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決戦! 長篠の戦い その29

※上の鉄砲の写真は今年の2月に新城市の新城市設楽原歴史資料館を訪問時に撮影した写真。
今回と次回は織田信長について触れてみたい。私の「決戦!長篠の戦い」のシリーズの「その8」でも信長について紹介しているが、信長とはどのような人物だったのか、そして長篠の戦いに関連した信長側の当時の状況にも触れていきたいと思う。

織田信長という男

私は織田信長については、それほど詳しくない。世間一般の人達と同程度の知識しか持っていないだろう。だが、あまりにも有名な戦国武将で長篠の戦いでも関連があるので、少しだけ触れておきたい。
自分が信長について持っているイメージは、凛々しく一直線で天才的な頭脳を持った魅力的な武将。同時に自らの心に素直に従うが故に敵を倒すためには残虐な一面も現れる。海千山千のように知恵を使って敵を調略するというよりは、圧倒的な経済力を利用しつつ、自分が敗けないために頭脳を駆使して体裁など気にせずに戦う。宗教や神など信じておらず自分が神だと思っている。そのようなイメージが強い。ちなみに「凛々しく」という部分は後述するゲームの「信長の野望」に登場する信長のキャラクターの顔や、大河ドラマで信長を演じた俳優のイメージが強いからだと思う。
甲斐の武田信玄や三河の徳川家康のように山国出身の武将と違って、織田信長は先駆者的に商業都市を発達させたイメージも強い。さらに海外の貿易品にも興味を持ち収集癖があり、南蛮物を部屋に飾っている姿が似合っている。晩年には海外のワインでも飲んでいたのであろうか。そして海外にも侵攻する野望を持っていた・・・。
かつては私も学生時代に織田信長の小説を読んでいた。山岡荘八の織田信長だ。一時は織田信長を好きになったこともあった。政治的なしがらみを感じさせず、直線的に行動する姿に魅力を感じた。信長は他の有名な武将と比べて行動の仕方が素直で分かりやすく、ある意味、単純明快であった。そして古臭い既成概念を破壊する為なら容赦なく立ち向かってくる勢力を滅ぼす。また、そのようなイメージとは反対に身内に優しい印象もある。しかし自分はどうしても、比叡山焼き討ちや浅井・朝倉攻めでの残虐な攻め方に抵抗を感じていた。確かに他の武将も同様な事はしていただろう。だが、信長のそれは規模が大きく頻繁であり、元々の性格が血を好む性格なのではないかと疑っている。
少し話がそれるが、学生時代に私が信長を身近に感じたのはコーエーのゲームソフト「信長の野望」の影響も大きい。このゲームで遊ぶ人は元々戦国時代に興味がある人で、おそらく自分の住んでいる地元の武将に天下を取らせるために全国制覇を目指した人が多いはずだ。しかも、一度は信長を主人公にして天下統一を目指す。このシリーズのソフトによっては、信長を主人公にした時のみ戦闘時の音楽が他の武将の時と違っていたりする。全国制覇を目指すにあたり、各地の様々な武将が登場するので親戚が住んでいる遠方の武将は誰なのか興味を持ったり、配下の武将の子供が元服(成人の儀式)して味方に加わったりすると、オオー!と言って喜んでいた。さらに様々な姫たちも登場し、それも魅力の一つだった。ただ残念だったのは、ゲームの中での戦闘シーンだ。山や谷、山城での戦闘シーンではもっと工夫して欲しかった。一番最初にスーパーファミコンで遊んだ「信長の野望・天翔記」が一番おもしろかった。山や城の上から鉄砲を打つと、平地で討つよりも遠くに飛ぶし、攻撃力も高かった気がする。このあたりが続編に引き継がれていくと思っていたので、その後もパソコンやプレステ2で信長シリーズを購入したのだが、戦略シミュレーションにばかり重きがおかれて戦闘シーンは平地や城中心で残念であった。もっと、山や城の上に陣取った者が有利になるようなフィールドの設定をして欲しかった。自分としては山にこもった500人の兵力が10万で攻めて来る敵を鉄砲や大砲、流言、内応で混乱させ、足軽Sの忍者や騎馬Sの集団で敵を蹴散らすなど、壮大な戦闘シーンを楽しみたかった。その後のコーエーの信長シリーズは従来のシリーズは政治的要素の強いシミュレーション重視のソフトになり、戦闘シーンに重きを置いた内容は3Dの別ソフトで販売され、シミュレーションと戦闘が別れてしまったのが残念であった。また、スーパーファミコンの頃は一勢力を支配してしまえば、全国制覇まではそれほど時間がかからないので手軽に遊べて楽しかった。
本題に戻るとしよう。今回は上記で述べた信長の比叡山焼き討ちにみる寺社勢力の解体、信長の残虐性の是非、神に対する姿勢についてみていきたい。

