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序章 モニュメント・バレーのパネルの彼方/第1章 歯磨きと水浴──川本徹『フロンティアをこえて──ニュー・ウェスタン映画論』を読む①


「こういうふうに偽物に見えれば見えるほど、遠くへと行ける。偽物とは、彼方のことだ」

──ジャン・ユスターシュ『ママと娼婦』


 川本徹の新著『フロンティアをこえて──ニュー・ウェスタン映画論』は、ドナルド・J・トランプ前大統領が大統領選挙で当選をはたす約10ヶ月前、二〇一六年一月のあるエピソードを紹介するところからはじまる。舞台はアイオワ州インターセット、ジョン・ウェイン生誕博物館、ウェインの娘アイラに歓迎されたトランプは上機嫌で会見に臨む。しかし、川本が注意を払うのはトランプの会見それ自体ではない。その視線は元大統領(この時点では未大統領と言うべきか)の背景に向けられている。そこには『エルダー兄弟』の衣装に身を包んだジョン・ウェインとモニュメント・バレーの風景が配置されている。もっとも、ウェインもモニュメント・バレーも本物ではない。カウボーイ姿のジョン・ウェインは蝋人形であり、モニュメント・バレーもただのパネルでしかない。川本はこの光景に「滑稽なまでに薄っぺらく見える」と辛辣な言葉を投げつけるが、その批判が、この光景を背景に得意げに会見を行うトランプやこれらの薄っぺらさを恥ずかしげもなく建物内部に保持しているジョン・ウェイン生誕博物館に投げつけられているかといえばそうではない。この批判はこの光景の主役やそれを実現した協力者を突き刺すようなものではなく、むしろそれを好ましからぬものとして見るわれわれに向かって反射し、われわれを突き刺すものとして記述されているように思える。それは、このエピソードが紹介される序章の最初のページを読んだだれもがそのように思えるように川本が記述しているからだが、ではそれは具体的にはどのような記述なのか。

ウェインの娘アイサに熱烈な歓迎を受けたトランプは、上機嫌で会見にのぞんだ。この会見の背景を飾ったのが、モニュメント・バレー[第Ⅰ部扉・図8-1]が描かれたパネルと、ジョン・ウェインの蝋人形である。トランプと西部劇を象徴する風景・スターの組み合わせ。それはこのジャンルの愛国主義的・白人男性中心主義的なイメージをふまえれば、ごく自然に映るかもしれない。とはいえ、このモニュメント・バレーとジョン・ウェインが、パネルであり、蝋人形にすぎないことに注目したい。つまり、滑稽なまでに薄っぺらくみえることに注目したい。その上で強調したいのは、一般に流布している西部関係の映画のイメージも、表面的なものにすぎないということである。

