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映画本スペース メモ


 8/12の21:00に映画本についてのスペース(録音あります)をしました。さいわい、いまのところ好評のようで文字起こしをしてほしいとの恐縮極まりないご感想も頂戴しました。ただ文字起こしは大変なのでこのスペースの際に使ったメモを公開します。基本的にメモの通りに読んだんですが、実際に話してみると異なるところもあると思います。殴り書きや文章が途切れてる部分も多いので読みづらいかもしれません。

 あと、スペースで言及したジョナサン・ゴールドについて、ひとつ訂正。スペースでは「気に入らなかった料理は評論しなかった」というふうに言及しましたが、それではゴールドがあまりに不遜な評論家だと誤解されかねない言い方だったので、『LAフード・ダイアリー』からゴールドについて言及している文章を引き、印象を訂正したいと思います。

「一つの基準を立ててあらゆるレストランをばっさばっさと切ってゆく、というような流儀にゴールドは与しない。それぞれの店がどんな独自の基準を提示しているかを彼はひたすら虚心に見つけようと努める。だから、初めての店のレビューを書くときは、何度も、大体四、五回は──馴染みのないジャンルの料理の場合はもっとたくさん──通う。最高記録は十七回だという。


これまで一度も食べたことない料理に出会うのは、とてもわくわくすること(exhilaration)だ。でもそれ以上にすばらしいのは、わくわくの段階を通り過ぎて、味に心酔すること(infatuation)だ。そのうえで、もしとても運がよければ、その料理を理解すること(understanding)ができる。


 ゴールドは、これまで「知ったかぶり」だけはしないように努めてきたと強調する。「一つの記事を仕上げるために、本を十二冊、雑誌記事を十七ほど読んでおかなければ」といつも考えている。ゴールドの家の本の本棚からは書物が溢れ、階段に堆く積まれている。締め切りを守らない、編集者泣かせの書き手として有名だったようだ。最初の一段落がどうしても書けず、三日間も途方にくれてしまうのがざらだったという。」─三浦哲也『LAフード・ダイアリー』p126〜127


 スペースで評論しないのがすごいと言ったが、その判断をするまでにゴールドは何回も店を訪れ、料理を味わっている。それでもどうしてもおいしいと思えなかった場合、みずからの評論がその店、その店のある地域におよぼす影響力を鑑み、評論を止める。その店には常連がいて、常連は料理をうまそうに食べ、ほかの常連や店主と笑いながらおしゃべりする。そこには一種のコミュニティがある。それこそフレデリック・ワイズマンが撮影しそうなコミュニティが。だからゴールドは評論をしない。みずからが味に心酔すること(infatuation)や料理を理解すること(understanding)に至れなかっただけであり、そこには「多様性」「コンテクスト」がまちがいなくある。

LAの最も驚くべきところは、ある「場所」の下に、もう一つの「場所」が隠されていることだ。

『LAフード・ダイアリー』に引用されたジョナサン・ゴールドの言葉が言い表しているようにある「場所」の下のもう一つの「場所」に辿り着いてこそ、評論という行いははじめて可能になる。それは蓮實重彦がGQ誌のインタビューで語ったこの言葉と同じ意味だろう。


「可視的なイメージ」と「不可視の説話論的な構造」との双方へ同時に注意を向けるということが、映画を見るうえでは重要な作業となってきます。

このような自覚と実践こそが、ジョナサン・ゴールド(と蓮實重彦)の凄さなのだ。


映画本スペース メモ

『ジョン・フォード論』について
未読のため、今回のスペースでは取り上げない。
年末にあらためて。その代わり文學界の座談会の話を少し。阿部和重の拘束への懸念「これしかないという論じ方を提示されたことで、一方では非常に強い拘束力を持つ評論が生まれたとも言えるのではないか。」に痛快に答える蓮實重彦だが「俺の知ったことか」「それは拘束される連中がいけないんだ」と言ってるが、自分はあえて拘束されようと思う(これは阿部が懸念を表明した直後に言っていることの言い換えであり、木下千花が試みていること)。第4章「囚われる」ことの自由とあるが、自由であるために徹底的に囚われてみる。『ハリケーン』のジョン・ホールは最初6ヶ月の刑期だったが、8回も脱獄を試み16年まで刑期が伸びたが、クライマックスのハリケーンからは拘束することで生き延びる。囚われたところで『捜索者』のナタリー・ウッドのように帰郷できるか、『馬上の二人』のデイビッド・ケントのように殺害されるかは分からないがとにかく囚われてみること。