比叡山焼き討ちは武装集団、利権集団、政治団体としての寺社勢力の解体

さて、さらに信長について見てゆくにあたり、信長に詳しい井沢元彦氏の「逆説の日本史」から当時の政治状況も絡めた下記の個所を引用してみた。

書名:逆説の日本史9  戦国野望編-鉄砲伝来と倭寇の謎
作者:井沢元彦
初版:2005年6月1日
※引用個所は『 』で表示。( )の文章も引用内の文章である。

『上洛し室町将軍家の後ろ盾となって権勢を確保する、ということなら、必ずしも織田信長の専売特許とは言えない。大内義輿も、ある意味では上杉謙信もそうだし、実現しなかったとはいえ武田信玄も明らかにそれを目指していた。逆に言えば、彼等は室町幕府を滅ぼそうとする気はなかったということで共通しており、その点が信長とまったく違うところなのだ。信玄びいきの人々からは「いや信玄は違う」という抗議が出そうだが、少しも違ってはいない。確かに信玄には、自分が源氏つまり「征夷大将軍になれる家系」であるという自覚があったに違いない。場合によっては足利家に代わって武田将軍家をつくろうという意識もあったかもしれない。
しかし、それは信長が上洛して成功したのを見てからのことだ。言うまでもなく、最初に誰も考えつかないアイデアを立案し実行することと、それをずっと見ていて横取りしようとすることは、まったく違うことなのだ。戦国時代なのだから、「横取り」することが悪いと言っているのではない。それを言うなら、信長も秀吉も家康も「横取り屋」である。問題は「天下取り」への野望において、信長と信玄では格が違う、ということなのだ。
信長は最初からすべてを天下統一という照準に合わせ、政治・軍事・外交のすべてをその計画のもとに行なっている。政治・軍事・外交の例を一つずつだけ挙げれば、足利将軍候補の足利義昭を保護したこと、兵農分離を進めたこと、北近江(京への通り道)の大名浅井氏と婚姻政策で結んだこと、である。
信玄はそんな準備はしていなかった。たとえば、(天下を取るには)無駄な時間と労力を「川中島」で費やしていた。これは、彼が並みの大名と同じで、とりあえず自国の領土を拡張するということしか頭になかったことを示している。その信玄が晩年、信長を見ていて「なかなかうまくやったな。だが、あんな若僧より、わしの方が天下人にふさわしい」と思ったのが、上洛の動機である。その軍は1572年(元亀3)秋、甲府を進発した。なぜ「秋」なのか?それは刈り入れが終ってからの出陣ということだ。つまり、武田軍は兵農分離していない、のである。
だから、遠江国浜松における徳川軍との「三方ヶ原の戦い」も、小雪の舞う中で行なわれた。そして、遠州で正月を迎えた信玄は発病し、引き上げる途中、信州で陣没した。悲劇の武将と言われるゆえんである。だが、兵農分離していない兵力で一時的に京を制圧しても、田植えの時期にはまた引き上げなければいけない。
それだけではない。仮に信玄が幸運に恵まれて、天下を取ったとしよう。では、それで構造改革が成功するか?「信玄」では無理なのである。僧侶である信玄には、寺社(じしゃ)勢力にメスは入れられない。利権構造も、武力も一切解体されないのでは、日本は再生できない。だから、仮に武田幕府が一時的にできたとしても、その政権は平清盛の政権のように長くは保たないのである。戦国時代は民主主義の時代ではない。しかし、国の動向を最終的に決めるのは、国民の意思であることは事実だ。平氏の政権も、最も有力な国民である武士階級を満足させるものではなかったから、短命に終わった。この時代はもっと底辺が広がっている。
高級武士だけでなく農民も職人も商人も、国民としての意思を持ち始めている。その共通項が「あの寺社勢力をなんとかしてくれ」ということであり、信長の政策は最もそれに適ったものだったのである。現代から見れば、野蛮・残酷の極致ともいえる「比叡山焼き討ち」をしたにもかかわらず、信長政権が支持を失わなかったのは、それが理由なのである。しかも、信長が戦国武将の中で卓越しているところは、初めから日本をどのように変えるか、つまり「日本国改造計画」があったということだ。もちろん、これは文書の形では残されていないが、信長の行動は一貫しているので、その後をたどれば明確にわかる。それは言うまでもなく「寺社勢力を中心とする中世の、日本をダメにしているシステムをすべて解体し、新しい世の中をつくる」ということである。
再び言うが、信玄にそこまでの覚悟があっただろうか?もちろん、それを実現するためには周到な計画と一貫性のある行動が必要である。前にも書いたが、サラリーマンの新入社員だって、すべてがトップになることを目指しているわけではない。そこそこの出世で充分とか、出世なんかしなくてもいい、という人の方がむしろ多いだろう。そして、トップを目指す意思はあったとしても、そのために人生のすべてを賭けている人間は極めてまれなはずだ。