川本徹『フロンティアをこえて──ニュー・ウェスタン映画論』七頁


 ひとつの段落のなかに「イメージ」という語が二回登場し、そしてその「イメージ」はどちらもほぼ同じ内容を表している。あえて差異を唱えるなら、「このジャンルの愛国主義的・白人男性中心主義的なイメージ」はトランプ陣営にとって肯定的な価値を持ち、この大統領候補と西部のヒーローと景観の組み合わせが「ごく自然に映る」ことを期待され利用されているのに対し、「一般に流布している西部関係の映画のイメージ」はたとえばトランプ反対派の人びとにも共有されているであろう「イメージ」であり、彼/彼女にとってこの「イメージ」は否定すべきものとして存在する。しかし、それは「トランプと西部劇を象徴する風景・スターの組み合わせ」を分離しようとするような否定の仕方ではなく、トランプが背負う「イメージ」も含めた否定である。つまり、賛成派・反対派を問わず、「組み合わせ」それ自体は「ごく自然に映」っている。
 川本は「これまでにない西部劇の論考」を進めるにあたって、まずこの「ごく自然」を疑うことを出発点にしている。「このモニュメント・バレーとジョン・ウェインが、パネルであり、蝋人形にすぎないこと」。上述したように川本はこの光景に「滑稽なまでに薄っぺらくみえる」と辛辣な評価をあたえているが、それを「一般に流布している西部関係の映画のイメージ」へとつなげることで、「一般」=「われわれ」も批判の対象に加えられる。そのつなぎは「(…)注目したい。(…)注目したい。その上で強調したいのは、(…)」と希望を意味する助動詞「〜たい」を三つも重ねるによって、「西部関係の映画のイメージ」が「表面的なものにすぎない」ことを「われわれ」に自覚をうながす。
 さらに細かく読んでいくと、この会見を描写した文章のなかに図版を指示している箇所があるが、その図版はドナルド・J・トランプというアイコニックな人物の存在を示すものではなく、著者が撮影したモニュメント・バレーの景観を示すものになっている。そこに人間の姿はなく、雄大な岩石地帯の写真が白い頁のかなり部分を占領している。写真はモノクロだが、パネルと違って三次元的な奥行きを感じさせ、実際に訪れたときに感じるであろう圧倒的な存在感を想像させる。そこにちっぽけな人間が介在する余地はないように思われる。つまり、この指示に従って図版を確認した者は、それまで「ごく自然」に思われていたはずの「トランプと西部劇を象徴する風景・スターの組み合わせ」に齟齬が生じることになる。
 川本はこのような操作によって「組み合わせ」の解体を試みる。もちろん上述した「イメージ」はけっして間違いではない。「たしかに西部劇は、血塗られた西部開拓の歴史を美化してきた。銃の正当化や男らしさの称揚に貢献してきた。」(八頁)のだから。とはいえ、それだけが西部劇のすべてではないことは、このジャンルに親しんできた者にはあきらかだろうし、そうでなくとも二十一世紀以降に製作された川本が言うところのニュー・ウェスタンを観たことがある観客にとってもある程度納得がいくだろう。「西部劇は、アメリカの神話を作ってきたからこそ、その神話を見なおすときにも力を発揮する。いわば内側からの神話批判である。」(八頁)。川本が意図して用いているかは不明だが、このとき使われる「内側」という語は「表面的」という語に対応しているように思える。「表面」とは抽象的な「イメージ」である。しかし、それは同時に具体的な「パネル」でもある。


(…)本書が示したいと願っているのは、ウェスタンの思わぬ奥深さであり、多様な息吹である。その知られざる歴史である。言いかえれば、本書が読者を誘い出そうしているのは、先述したモニュメント・バレーのパネルの彼方である。西部劇は古臭いというイメージがある。そのイメージを書き換えるために本書はある。

