永遠が通り過ぎていく

29年生きてきて「人間だもの」と思うことが増えた。相田みつをさんはどういう気持ちでこの言葉を書いたんだろう。私の気持ちは大きな大きな諦めと、少しの面白さ、そして割れた鏡の破片のように光る美しさ。

わかる、わからないという自己中心的なジャッジのうえでしか文章が書けないことに苛立ってしまう。それでもそれが人特有の美しさであるなら、この苛立ちも少しは報われるのかしら、なんてことを思いながら、普段は寝ている時間に普段乗らない電車の中で普段は感じないほどの自己陶酔のなか文章を書いている。夜だから、許してください。

戸田さんの話を聞いた気がした。私は映画を多く観る人ではないし、正直、本当に失礼なことだが、戸田さんのことをあまり知らなかった。知っていたのはプロフィールに書かれるようなことだけ。しかもその冒頭くらい。ミスiDに出ていたのに、見てくださっていたのに、本当にごめんなさい。言い訳をすると、人のことを知ることがどうしようもなく怖かったんです。ごめんなさい。

ただ、そのまっさらに近い状態でこの映画を観ることができて本当によかったなと思う。1対1で話を聞いた、そんな錯覚を起こさせる映画だと思った。私からは発信していないので会話とまでは言えない、でも会話に限りなく近いと思えるくらい、じっくりと話を聞いた気がした。吐きたくなるほど苦しい共感があって、一方で「私はそうは思わない」という感想があって。これが「話」でなければなんなんだろう。わかるわからないという「人間だもの」が前提にあることすら、人間と接したという証明になってしまう。変な感覚。

前置きが異常に長い。勢いで打っているので文章もおかしい。でも今日はおかしい文章が書きたい。たとえそれが記録になってもいいから、残しておきたい。詳しくは書かないのでネタバレにはならないと思うけれど、これから観ようと思っている人は、この先を読まないでほしい。大事な「話」を自分の耳で聞いてほしい。

(劇場で観賞したことに対する感想なので、その場で特に強く印象に残ったことについてだけ書きます。あとでMVを見返したりパンフレットを読んだりするけれど、今は記憶だけで書きたいと思います。)








アリアとマリア

最初は美しいなあと思いながらぼんやりと眺めていた。それが変わったのは確か、「ぶってくれたら~」のところだったと思う。この映画がどういう映画なのか、どう観たら自分にとって「観た」になるのか、感覚的にではあるけれど、自分勝手ではあるけれど、ああそうかと、そんなことを感じたのがそのシーンだった。

好きの反対が嫌いなら、嫌いがまだ存在しないのに好きと言うのはおこがましい気もする。それでもあえて言うなら「去年のクラスは~」のような台詞のシーンがとても「好き」だった。登場人物の2人が真逆のことを言っているのに、酷く共感してしまった。2人ともに、だ。愛の種類の違いなんだろうな、と思う。自分から生まれた・生んでしまった愛と、人へと返す愛。自分の汚い思いがこんな美しい言葉になるんだ、なんて本当に失礼なことを思ってしまった。これは私の映画ではないのに。


Blue Through

「永遠がほしい」
それができないなら、死んでしまいたい。
ずっとずっと思っていたことだ。映画館に着く前、「少しでも自分事を見つけられるといいな」とツイートした。Blue Throughの一部分を私は紛れもなく、自分事として捉えてしまった。女優さんが次に発するであろう台詞が一足先に頭を占めるような、自分勝手な共感という苦しみ。本当に本当につらかった。

「いっそ殺してほしいと思う。一番じゃない私をあなたの手で消してくれるなら、こんなに嬉しいことはありません。」

私がオンライン面接で喋った言葉だ。
私はもうあなたに殺されることも叶わないし、あの時死ねばよかったという奇跡も掴み損ねてしまったけれど、もしその願いが叶ったとしても「それでも一緒にいてほしいと思わせられない私でごめんなさい」と思うんだろうな。たとえ想い合っていたとしても、お互いの矢印が同じ形になることはない。人のことを想ってしまったらそこで終わりだ。どうしようもない。

永遠はなかったけれど、永遠がなかったからこそ「あの時死んでもよかったな」が聞けたんだよな、なんてことをぼんやりと考える。それでもやっぱり、永遠がほしいよ。そうでなければ死んでしまいたいし、死んでしまえば永遠なんだろう。そして死んだら死んだで「それでも一緒にいてほしいと思わせられない私」を嘆くんだろう。ずっとそれの繰り返し。それこそ延々と、永遠に。







つらい映画が好きだ。つらい映画を、つらいと思える自分が好き。一通り泣いたあとは安心感に包まれる。美しいものに対して苦しいと感じられる感性が、まだ私の中に残っていることに安心するから。そしてこの映画を構成する要素を「ひとつ残らず苦しい」と感じなかったことが嬉しかった。私はまだ、人を人として認識できている。「同じ」に酔いそうになっても、どうにか「違う」に気付けている。

映画が終わったあと、戸田さんとお話をさせていただく機会があった。喋ることが苦手な私は物販に並んでいる最中にメモした感想を戸田さんの前で読んだ(本当はメモした中の1/4ほどしか読めなかった)。うんうんと聞いてくださった戸田さんの「『つらかった』は褒め言葉ですね」という言葉。帰り道をうつむきながら歩いているとき、その言葉を思い出して、自分が本当に小さく思えた。世の中にはこんな人が存在するのに、そして私はまだそのことをを知らないだけなのに、何を失望していたんだろうな。

素敵なものを観ていこうと思った。素敵なものを聴いていこうと思った。こんなふうにエンドロールを睨む必要のない映画をこれからたくさんたくさん知っていきたいと思った。「永遠が通り過ぎていく」素敵な映画をありがとうございました。

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