戦国大名でもそれは同じで、信長はまさにその極めてまれな存在であったのである。ちなみに、歴史とは「人間の行動の記録」であるから、時代は進んでも同じパターンの繰り返しであることが少なくない。戦国時代ほど単純ではないにしても、日本はいま様々な既得権を必死に守ろうとしている一握りの人間がいるばかりに、多くの国民が迷惑している。
小泉首相は「郵政三事業の民営化」(最近は少しトーンダウンしたようだが)を唱えている。そのこと自体はまったく賛成だが、たとえば、特定郵便局を強力な支持母体とした自民党に所属してそれが可能なのか、ということだ。特定郵便局というのは、明治時代何のインフラも整備されていなかった日本が、郵便制度確立のために設けた「名制度」である。地方の地主階級や有力者に頭を下げ、ボランティアとしかいえないような少ない報酬ながら、国家の郵便局長であるという名誉を与えることによって、郵便業務に参加させたのだ。これは郵便の普及に絶大な効果があった。「名制度」といったのはそのためだが、どんないい制度でも時代が下がれば、逆に悪くなることすらある。これがその典型だ。特定郵便局の制度は今や利権化している。簡単な試験で自分の息子にその地位を「世襲」させることができるのだ。だから、既得権者はその改革に猛反対する。自民党の最大派閥である橋本派を支えている「大きな力」の一つが、この特定郵便局長会である。
そういう既得権者が自分たちの権益だけを考えて行動すると、どういうことが起こるか。公共事業を本気で整理するつもりがあるなら、特殊法人に手をつけなければダメだ。いや、私に言わせれば、これを全廃するぐらいの覚悟がないと、日本は再生しない。ところが、この特殊法人の最大の「財源」となっているのが、「第二の国家予算」とも言われる「財政投融資」すなわち「郵便貯金」を原資とした膨大なカネなのである。
これは現代の政治評論家ではないので、歴史との類似を中心に、問題点を指摘すると、郵貯そして財政投融資という極めて非効率なシステムが温存されると、特殊法人という「寄生虫」システムも温存され、日本はいつまでたっても健康にならない、ということだ。このあたりは櫻井よしこ氏や猪瀬直樹氏が既に指摘している。国民はこういう声にもっと耳を傾けなければいけない。しかし、自民党という政党は、そうした現代の「寺社勢力」を支持母体にしている政党だから、小泉氏にいかに改革の志があったにしても、「頭」の命令を「手足」がきかない、ということが常に起こり得る、ということだ。
現代の場合、やっかいなのは本来庶民の味方であるべき労働組合も、この問題に関しては保守派と意見が一致するということだ。天下り官僚も、非効率な労働で高い賃金を得ている労働者も、民営化には反対だ。楽をして稼ぐことができなくなるから、だから巨大労組と手を組んでいる民主党も、寺社勢力と妥協した信玄と同じで、今のままでは決して天下は取れないし、取っても長続きはしないだろう。
絶望的になる必要はない。要は、いかに「寺社勢力」が既得権を守ろうとしたところで、「国民の総意」には適わないということを、歴史は証明しているのだ。現に、2001年4月の自民党総裁選ですら、小泉氏が橋本氏を押さえたではないか。こうしたエネルギーを吸収する政党さえあれば、あっという間に政権を確立し、日本の真の改革を成し遂げることができるだろう。それが今、できていないからこそ、無党派層が六割をしめる、などということになっているのだ。これは政党の怠慢であると同時に(民主主義社会なのだから)国民の責任でもあるが、どちらかといえば政党の責任の方が重いと私は思う。なぜなら、政党とはプロの政治家の集団であり、そうである以上、国民に新しいビジョンを示す必要があるからだ。
信長は、行動をもって、それを全国民に知らしめたのである。注意しておきたいのは、信長の目指したのは寺社勢力の、武装集団、利権集団、政治団体としての「解体」であって、決して宗教そのものの弾圧ではないということだ。前にも言ったが、比叡山を焼き討ちしても、天台宗禁教令は出してはいない。
同じように、労働組合を弾圧して廃止しろ、などと言うのではない。私も会社員時代は労組の組合員だった。労組の存在意義は当然認めている。ただ、何でもそうだが強くなり過ぎることは、必ずしも良いことではない、ということだ。それは旧国鉄や日産自動車の例を見れば明らかではないか。
こうした点も、信長の誤解されやすい一面である。最近つくづく思うのだが、真の英雄や天才の心事は、人生経験に乏しく平凡な生活を送ってきた人間には、理解することが非常に難しい。私は、小説を書くという、想像力を最大限に必要とする職業からこの道に入ったので、随分助かっている面があるが、大学の閉鎖された環境の中で、ただひたすら史料の吟味をするという研究方法では、歴史の真の姿を見逃す危険がかなり大きくなる、ということは言えるだろう。』

比叡山焼き討ちは「残虐」ではない

ここまで引用した部分を読むと、比叡山焼き討ちは寺社勢力の既得権の解体であって宗教の弾圧ではないと分かる。では、比叡山焼き討ちの残虐性についてはどうなのだろうか。それについては、以下の部分を引用したい。