紹介する本

蓮實重彦『ショットとは何か』
加藤幹郎『映画とは何か 映画学講義』
三輪健太郎『マンガと映画:コマと時間の理論』
高野文子『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』
三浦哲也『ハッピーアワー論』&『食べたくなる本』


蓮實重彦『ショットとは何か』

後半になるとインタビュアーの発言がどんどんなくなっていき、そんなインタビュー本あるのかと思ってしまった。三宅唱がインタビュアーだったらとふと思う。というより、トニー・スコットで盛り上がれる人。マイケル・マンは『コラテラル』のトム・クルーズが事切れるショットのことが最後に語られるが、トニー・スコットは優れた監督として名前があがるだけでショットの分析はなし。

ショットの定義を体現するルーニー・マーラ。どういうことか。
ショットは厳格である。現実に何秒持続したか、あるいは何コマから成っているか正確に計測できる、またそのショットがどのショットによって導入され、またどういったショットに契機するか、作品が編集された後は位置を動かしようがないこと、そういう意味で厳格
しかし同時にショットは穏やかである。そのショットが写す視覚的細部をすべて記憶できるものはおらず(デリーロ『ポイント・オメガ』を想起)、対象についておぼろげに処理するしかないという意味での穏やか。p223
オフュルス『たそがれの女心』のダンスシーンの次々と移り変わる衣装は五つの夜会のシーンを連鎖させてあたかも一夜のダンスシーンのように撮っている。この衣装の変化を反復するようにグル・ダット『渇き』、ヴィンセント・ミネリ『バンド・ワゴン』、ヴィスコンティ『われら女性』とドゥミ『都会のひと部屋』は音楽、ゴダール『はなればなれに』といったふうに連鎖していく。ショットの厳密かつ穏やかな運動性、あるいは穏やかかつ厳密な運動性がある。p263

「ショットが映画そのものから解放されており、同時にわたくしたち自身を映画からも解放してくれるような想いを抱かせてくれる」

それはダンスやキスシーンを控えていた日本映画にも見出せる。ダンスですらない男女の歩みだけの成瀬『山の音』の原節子と山村聰の歩行。だが、「鈍くはじけているような動揺」p266という微妙な表現。
次に『鶴八鶴次郎』のシークエンス分析、長谷川一夫と山田五十鈴が温泉街に保養にゆき、林の中を歩き湖のほとりまで到着するまでのシーンでは「寡黙な雄弁さ」「雄弁なる寡黙さ」という語が使われる。ダンスシーンのそれとはちがい、「どれひとつとして例外的なものはない」「ごく普通のショットがこの上なく有効に連鎖している」p269
ダンスシーンの記述にかなりのページを割いていたが、動きの単純さに対応するように記述も簡潔。

そして『殺し屋ネルソン』、動から不動への移行。ペキンパー『昼下がりの決斗』
コッポラ『ゴッドファーザー PART III』
ドゥミ『都会のひと部屋』
マン『コラテラル』
ロッセリーニ『神の道化師フランチェスコ』
『無防備都市』において動から不動の女性のイメージ。フライシャー『その女を殺せ』、フォード『長い灰色の線』
そしてロウリー『セインツ─約束の果て─』のルーニー・マーラのプロフィール(横顔、側面図)。それは動から不動ではあるが、死とは異なる。このときショットの定義とされるのは「寡黙」なる「雄弁」
ふと『セインツ』のラストショットを見ていると『たそがれの女心』のラストもこうではなこったかと思えてくる。シャルル・ボワイエとデ・シーカの決闘。ダニエル・ダリューがかけつけるまえに銃声が轟き、そして静まる。ダリューは結果を悟ったかのように崩折れる。もし、ダリューがもう少しもったならルーニー・マーラがように愛する男を抱き抱えられたかも。



