることもなく、目の前の借り物の裸に、語らせようとする。語らせようとしているのだ。と、思った時に、ずるいよなあ、となんか思った。
借り物の女の裸に、思想を語らせようとすること、が、当然のごとく行われ、当然のものとして受け入れられ、ここに置かれている。

裸になることが思想、裸になることが芸術であるのに、裸の身体すべてでぶつかっていくことが思想であるのに。これはおのれの裸を作るべきという話ではない、ただ、借り物の裸に語らせようとする態度、が、芸術の持つ熱さとは正反対の、ずるさ、に見える。気がした。
身体をなぞった形そのものに、身体の本来持つ意味合いを超えた価値づけを思わせる言葉をのせて、それを芸術として現すこと。奇妙。この奇妙なものが奇妙さを隠して平然と置かれている世界。奇妙。奇妙なものがある奇妙な駅。奇妙な駅の近くに暮らしてしまっている。奇妙な世界に生きてしまっている。


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