書名:逆説の日本史10  戦国覇王編-天下布武と信長の謎
作者:井沢元彦
初版:2006年7月1日
※引用個所は『 』で表示。
『信長には熱烈なファンがいる反面、絶対的な「信長ぎらい」もいる。そして、その理由は単純明快といえるほど、具体的なものだ。』
上記の文章に続けて井沢氏は信長嫌いであった作家藤沢周平氏を取りあげている。藤沢氏が信長を嫌いな理由は次のとおりであった。以下は藤沢氏の発言内容。
『嫌いになった理由はたくさんあるけれども、それをいちいち書く必要はなく、信長が行った殺戮(さつりく)ひとつをあげれば足りるように思う。それはいかにも受けいれがたいものだったのだ。ここで言う殺戮は、もちろん正規の軍団同士の戦闘のことではない。僧俗三、四千人を殺したという叡山の焼打ち、投降した一向一揆の男女二万人を城に押し込めて柵で囲み、外に逃げ出せないようにした上で焼き殺した長島の虐殺、有岡城の人質だった荒木一族の処分、とりわけ郎党、侍女など五百人余の奉公人を四軒の家に押し込めて焼き殺した残虐などを指す。虐殺されたのは、戦力的には無力な者たちでだった。これをあえて殺した信長の側にも理屈はあっただろうが、私は根本のところに、もっと直接に殺戮に対する彼の好みが働いていたように思えてならない。たとえば後の越前一向一揆との戦いで、信長は京都にいる所司代村井貞勝に戦勝を知らせて、府中の街は死骸ばかりで空きどころがない、見せたいほどだと書き送った。嗜虐的(しぎゃくてき)な性向が窺(うかがえる)文章で、このへんでも私は、信長のえらさをかなり割引たくなるのだ
(『信長ぎらい 巻頭随筆⑥』文藝春秋 編・刊)         』

そして次のように井沢氏は続けている
『既にお亡くなりになった先輩作家に対して誠に恐縮ではあるのだが、歴史の真実を解明するために、敢えて反論させて頂こう。こういう考え方は、一言で言えば歴史に対する「認識不足と誤解」ということになろう。別にケンカを売ろうというわけではない。これからきちんと順序立てて説明するので、「藤沢ファン」あるいは「信長ぎらい」の方々は、冷静に読んで頂きたい。まず最初に思うことは、おそらく藤沢氏のような論を立てる人々は、次のような事件を知らないのだろうな、ということである。
 
 天文法華(てんぶんほっけ)の乱

天文5年(1536)叡山僧兵と六角近江州を中心とする軍勢が洛中に乱入し、京都法華宗二十一本山を焼き討ちした乱をいう。法華宗内では天文法難・天文法乱という。(中略)応仁の乱後、洛中で急速に宗勢をのばした法華宗の追却を過去たびたび公武政権に迫っていた山門(比叡山延暦寺 引用者註)と、山科本願寺攻略など折から法華一揆の戦闘力に自信をもっていた京都法華宗との間は(中略)急速に緊迫した。山門大衆は六月初め三院宗会議をひらいて洛中法華宗追却を決議し、同時に東寺・神護寺・根来(ねごろ)寺・粉河(こかわ)寺・高野山・三井寺・東大寺・興福寺・石山本願寺などに援兵を求める牒状(ちょうじょう)を発している。(中略)六角近江州は山門に与同して出陣した。合戦は七月二十二日、洛中の法華宗より打って出て、これより二十八日に及んだ。山門の勢力は十五万とも、また近江衆三万・寺問三千とも、法華宗側は二十一本山の僧俗門徒衆が中心で、二万とも、三万ともいわれ、諸書で異なる。最初戦況は膠着(こうちゃく)したが、二十七日早朝、近江衆が四条口から乱入し、洛中の所所に放火して結着した。下京は悉(ことごと)く消失、上京は三分の一が焼け、翌日までに法華宗二十一本山すべてが没落炎上した。法華宗側は、乱戦の中で切腹した妙覚寺当住日兆など多くの僧俗門徒が戦死し、その数一万、あるいは三、四千と伝えられている。無事であった内裏に数千の民衆が避難し、女子供が押殺され、また水に渇して死ぬもの合計数百に及んだという。この乱戦の中で、法華宗諸山は本尊聖教を背負い堺に落ちのびたのである。この乱を災害の面からみると、兵火の被害は応仁の乱をはるかに上廻り、また罹災そのものの規模は天明の大火に匹敵した。(中略)乱後の閏十月、細川晴元は有力な法華宗僧俗で構成された「集会衆」の洛中洛外の徘徊、法華宗諸本山の洛中再興などを厳しく禁制した。 
(「国史大辞典」項目執筆者 藤井学 吉川弘文館刊)       