第5章の次々と例を挙げる蓮實が言及したショットの最初と最後がともに男女が抱き合う姿勢であること。『たそがれの女心』の夜会での衣装の移り変わりのようなショットの変遷は、入江哲郎がGQのインタビューで複数のジョン・フォード像を浮かび上がると指摘していた『ジョン・フォード論』をも連想させる。それは阿部和重がマルチバース的ジョン・フォードと言っていたものと同じだと思う。

『ジョン・フォード論』が刊行されたいま、改めて読むべきかもしれないと思う。

カメラの置く位置を例にマイケル・ベイを貶し、ジェームズ・キャメロンを称揚する二十世紀フォックスの古参のプロデューサーが今の映画監督はサイレントを見ていないからダメだという発言。蓮實はそれに賛同し、そのようなプロデューサーの存在にしみじみ感じ入っている箇所が良かった。韓国のインディペンデント映画誌「FILO」のインタビューにおいて「頂戴した質問状に目を通しながら、なぜか年来の知人から親しく声をかけられたような気がしてなりませんでした。」と言ったときと同じ感慨がこの箇所にあるように思った。
ツイッターではこの賛同が引用され、微妙にバス/炎上していたが、サイレント映画はやっぱり見た方がいい。おもしろいから。

加藤幹郎『映画とは何か 映画学講義』
とはいえ、見慣れてない人がまったくの徒手空拳でサイレント映画に挑んでもおもしろさが掴み取りにくいと思うので、加藤幹郎『映画とは何か』の「第2部 映画史を書く」を読みながらそこで分析されてる映画を見ていったらいいと思います。
『映画とは何か』とは個人的に一方的な因縁があり、名古屋駅の高島屋の最上階に本屋があった頃、そこで立ち読みしたてらラングの『条理ある疑いの彼方に』(この邦題は加藤に批判されてる。原題の通り法律用語に則って『合理的な疑いを越えて』にするべきと加藤は主張)。のネタバレを喰らい、それ以来敬遠しててようやく読んだがとても面白かった。
『映画とは何か』は二部構成で第2部では、サイレント映画の表象の変遷の歴史が語られる。

まずは第4章では『ラ・シオタ駅への列車の到着』を起源とする映画史初期の列車映画について分析されます。『列車の到着』の衝撃は凄まじく、各地で上映されるばかりかその土地土地の駅で勝手に撮影され多くのリメイクを生みましたが、その中には名古屋駅版『列車の到着』まであるそうです。また到着とは逆に出発を撮影した『列車でエルサレムを去る』も作られます。
こうした動き、モーションの映画が大量に作られた4年後、映画は列車のモーションとともに人間のエモーション=感情も描くようになります。『トンネルでのキス』がそれです。『列車の到着』と違い複数のショットがあることで映画は物語を獲得します。またグラン・カフェでのシネマトグラフの初上映での逸話を作品にしたような『田舎者とシネマトグラフ』という映画も作られ、これはエドウィン・S・ポーターによって『活動写真会のジョルジュおじさん』としてリメイクされます。
ここからヘ現在の4DX的なへイルズ・ツアーズの話やポーターの『大列車強盗』のマット撮影の技法についての滅法おもしろい分析が続くのですが、重要なのはこれらの映画がYouTubeなどですぐに参照できるところだと思います。加藤の分析や記述を映画的に再現することで、映画史は動的な体験となり、そしてそのなかでは蓮實の言うショットも発見できると思います(『ショットとは何か』p134でリュミエール兄弟のシネマトグラフにもショットは存在したと言っている)。

長くなってしまったので残りは手早く。第Ⅴ章 アメリカ映画のトポグラフィ D・W・グリフィスのアメリカン・インディアン初期映画 ではグリフィスがいかにして映画の父と呼ばれるに相応しい映画文法を成立させていったかをキャリア初期バイオグラフ社時代のインディアンを主人公に据えた作品の分析とともに語ります。そこでは感情移入と主観ショットの組み合わせがまず語られます。『赤い肌の男と子供』での主観は望遠鏡越しで示され、そこで示された距離がやがて演劇的な空間とは異なる映画的な空間へ発展していきます。