上掲書八〜九頁


 「奥深さ/多様な息吹/知られざる歴史」といった古臭いイメージ西部劇にあらたな価値を与えるだろう語が「モニュメント・バレーのパネルの彼方」という領域を示す言葉に言い換えられている。そしてこの言葉は、そのまま『フロンティアをこえて』の序章のタイトルとして冠されている。「誘い出そうとしている(…)」という動詞が意味するように、この序章以降、川本は詳細な作品分析を進めていく。つまり、「序章 モニュメント・バレーのパネルの彼方」は「彼方」へ「こえて」いくための「表面」である。「イメージ」であり、「パネル」である。語られる概略が「イメージ」となり、七頁から始まり三〇頁で終わる「序章」をかたちづくる紙面が「パネル」となる。そして、同時に全四部計一二章におよぶ『フロンティアをこえて』の各部各章の扉、あるいは図版が「イメージ」かつ「パネル」、つまり「表面」として現れることになるだろう。それはスクリーンに映される映画の画面を静止し、縮小し、ときには漂白した「イメージ/パネル/表面」である。反復的に現れる「表面」とその奥に控える「彼方」。西部劇はいまだに作られている、ジャンルが異なる映画にも西部劇は潜入し、それどころか映画に限定されない拡がりと奥行きすら獲得し続けている。そのたびに西部劇は、あらたな境界線を引き直し、未開拓の領域を待ち望むようになるだろう。
 さて、これらをを踏まえて第Ⅰ部第Ⅰ章を読んでいこう。ここでもまた「愛国主義的・白人男性中心主義的なイメージ」という「ごく自然」の解体が試みられることになる。それは文章だけでなく、論じられている作品の選定からも見て取れることができる。第Ⅰ部第Ⅰ章で分析されるのは、ジャック・オディアール『ゴールデン・リバー』(二〇一八)とジェイン・カンピオン『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(二〇二一)のふたつ。オディアールはフランス、カンピオンはニュージーランドの映画監督であり、後者は女性である。「愛国主義的・白人男性中心主義的なイメージ」は作品を論じる以前に、監督の出身国と性別が明かされた時点ですでにある程度は相対化されている。そして、具体的な作品分析のなかで相対化はさらに推し進められることになる。
 この章では『ゴールデン・リバー』の歯磨きと『パワー・オブ・ザ・ドッグ』の水浴が論じられる。このふたつは、川本の前著『荒野のオデュッセイア──西部劇映画論』で分析されたカウボーイの入浴に連なる主題として扱われる。軽くおさらいをしておくなら、『荒野のオデュッセイア』において西部劇のヒーローたるカウボーイは、荒野と文明という対立する世界のはざまを行き来する媒介的な存在として設定される(「いやむしろ、カウボーイの存在なくしては、西部劇は荒野と文明の葛藤劇としては成立しえない。」)。そして、そのような媒介者が荒野から文明の領域に移行する際、象徴的に描かれるのが入浴である。

西部劇では一般に、荒野が男性的な空間、文明が女性的な空間と位置づけられているからである(…)重要なのは、まさにそれゆえに、西部劇のヒーローが荒野から文明に移動するさいには男らしさを調節せねばならならいことである。過剰な男らしさは文明社会に似つかわしくない。なるほど荒野を文明化するためには荒々しい男らしさが不可欠であろうが、一時的にせよ文明社会に身を落ちつけるには、皮肉なことにその資質をいったん抑えなければならないのである。

川本徹『荒野のオデュッセイア ──西部劇映画論』一〇四〜一〇五頁


 西部劇における入浴とは、荒野と文明の媒介者の身体上で演じられる変容のドラマだと川本は述べる。入浴で得られた清潔さによってカウボーイは男らしさを調節する。しかし、一方で過剰な清潔さで男らしさを失うことがあってはならない。入浴中にもかかわらず被ったままのカウボーイ・ハットや火の付いた葉巻は減じられつつある男らしさを補填するものして機能し、それで不十分な場合は入浴中に押し入ってきた無作法な襲撃者を撃退する場面も用意することで、男らしさと清潔感の両立を示す。「西部劇のヒーローにとって入浴とは、力強さと清潔感、男性性と女性性、つまりは荒野で必要な資質と文明で必要な資質、それらの絶妙なバランスが自分の身体にそなわっていることを示す好機である。」(『荒野のオデュッセイア』一〇九頁)。
 このような前提をふまえると、『フロンティアをこえて』の第Ⅰ部第Ⅰ章で論じられる二作が上述したような「絶妙なバランス」を著しく損なっていることが理解できるだろう。この「バランス」の欠如は『ゴールデン・リバー』においてはジョン・C・ライリー、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』においてはベネディクト・カンバーバッチの身体上に現されることになる。まずは『ゴールデン・リバー』から確認してみよう。川本の分析は、主にライリー扮するイーライの歯磨きについて筆を割いている。そこでは原作にあたるパトリック・デウィットの小説『シスターズ・ブラザーズ』の描写も引用しつつ、いままで清潔感や衛生観念とは無縁そうだったイーライが歯磨きの魅力に目覚めていく様子が映画同様(あるいは小説同様)ユーモラスに描きだされる。また歯磨きはイーライ個人の人物描写にとどまらす、殺しの標的だったはずのウォーム(リズ・アーメッド)や連絡役だったが雇用主を裏切りウォームに協力するモリス(ジェイク・ギレンホール)、そしてこれまた雇用主を裏切りウォームとモリスの金塊探しに参加するイーライとチャーリー(ホアキン・フェニックス)の殺し屋兄弟によるつかの間の共同体の関係性を描くうえでも活用される。この四人の関係性は一筋縄ではいかない。もともと殺しの標的であったウォームより、最初に寝返ったモリスの方が兄弟を警戒する。兄弟は兄弟で、兄と弟でウォームとモリスそれぞれに対する距離感に差異があり、それが兄弟の関係性にも影響する。歯磨きに話を戻すと、この口腔ケアに関する描写はイーライとモリスに関するものである。朝まだきとき、川辺で上半身裸のイーライがゴシゴシと乱暴に歯を磨いているとそこにモリスがやって来て歯磨きをはじめる。両者はまだ打ち解けておらず、離れた位置で歯磨きを行う。イーライとは対照的にモリスはシャツを羽織り肩にタオルを引っ掛けたまま、丁寧に歯を磨く。イーライはモリスに視線を向けるが、モリスから眼を合わせることはない。この場面で現されているのはイーライとモリスのいまだに不信感が漂う微妙な関係性だけではない。川本はイーライの外貌に注目し、このように記述する。