これはもう「事件」などという名で呼ばれるべきではない。「戦争」である。「兵火の被害は応仁の乱をはるかに上廻り」「罹災そのものの規模は天明の大火に匹敵した」というのだから。いや、それより何より法華宗側には僧俗合わせて三千から一万人の戦死者が出たうえに、「女子供」にも数百の犠牲者が出たのである。そして、この戦争を仕掛けたのは、山門つまり比叡山延暦寺なのである。その動機も法華宗(日蓮宗の母体)が洛中とくに下京の商工業者の信仰を集めたこと、言わば「京都を乗っ取られた。あそこは本来われわれの縄張りなのに」ということが、戦争の動機なのである。しかも、その「縄張り」を回復するために、僧俗つまり「僧侶と一般信徒」を三千から一万殺し、本来保護すべき女子供まで数百人も死に至らしめた。直接虐殺したのではないとはいえ、法華宗寺院すべてに放火し結局下京地区を全焼させたのだから、その死についてはやはり彼らの責任というべきだろう。
ちなみにこの乱の起こった1536年は信長3歳の年である。つまり、ほとんど同時代の出来事だ。
ひょっとして、これだけだと「法華宗は気の毒だ。こんなやられ方をして」と思う「やさしい」読者もいるかもしれない。実は「よく読んで下さい」といったのは、そこのところで、初めの方をもう一度見て頂くと、次のような記述に気がつくはずである。
 山科本願寺攻略など折から法華宗一揆の戦闘力に自信をもっていた京都法華宗との間は――
実は、これより四年前の1532年(天文元)には、法華宗側が本願寺に戦争を仕掛けているのである。

 山科本願寺合戦
天文元年(1532)8月23日・24日にわたり、近江の六角定頼勢が京都の日蓮宗徒と合力し、山科本願寺を攻撃、本願寺側も応戦したが、放火され本願寺坊舎・寺内外の家屋一宇も残さず焼失した際の合戦。この時の首謀者は細川晴元。(中略)晴元は六角勢と京都の日蓮宗徒を味方にし、(中略)六角・日蓮宗勢三、四万人が山科本願寺を包囲、二十四日放火攻撃。蓮如が文明十二年(1480)建立以来五十二年で、仏国のごとしといわれ繁栄した本願寺は全焼した。   (引用前掲書 項目執筆者 重松明久)

なぜ、本願寺が山科(京)から石山(大坂)へ本拠を移転したかといえば、実はこの「焼き討ち」があったからなのである。だから5年後の法華の乱(叡山による「法華寺院焼き討ち」といった方が正確なのだが)の時に、叡山は本願寺に「この前の仕返しをするチャンスだぞ」とばかりに声をかけたのである。当然そこに列挙されている寺々はすべて「援兵」を求められているのだから軍事力を持っていた、ということなのだ。
おわかり頂けただろうか?
藤沢随筆のいう「正規の軍団同士の戦闘」という考え方は、現代人の視点に過ぎない。もっとも、「戦争は制服を着た軍人同士がやり、一般市民は巻き込まないようにする(だから軍隊は必要)という国際法の基本ルールさえ理解していない「知識人」や国会議員が大勢いるのが日本だから、無理もないのかもしれないが、とにかく、以上二つの具体的実例すなわち比叡山による「法華寺院総焼き討ち」、あるいは法華宗による「山科本願寺焼き討ち」を見ればわかる通り、これが戦国時代の常識なのである。
どうしても「平和ボケ」の日本人には、戦国というのは今一つピンとこないらしい。要するに、戦国時代というのは「話し合いより戦争」の時代であって、それは宗教勢力であっても、まったく同じだ、ということだ。
たとえばAという宗教団体とBという宗教団体が勢力拡大を争っていたとする。現代なら様々な教宣活動をしたり印刷物を配布したり、場合によっては討論会を開いたりするということになるだろう。それが現代の常識である。
ところが、戦国時代では「アイツら気に入らんのう。ひとつ叩きつぶしたるか」となり、いきなり「焼き討ち」ということになるわけだ。焼き討ちの対象になる寺々には当然僧兵もいるが丸腰の学僧もいる。一般の信者もいる。しかし、自分たちの信仰している寺が焼き討ちされるとなれば、老若男女すべて武器を取る。近代のような戦闘員(軍人)と非戦闘員(一般市民)などという区別はない。念のために言うが、「警察」を呼んでも助けにはこないし、「警察」(政府)自体が敵とつるんでいる場合すらある。
だから戦うしかない。自衛の戦いである。攻める側から言えば、焼き討ちするということは、そこにいる人間が誰であろうと「皆殺し」にする、ということだ。「僧俗」とか「男女」の区別は関係ない。逆にもし生かしておいたら、後で復讐されることになりかねない。もちろん、この「仁義なき戦い」はいつまで続くかわからないから、常に軍備は充実させておく必要がある。石山本願寺が戦国最強の城になったのも、山科本願寺がやすやすと焼き討ちされてしまったという苦い教訓があったからだ。
本願寺との問題は次節以降に詳しく触れるとして、まず「比叡山焼き討ち」から行こう。「信長ぎらい」の人々は、比叡山という「宗教団体」を、こともあろうに全山包囲して焼き討ちして「僧俗四千人」を殺したから、信長は残虐だと言う。現代の常識を当てはめれば確かにそうだが、この時代の常識で言えば比叡山は天文法華の乱において、洛中の法華寺院二十一か寺すべてを焼き討ちし、僧俗最大一万人を殺しているのである。法華宗も山科本願寺に対しては同じようなことをしている。
こうした常識を踏まえた上で考えて頂きたい。「比叡山を焼き討ちし僧俗最大四千人を殺した」信長は、「残虐」なのかどうか?
少なくとも突出して残虐だとは言えないはずだ。もちろん「こうした殺戮は、戦国という時代のせい」なのである。
しかも、その目的を考えて頂きたい。比叡山など宗教勢力が「焼き討ち」をするのは、勢力拡大のためだ。つまり「応仁記」の表現を使えば「ワガ宗派サヘ富貴ナラバ」ということで、一言でいえばエゴイズムがその動機である。
しかし、信長には天下のためという明確な目的がある。宗教勢力の武装解除を行ない、その数々の利権を剥奪し、日本をより良い住みやすい国にするという目的である。その方針に逆らったからこそ、比叡山は焼き討ちされたのである。戦国なのだから、これ以外に武力を持つ集団を屈伏させる方法はない。もう一度言うが、政府は存在しないも同然なのである。歴史に対する「認識不足と誤解」という表現の真意が少しはわかって頂けただろうか?』