グリフィスの章に続く、「第Ⅵ章 アメリカ映画史の二重化 オスカー・ミショーと黒人劇場専用映画」 では主に『國民の創生』に対してグリフィスと同時代の黒人映画監督オスカー・ミショーのグリフィス的文法を用いた反グリフィス映画『我らの門の内にて』について語られる。この意味深なタイトルはグリフィスの『幸福の谷』の字幕から取られている可能性がある。『我らの門の内にて』とは黒人専用劇場のことでもある。ラストミニッツレスキューではなくラストミニッツのクライマックス。そこでは黒人夫婦が白人の暴徒にリンチされるシーンと若い混血の女性が実父である白人によって性的な暴力に晒されるシーンが並行編集によって並置される。ふたつの場面を横断するヒーローはミショーの映画においては存在せず、並行のまま、誰もが救われない。
オスカー・ミショーについては柳下毅一郎『興行師たちの映画史』もおすすめ

さて、最後におもしろい逸話をひとつ紹介。映画史初期のフィルムは失われて久しいと言われているが、そうではないものも。当時は映画の著作権を法的に主張するためにワシントンDCの議会図書館に提出する必要があり、しかもフィルムではなく紙焼き写真としていた。これを利用したのがエジソンで自社の映画を図書館に提出しまくり、結果として大量のペーパープリントがアメリカ議会図書館に保存されることに。
映画は図書館から再生したというエピソードは映画本、映画と本のスペースで紹介するのにふさわしいエピソードだと思います。

三輪健太朗『マンガと映画 コマと時間の理論』
というわけで次はマンガと映画について。三輪健太朗はトム・ガニングの日本オリジナル論文集『映像が動き出すとき』の訳者のひとり。
まえがきには「映画の比較検討を通してマンガを考察するもの」とあり、手塚治虫が導入したとされるマンガにおける映画的手法とは何か、あるマンガが映画的と評されるとき、頁の上で何が起こっているのか。それまでのマンガ論や映画論、ときに芸術論などを各種検討し、マンガと映画が近代的な同時代文化であることを検証していく。
とくにおもしろかったのは第Ⅱ部第4章「空間のリアリズム」におけるキャラ/キャラクターの身体と空間の葛藤、初期ミッキーマウス映画『プレーン・クレイジー』、『ダンボ』、『トイ・ストーリー』
それぞれの飛翔シーンの差異は各作品のリアリズムの濃淡と比例しているという分析。
『プレーン・クレイジー』のミッキーマウスは飛行機だけが先に進んでもしばらくは宙に浮いたまま、やがて自分がひとりで宙にいることに気づくと叫びながら落下する。アニメーションやマンガのキャラクターは極論すれば紙の上のインクのしみでしかなく、いくらでも恣意的に動かせる。
『ダンボ』では空を飛ぶ子像ダンボが主人公だが、ダンボが空を飛ぶためにはまずカラスからもらった魔法の羽が必要になる。最終的に羽なしで飛べるようになるとはいえ、ここではプレーンクレイジーのような重力の恣意的な作用は消えている。
『トイ・ストーリー』のバズ・ライトイヤーはダンボとはちがい、魔法的な力を借りずにただ飛ぶ。なぜ飛べるのかといえば監督のジョン・ラセターがいうように『トイ・ストーリー』がファンタジーフィルムだから。バズは物理的にも心理的にも落ちる。自分がオモチャであること知り、CMで飛べないことを知る、手摺りから窓に向かってジャンプし落ちる。しかしラストでは飛べる。ファンタジーフィルム、アニメーションだから。そのことを自覚するかのように「飛んでるんじゃない。落ちてるだけだ。カッコつけてな」とバズは言う。
この章でのディズニー、ピクサー作品の分析は凄い水準だと思う。本文はとても感動的。
マンガの運動性と映画の運動、マンガの時間と映画の時間、マンガのコマと映画のショット、それぞれが近似しながらも差異があらわになっていく第Ⅲ部「近代マンガの時間」もおもしろい。個人的に興味を惹かれたのは加藤幹郎の論文「愛の時間」で扱われた『サイボーグ009』のある頁についての加藤の文章「そのジェット機はわたしが次の頁をめくるまで永遠に落下しつづける。この画面は静止している(ここには運動をあらわす線も、墜落にともなう効果音も描きこまれていない)。(…)ここで運動は停止しているわけではない。つまりこのジェット機は(わたひがこのコマを凝視しつづけるかぎりにおいて)無限に永遠に落下しつづけるのだ。」


