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怖いものが一つ減る

去年の夏、めちゃくちゃに腹が立つことがあった日初めて水風呂にザブンと全身で浸かることができた。

自分の仕事に対して初対面の人間に全然関係ないところから突然理不尽な評価を投げられてめちゃくちゃ腹が立った日(しかし今思えばその時の突然の理不尽な評価もまた一つの栄養にはなっている)めちゃくちゃに腹が立ち、腹が立ちすぎてフリーズ、何も考えられなくなりただその場は時間がすぎるのを待つことしかできず、少し時間が経つと言い返すこともろくに出来ない自分にもめちゃくちゃに腹が立ち、理不尽な言葉が入り込むスキが自分にあることにも、それが実力の足らなさのせいであることにも、しかし実力が足らないことなど今すぐにどうしようも無いではないかとか、いや理不尽と自分が感じたってそれでも受け止めるべき一つの意見だとか有難いじゃないかとか思ってみたり、しかし大ダメージを受けているし、有難い訳ないだろ好き勝手言いやがってとか、毅然としていられない自分の弱さ小ささにもがっかりしてもう色々ごちゃごちゃ悶々とした最後にあーもうどうでもいい、ぜんぶどうでもいい何にもしたくないくそやろう、くそやろう銭湯行ってやる、と突然思った、途端、銭湯モードに頭が切り替わり走って帰って準備、タオルだの着替えだの洗顔だのドライヤーだのをちゃきちゃきと準備し、当時仮住まいしていた場所から徒歩数分のスーパー銭湯へ走って行った。銭湯行ってやると思った途端、なぜか倒すべき敵が銭湯にいるような錯覚、むしろ銭湯こそが敵だみたいな気持ちになり、武器を揃える気持ちで風呂セットを準備していた、気がする。

私は昔から風呂嫌いで風呂にわざわざ浸かったりしない。身体を洗う最低限の目的を果たせればそれで十分と思っていて、服を着ていない時間も全身が濡れている時間も自分は居心地が悪いので本来は風呂にかける時間をできるだけ短くしたい人間である。
しかしその時はなぜか無性に風呂、大きいお風呂、大きいお風呂に入りたい、大きいお風呂に入らなければの気持ちだった。自分は究極に腹が立つと大きいお風呂に入りたくなる人間なのだとその時初めて知った。

ひたすら風呂に浸かった。風呂に浸かってからもまだ全然腹が立っていた。いくら風呂に浸かっても腹が立つのがおさまらない。頭が苛立ちで熱々になっていた、なっている気がした。頭の熱さに風呂が負けている感覚、熱い頭に比べて風呂が全然ぬるい。もうダメだ、こんなんじゃ全然ダメだ、風呂ではもうダメなんだと風呂から飛び出してサウナに駆け込んだ。(自分はサウナのことも一体何のためにあるんだと長年疑っていた、風呂以上に当然サウナも苦手である)
サウナの中でも私の頭はひたすら怒っていた。怒り。サウナに座り込みながらただひたすら頭の中で怒り続けた。目の前のテレビを睨み続けた。熱い、あー熱い、しかしまだおさまらない、この怒りがおさまるまでは出られない・・・とやせ我慢を続けて、熱い。あーあつい、あーもういい、もうまいった、OKOK、まいりましたと負けを認めてよろよろとサウナから出て、吸い寄せられるように掛け水に近づき、すくって、頭から浴びた。は、となった。足りん。これでは足りん、とすぐわかって、水風呂、あ、水風呂(自分は水風呂も当然ながらもっと苦手である。プールすら嫌々、そーっとしか入れないのに)冷やしたい、冷やしたいと思ってザブンと入った。ザブン、もう飛び込むみたいな気持ちだった。

そこまできたらもう、自分が何に腹を立ててたのか、何にずっと怒っていたのか、忘れてしまった。ただずーっとこうしてたい、ずーっと浸かっていたい、もうこれで良いという気持ち。
最強に熱々に熱したやかんを、氷水にプシューと浸ける気持ち。プシュー、だった。人間でもプシューができる。プシューをやれば、何に腹を立てていたのか、腹を立てる自分のことも、忘れられると知った。
プシューを得るには、熱々が必要。人間を熱々のやかんにする装置がサウナ。サウナなるほどと思った。

自分には怖いものがたくさんあり、水風呂もその一つだった。いつか突然冷たい水に飛び込まなければいけない出来事がくる気がしていて(今すぐに海に飛び込まないと助からない、とか)その時に一瞬も怯まず飛び込める自信がない。自信がなかった。しかし水風呂にザブンと入れたこの日、何かこの先いざという時も案外ちょっと大丈夫かもしれないな、とちょっと安心したのだった。人生の怖いものが一つ減った気持ちになった。

その日以来かちかちに腹が立つ出来事が起こっても、サウナに行けば凌げるから平気、いざとなれば自分にはサウナがあるから大丈夫、と余裕をかませるようになった。心にサウナがある余裕。サウナという切り札を自分は持っている。


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