井沢氏によれば、「比叡山の焼き討ち」や、「長島一向一揆の虐殺」については、戦国時代は「女子供」や「民衆」つまり近代ならば非戦闘員と呼ばれる人々と戦闘員(兵士)との区別が極めて付けにくいこと、そして一見「被害者」に見える寺社勢力も加害者となることは珍しくない時代であったことを考えると「信長虐殺論」の論拠にはならないと述べている。確かに、女子供も武装することが多々あったとすれば、油断すれば逆に助けた側が殺されることもあったろう。そう考えると、信長の行為だけが残虐だとは言いきれない。

信長は無神論者ではなかった

私の信長の神に対するイメージは冒頭で述べたとおりだ。無神論者で自分を神だと思うようになった。そのようなイメージが強い。そこで、これについても井沢氏の本から引用したい。なお、引用個所が多岐にわたるため全ては引用できない。部分的に抜粋する。

書名:逆説の日本史10  戦国覇王編-天下布武と信長の謎
作者:井沢元彦
初版:2006年7月1日
※引用個所は『 』で表示。

『「比叡山焼き討ち」「一向一揆の大虐殺」は一体何なのか?あれは宗教団体を弾圧したのであって、思想を弾圧したのではない。真の宗教弾圧とは、後に徳川幕府が行なったキリスト教禁教令のように、「その宗教を信じる者は死刑に処す」、あるいは「追放する」ということだ。しかし、信長はそんなことはしていないのである。厳密に言えば、本願寺とは11年の長きにわたって戦争を続けていたのだから、自分の家来たちに一向宗を禁じたことはあるかもしれない。そうしないと軍事機密が漏れるなど様々な支障をきたすからだ。しかし、キリスト教禁教令のような形の、民衆に対する、あるいは国(政府)としての禁教令は、後にも先にもいかなる宗派に対しても、出したことは無いのである。特に本願寺は、長年にわたって信長を「仏敵」とし、信長軍との戦いは「聖戦」として位置付けてきた。また、信長の側から見れば、本願寺は、弟信興(のぶおき)をはじめとする織田家の有力な武将たち、あるいは多くの兵士たちの仇敵(かたき)でもある。それをあっさり許すとは、信長は残虐どころか極めて寛容であるとすら言えるのである。いかに「逆説」とはいえ、寛容であるとは言い過ぎだと思う読者も相当数いるかもしれない。しかし、それこそ前にも述べたような「歴史に対する『認識不足と誤解』」なのである。
信長の行為を理解するためには、単なる日本史の狭い領域だけではなく、世界史を見据えた広い視野を必要とする。』 