『ゴールデン・リバー』の注目すべき点は、映画の全編にわたって清潔さに関する描写が散りばめられていること、それにもかかわらずイーライの「中年男」感が強すぎるために、彼がいくら清潔にしても清潔に感じられないことである[図1-1]。

川本徹『フロンティアをこえて──ニュー・ウェスタン映画論』三七頁
[図1-1]『ゴールデン・リバー』


 歯磨きの魅力に目覚めて以降のイーライは、けっして不潔が平気な人間ではない(そもそも、それ以前は殺し屋稼業の連続で清潔さに気をつかえる状況になかったともいえる)。原作では蜘蛛や蛇のたぐいが苦手だと述べるナイーブさもみせる。にもかかわらずその外面は、内面の繊細さとは裏腹に「中年男らしさ」に満ちている。川本は『ゴールデン・リバー』の魅力を述べるとき、「最大の魅力は四人の男たちの造形にある。(…)俳優陣のすぐれた演技によって、この四人の全員が奥行きのある人物となっている。」(三四頁)や「男たちの愛らしさからくる不思議な味わいが共存する類まれな西部劇。」(三八頁)といったキャラクターに注目して賞賛するが、なかでも特別に扱われるのが、イーライである。それは、外面と内面がもっとも乖離しているキャラクターがイーライであるからにちがいない。

だが、何といっても目が離せないのは、ジョン・C・ライリー演じる兄弟の兄、イーライである。四人の顔がならんだ映画のポスターを見るとわかるが、イーライはほかの三人と比べて、かなりの強面である。だが、それにもかかわらず、イーライを好きにならずにいるのはちょっとむつかしい。

上掲書三四頁

 「奥行きのある人物」だが「かなりの強面」の男。歯磨きという口腔、つまり身体の内部の清潔さに気を使う男の強すぎる「中年男」感。ここでは、「表面」と「彼方」の対比が、ジョン・C・ライリーの相貌/身体性と歯磨きに夢中になる性格との対比として論じられている。
 さて、つぎに論じられる『パワー・オブ・ザ・ドッグ』ではイーライの「中年男らしさ」よりも露骨な清潔感のなさ、というより不潔さを身に纏った男が登場する。ベネディクト・カンバーバッチ扮するフィルがその男にあたる。フィルは弟のジョージ(ジェシー・プレモンス)と共同で牧場を経営する牧場主であり、また牧童たちを直接率いる粗野なカウボーイのボスでもある。フィルの特徴はその徹底した不潔さにあるが、カンピオンの映画はトーマス・サヴェージによる同名の原作小説よりこの人物が意識的に不潔さを身に纏っていることを強調する。映画版では開始数分で弟ジョージの入浴シーンを描き、兄の不潔さと対比される。ジョージは「家で風呂に入ったことはあるか」と尋ねるがフィルは「いや」とそっけなく返す。とはいえ、この人物が一切の入浴を拒否しているわけではない。では、どこで身体を洗うのか。この人物が身を清めるのは森の奥にある秘密の泉である。その入り口は木の枝でカムフラージュされ、木のトンネルを潜り抜けていかなけれぼならない。泉のそばでフィルは裸になり、そして石鹸のかわりに自身の肌に黒い泥を塗りつける。この特異な入浴シーンを川本はこのような註釈をあたえる。