三輪は加藤の論述のなかでの最大の洞察を括弧の中の「ここには運動をあらわす線も、墜落にともなう効果音も描きこまれていない」として、この頁に先行し、後続する運動との連関において考えねばならないとする。そしてこの落下の「無時間性あるいは超時間性」をドゥルーズ=ベルクソンが運動を表現するふたつの方法、古代の方法と近代の方法における前者の「特権的瞬間」とする。三輪は「特権的瞬間」の指標

『亜人』4巻の旅客機墜落のシーン。

典型的なグリフィスモンタージュからのラストミニッツレスキューならぬラストミニッツ。『亜人』では『見えざる敵』を強く連想させる壁の穴からのぞくリボルバーの描写もある。



高野文子『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』
マンガと映画の話からマンガの話へ。いよいよ映画と関係なくなってるが、これはヒッチコックなので。
復刻版の帯には「デパートはすてき オムライスからサスペンス なんでもあるの」とあるが、そのとおりのおもちゃ箱のようなマンガ。
ストーリーはひょんなことからメイドをクビになりデパートの従業員になったヒロインがとある小国の存亡をかけた極秘文書をめぐるデパート内のスパイ活動に巻き込まれるというもの。極秘文書は商品のなかに隠されており、ヒロインは買い物客に扮した使者にその商品を売り渡さなければならないが、デパートには敵のスパイも紛れ込んでいる。
悪漢に見つからないようにマネキンのふりをしてやり過ごすシーンは、読者(ともうひとりの主人公)にのみヒロインがマネキンのふりをしていることが示される。ヒッチコックにおける「テーブルの下の爆弾」理論。



またマンガにおいては人間もマネキンも等しくインクで描かれた絵でしかないことを暴露するかのように悪漢のボスもマネキンから分離したような表現でヒロインの前にあらわれる。『マンガと映画』でのつげ義春「チーコ」の分析を連想。主人公の漫画家はあやまって飼っていた文鳥のチーコを殺してしまい庭に埋葬するが、やがて庭の植え込みにチーコの姿を発見する。それは漫画家がかつて描いたチーコのスケッチだった。ラストはチーコのスケッチがまるで本物の鳥のように空を舞う一枚絵でおわる。四方田犬彦は「漫画の読者にとって、漫画に描かれた文鳥と文鳥のスケッチ画を見分けることは不可能である」と指摘する。マネキンのトリックはこの「インクのしみ」性を利用したものだが、パスカル・ボニツェルが「ヒッチコック的サスペンス」で指摘する「染み」、観客に疑惑を抱かせる突飛な細部のこと。「染みは視線をそこに凝縮させ、そうするこもでフィクションを誘発する」。ボニツェルの染みの概念はとりわけマンガと相性がいいように思える。
このボスにヒロインが閉じ込められるシーンでボスの足元にバラバラになったマネキンの手足が箱に詰まっているのが見えるが、暴力の間接表現として連想したのはヒッチコック『サボタージュ』のシルヴィア・シドニーが夕食の肉を取り分けるシーンが怖かったことを思い出した。あの肉が爆弾で死んだ弟の焼死体みたいに見えてるんじゃないかと思ったので。
この直前のヒロインが捕まるシーンの視線やコマ割りの大胆さもすごい