『実は、信長は「合理的な無神論者」で、一切の宗教を信じず軽蔑していた、という常識を覆す資料がある。
 
<大意>
 尾張国海東郡の大屋というところに、織田造酒丞の家来で甚兵衛という庄屋がいた。隣の一色村には左介という者がおりこの二人は格別に親しい関係にあった。ある時、甚兵衛が年貢納入のために清州へ行っている留守に、左介が甚兵衛の家へ盗みに入った。甚兵衛の女房は左介にしがみつき、左介の刀の鞘(さや)を奪った。それを証拠に甚兵衛が訴えて裁判になった。ところが左介は、信長公の乳兄弟(乳母(うば)の子供)である池田勝三郎の家来であったこともあり、火起請で罪を確認しようということになった。
 ここで火起請の説明が必要だろう。火起請とは真っ赤に焼けた斧を持って、火傷(やけど)したら(取り落としたら)有罪、なんともなければ無罪という「裁判法」である。
 <大意の続き>
 ところが左介は斧を取り落とした。当然、有罪なのだが、そのころ池田家の侍は信長公の威を笠(かさ)に着ておごっていたので、これをごまかして強引に無罪にしようとした。その時、信長様が鷹狩りの帰りに通りかかり、双方の言い分を聞いて、顔色を変えた。
 信長様は「どのくらい、鉄を焼いて持たせたのか?」と尋ね、鉄をよく焼かせたうえで、「余がこれをうまく取ることができたら、左介を成敗するから左様心得よ」と念を押した。そして、その真っ赤に焼けた鉄を握って三歩あゆんで、「見たか!」と叫んで、左介を斬り殺した。
 
 信長は、かつて古代では「クカタチ」と呼ばれた「火起請」つまり「神判(神による裁判)」を信じていたのである。信長は自分はこの強盗罪について、まったく関係ない(無罪)のであるから火起請をしても大丈夫であると信じていた。だから、まずそれを自らの手で確かめ、他人に対して立証したうえで、だからこそ(取り落とした)左介は有罪であるとして断罪したのである。合理的な「無神論者」なら、こんなことを信じるはずがない。だが、信長はそれを認めていたのである。』

また、同書から別の個所をいくつか引用して以下に紹介したい。
『信長は、桶狭間の合戦に出陣するにあたって、途中の熱田神宮を軍勢の集合場所とし、戦勝祈願を行なっている、ということだ。信長が祈りを捧げると、神殿の奥で甲冑の動く音がしたので(熱田の祭神は武神ヤマトタケル)、味方は勇気百倍したという伝説がある。これなど、信長が軍勢を勇気づけるために芝居をしたものだという見方もあろうが、実はそれだけでなく信長は数年後の武田家との一大決戦「長篠の合戦」の時にも、わざわざ熱田神宮に使者を送って戦勝祈願をしているのである。
信長は熱田神宮に対しては「産土(うぶずな)の神」という意識があったのか、築地塀(ついじべい)を修復させたことも有名だ。これは、一部が「信長塀」の名で、熱田神宮に現存している。
また、初めて越前を領国にした時は、現地司令官の柴田勝家に命令し、織田氏の先祖が神官をしていた神社(織田劔(つるぎ)神社)の保護を命じている。
もちろん、こういうこともすべて含めて、これは信長のパフォーマンスであって、内心は神など信じていないが、部下や領民を安心させるために、そういう態度を取っていたのだ、という見方も一応は成り立つ。戦争にあたって武神の加護があると信じることは、士気の向上につながるし、農民や漁民にとっても豊作・大漁は「神様の贈り物」だからだ。つまり、為政者としては「祭」に金を出さねばならない、ということでもある。
しかし、ここはもっと単純に考えたらどうだろう。信長は「超自然的存在」を信じていた。だからこそ「大蛇」を探しに行ったり、父親を祈祷(きとう)で助けようとしたり、無辺(むへん)に奇跡を行なわせようとした。だが、それがインチキであったことに立腹しているのである。逆に言えば、その「効果」が認められた時は、感謝しているはずだ、ということになる。「信長塀」はその証拠といえないだろうか。もし、本当にそういう存在を信じていないのなら、頭から否定してかかり、何度も実験したりはしないと思うが、このあたりはどうだろうか。』

『日本人が平和ボケになったのは、やはり四面を海に囲まれた絶対安全な国だったからだろう。だからこそ言霊(コトダマ)も生き延びた。しかし、「海に囲まれているから絶対安全」という概念は、「黒船」以来完全に崩れたのである。それでもまだ昔の夢が忘れられない人々がいるのは残念だ。では、日本人が宗教ボケ、正確に言えば宗教の害毒(強い影響力)に無知・無関心になったのはなぜか?理由はもう繰り返すまでもないだろう。織田信長がいたからである。しかし、そのことを今、歴史学者も含めて多くの人々が忘れてしまっている。
現代の日本が「宗教戦争」という人類最大の「病気」から完全に免れているのも、信長がいたからなのだが、人々はその恩義(?)すら忘れて、信長は宗教勢力を「大弾圧」したからケシカランという始末である。
考えてみれば、私がこの「逆説の日本史」を書き始めたのも、日本の歴史の「プロ」であるはずの歴史学者たちが、あまりにも日本史に対する宗教の影響を無視して、歴史を叙述していたからだ。その態度に腹を立て、そんなことでは歴史の真相は決して掴(つか)めないと考えたからである。
しかし、日本の歴史学者がなぜそんなに宗教ボケになったかといえば、まさに織田信長のおかげなのだから、人生というものは皮肉である。』

