「人生を目撃されたい」という欲
(この文章は音声で入力し、修正したものです)
「どんな服を着たいか」を考えるときに、なぜかどうしても「どういう風に見られたいか」という意識が入ってきてしまう 不思議だった
自分本位な人間なのに
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1人暮らしを始めて5年、このまま生きていくと自分の写っている写真がほとんど残らないのではということに気がついた
私の人生は写真にも残らず誰にも知られず、私だけしか知らないまま進み終わる
もちろん友達はいるからこれは大げさな表現だ
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1人で出掛けるのが好きだ
1人で出かけると当然だけど、私の写真はない
いや、別に写りたいわけでもないが
自撮りでもなく、食べた美味しいものの乗るテーブルでもなく、
例えば何気なく買ったたい焼きを持っているだけのところとか、電車を待っているだけのところとか
そういう普通の日常の写真が残らないのは、なんとなく悲しい気がした
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私は人生を誰かに目撃されたいのだと思った
目撃あるいは観測
ドラマチックでなくていい、記憶に残らなくていい粛々と純文学のように、もしくはエッセイのように
それもおこがましいか、じゃあインターネットに転がる誰かの日記のように
私は私が生きていることを観測されたい
私としてではなくていいかも
ちょっと遠い距離から生活を観測されたい
滅多に会わなくなった同級生の近況を別の友達から聞くような、そのくらいの距離感で元気に生きてることを観測されたい
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それなので、私はどういう服を着るか考える時にどのように目撃されるかという視点があるのかもしれない
それなので、私はSNSをやるし、インターネットで日記を書いてみたりしているのかもしれない
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最初は他人の目を気にしてしまう自分はとにかく自分に自信がなくて、自己肯定感が低いから そう思ってしまうのだろうと思っていた
体感としてはそれほど、自己肯定感が低いという感じでもないので、なんでこんなに人の目を気にするのか不思議だった
しかしまぁ、他人に目撃されたいんだと思うとそりゃあ人の目も気にしますわという開き直りがある 今
とにかく私は元気で健やかで幸せで生きているんだと、私を目撃した人にそう思わせたい
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何が私にそう思わせるんだろうか
やっぱりコンプレックスなのかもしれない
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他人から目撃される姿は私の一部分にすぎないので、私が実際にどういう人間でどういうことをして何を考えている人間なのか(コンセプト)はそこに含まれないのかもしれない
どう目撃されたいかではなく、私はどうありたいのかあんまり思いつかなくて怖い
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その様に目撃されたいという自分の気持ちも大切にしつつ、自分は何者(コンセプト的な意味で)なのか見つけたいな
自問自答ファッション教室楽しみ
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