三浦哲也『サスペンス映画史』で指摘したヒッチコックは絵コンテとトリートメントと呼ばれるカメラや俳優の動きやタイミングが詳細に描き込まれた撮影台本さえ完成すればもう撮影は終わったも同然といって憚らなかったという。完璧に制御されたヒッチコック映画の画面は奥行きより平面性が強調されるが、ヒッチコック的ストーリーとマンガの相性はいいのではないかと思う。
またたびたび指摘されるヒッチコックにおける劇場という主題。ラッキー嬢ちゃんのクライマックスもある種の劇場で、ステージに立たされた者は目の前で展開するサスペンスに気づきながら、別の顔を演じなければならない。またこの構図が逆転することで宙吊り状態のヒロイン(『逃走迷路』の逆オマージュではないかと個人的に思う)はよりピンチに陥る。


三浦哲也『ハッピーアワー論』&『食べたくなる本』
この2冊は三浦哲也のサスペンス的な集大成。『サスペンス映画史』と『映画とは何か フランス映画思想史』で理論化体系化してきたものをひとつの映画の分析に注ぎ込んだ『ハッピーアワー論』。より身体的なサスペンス論として三浦自身の体験とともに語られる料理本批評本『食べたくなる本』
『ハッピーアワー』のヒロインたちに「きわめて大胆な単純化がなされている」という指摘。「自然らしさを犠牲にしてでも、キャラクターそれぞれの個性を際立たせようとする意志」を『ハッピーアワー』の特徴とする三浦は、各キャラクターに対応する特有の台詞があるとする。濱口竜介による「『東京物語』の原節子」をサブテクストとして参考にする。原節子は「いいえ」のひとであると濱口は言う。原節子はとにかく「いいえ」と言う。この「いいえ」の作用は原節子が演じる紀子ではなく、原節子自身に作用する。「いいえ」は演者同士の間合い、距離感、関係性をひとつの状態へ導く。その状態から別の状態への変容は


『食べたくなる本』


三浦のサスペンス論には地域、土地、大地の固有性といった要素がかかわる。『サスペンス映画史』の終盤で特権的な作家としてイーストウッドを取り上げた章で監督のみの作品のターニングポイントとなった『真夜中のサバナ』、あるいは『ミスティック・リバー』、「イーストウッドはロケーション撮影と形見への焦点化によってサスペンスを街の重層的な記憶と連続させる。」 
イーストウッド の傷と三浦哲也の料理、身体をという映画の外部と内部を通底させる回路、すべてを把握している監督としてのメタ視点と翻弄される内部の身体、身体を傷つけることと身体をつくること、正反対だからこそぴったり重なり合う。傷つけられる身体とつくられる身体が重なり合う特権的な俳優としてシルヴェスター・スタローンの名前が浮上してくる。『ロッキー』シリーズにおけるトレーニングシーン、筋トレは傷ついた筋肉繊維が超回復でより太い筋肉になる。傷つけること=つくること。『ロッキー』における生卵のジョッキ一気飲み。食べることの過剰さ=傷つけること/つくること。イーストウッド なら幽霊化するところをスタローンは筋肉(肥大)化する

『映画とは何か フランス映画思想史』ではフランスという国家
『ハッピーアワー論』結論における自立の主題からの震災への言及、濱口の東北ドキュメンタリー三部作『なみのおと』『なみのこえ』『うたうひと』への言及。
『食べたくなる本』の最後の福島への帰郷、
『LAフード・ダイアリー』ではロサンゼルスのおもな食文化。料理評論家ジョナサン・ゴールドのロサンゼルスのレストラン評論をポジとしたら『ミスティック・リバー』のコンクリートの名前がネガ。それは反転し得る。コロナ禍によってレストランの多くが閉店。評論されたレストランもその名前だけを残す。それはイーストウッド にとっての形見である。「形見は傷の一種であるが、情動の配置をそのかたちのうえに保存する点で異なる。」三浦による形見の定義
小林カツ代「わたしが死んでもレシピは残る」
映画もまた失われていくものである。
淀川長治が溝口健二『狂恋の女師匠』を口伝しているがフィルムは残っていない。

ショットを穏やかにでも記憶すること。

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