なるほど、ここまで見てきて単純に信長を無神論者だと決めつけるのは正しくないと思うようになった。確かに現代の肌感覚からしても日本人と西洋人での宗教観は異なっている。世界では一神教があるが、日本では八百万(やおよろず)の神の意識が強い。信長が残虐で神をも恐れぬ独裁者だと決めつける事はできないだろう。この点については昔から思っていた。だが、どうしても残酷だと思ってしまう印象がぬぐえない。それは恐らく全国統一を目指し、その後は朝鮮半島進出の構想も持っていたと思われる人物だからこそだろう。どうしても短い人生の中でその野望を叶えるには部下の身内を犠牲にしても攻める必要性が生じる場面が出てくる。晩年のそれは長宗我部元親が支配していた四国への進出、四国征伐だろう。明智光秀の部下の血縁者も関係していた。正確には光秀の重臣である斎藤内蔵助利三(くらのすけとしみつ)の妹を、長宗我部家との友好を密にするため元親に嫁がせていた。しかも、その間に生まれたのが信親だった。信長が勢力の大きくなった元親と同盟を一方的に破棄し四国征伐が実行されれば、斎藤利三の妹と甥が殺されることになる。明智光秀の直接の血縁ではないが、光秀も困ったことだろう。この時は結果的には本能寺の変で信長が殺されてしまったので、信長による四国征伐は実行されなかったのだが。
だが、考えてみれば武田信玄も長男の嫁の実家である駿河を攻めた。それが元で長男の義信と対立した。信玄の場合は直接の血縁者内での対立であった。
そういう話を始めれば切りがないかもしれない。それが戦国時代なのだ。そして現在の私達の価値観では計り知れない部分もありそうだ。

このような信長だからこそ、長篠の戦いで武田軍に勝利できたのかもしれない。だが、勝利の要因は今までみてきた信長の人物像だけで説明がつくだろうか。もう少しだけ信長の時代の状況を見ていく必要がありそうだ。
ところで、長篠の戦いについて次のようなおもしろい話が紹介されていたので引用したい。

書名:逆説の日本史9  戦国野望編-鉄砲伝来と倭寇の謎
作者:井沢元彦
初版:2005年6月1日
※引用個所は『 』で表示。

『ある時、若き司馬遼太郎は先輩作家の海音寺潮五郎に、年来の疑問を問うた。実は、長篠の合戦に際し信長は岐阜から出撃しているのだが、岐阜―長篠(正式には愛知県設楽原)の行軍に一週間以上もかかっている。これは一日では無理でも二、三日もあれば充分に到達する距離であり、時間がかかり過ぎなのだ。そこで、司馬は「なぜ、そんなに時間がかかったのでしょう」と質問したのだ。おそらく明快な答えは期待していなかったのではないか。「それは武田軍の強さを恐れて逡巡(しゅんじゅん)していたのだ」とか「馬防柵の準備等に手間取ったからだ」という諸説あったからだ。
ところが海音寺はいとも簡単に答えた。
「梅雨(つゆ)だったからでしょう」
つまり梅雨明けを待っていたということだ。言うまでもなく火縄銃は雨天の野外では使用不能になる。実際この合戦の行なわれた1575年(天正3)5月21日(旧暦)の前夜は「どしゃ降り」であった。大豪雨のあと、梅雨明けの青空の下で戦いの火蓋は切られたのである。
この、今ではほとんど常識と化している説も、私の記憶では海音寺が唱えたのが最初である。司馬遼太郎はこの質問をする前に、多くの文献や史料をあたったはずだ。それでも、あの司馬遼太郎にして気が付かないことがある。歴史作家としての海音寺の力量もそこにある。』

そして、井沢氏自身もこの「桶狭間の合戦」と並んで信長の快勝譜というべき「長篠の戦い」において信長の天才性などもう発見することはできないと思っていたのだが、新しい発見をしたという。本来ならば30年前に気づかねばいけなかったと述べている。それは『「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」の最も有名な場面で、この絵詞の主人公の竹崎季長(すえなが)が蒙古軍の「てっぽう」(鉄炮。鉄砲とは違う手投げ弾のようなもの)攻撃を受けて、その爆裂音に驚いた馬が李長を振り落そうとしているのを、彼が必死にこらえている図』だ。
つまり、長篠の合戦において織田軍の鉄砲の弾丸は武田軍に命中しなくても良かったということだ。大量の火縄銃が一斉に火を噴けば、前代未聞の轟音が設楽ヶ原に響きわたり、馬は驚いて狂奔しようとして機能しなくなったという訳だ。
一見、誰でも気づきそうな内容だと思うが、それは誰かが最初に気づいた後に私達が思うからであって、最初に発見する事の難しさと価値の高さを教えてくれている。
それにしても、長篠合戦の1575年の梅雨明けは新暦であれば遅くとも7月上旬だと思われる。今年の梅雨明けは8月1日。今年は梅雨明けがかなり遅い年なのだと実感する。

その30へ続く












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