一見、男らしい体の洗い方である。だが、はたして本当にそうだろうか。泥のついた両手は、まるで愛撫するかのように、フィルの裸体の上を動きまわる。この動きに、逞しさよりも艶かしさを感じる観客はすくなくないはずだ。

上掲書四〇頁

 このあと、フィルは全身に塗りたくられた泥を落とすために勢いよく水のなかに飛び込む。水飛沫があがり、波紋の広がりとともに水に溶けた泥が漂う。川本はこの水浴びについて「どこか仮面を外す行為に似ている。」(四〇頁)とコメントする。この「仮面」に対応する語として直後に登場するのが「素顔」という語だ。「フィルはこの秘密の場所で素顔の自分になる。」(四〇頁)。そして、この「素顔」という単語に導かれるように、川本はカンバーバッチ扮するフィルのセクシャリティをあきらかにする。フィルはゲイであり、みずからのセクシャリティを隠蔽するために過度な男らしさ=不潔さを身に纏っている、と川本は言う。弟ジョージの結婚相手ローズ(キルスティン・ダンスト)とその連れ子ピーター(コディ・スミット=マクフィー)に対する攻撃的な態度もこの点から説明できる。性愛の対象ではないものの、長年連れ添ったパートナーを奪われたと感じることによる嫉妬がローズへの攻撃への理由だとすれば、その息子であるピーターはその「男らしくなさ」が攻撃の格好の口実となる。川本の前著『荒野のオデュッセイア』では、過度の清潔感によって「男らしさ」を喪失する事態を『無法者の群』のアラン・ヘイルの入浴シーンを例に引いて解説している。「これは主役ではなく脇役に起こりやすいのだが、入浴中の男らしくない外見のみが強調されてしまうことがある。それにともなって出現するのは、清潔ではあっても強靭ではない身体、または清潔すぎて軟弱な身体である。」(一〇九頁)。「そしてここで身体を清潔すぎるほど清潔にしたヘイルは、それゆえにと言うべきか、以後着実に「女性化」してゆく。」(一一〇頁)。入浴するシーンこそないものの、このヘイルに対する記述はそっくりそのままコディ・スミット=マクフィーに当てはめることができる。またトーマス・サヴェージの原作小説においても、ピーターが清潔さに気を遣っているようすが描写される(「石鹸と水で洗顔しているおかげで顔はつややかでシャツも糊がきいており、靴も光っていた」一四一頁)。この記述はフィルの姿を描写した「しわだらけのシャツ、櫛の入っていない髪、無精ひげ、洗っていない手」(一二六頁)という箇所と図式的と言ってもいい対照をなす。そして、案の定というべきか、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』の後半は、不潔さ/清潔さ、男らしさ/男らしくなさ、という対照的な属性を持つこの二人の男の関係性を物語の主眼に置くことになる。ローズならびにピーターに攻撃的だったフィルの態度が軟化するのは、秘密の水浴をピーターに目撃されたことが直接の原因である。このとき、フィルが隠して持っていた男性ボディビルダーのヌード写真も発見される。この事態を平和裡に解決するため、フィルはピーターに和解を申し出、その証としていま作っている手製のロープを送ろうとする。この打算的とも思える和解の申し出はある出来事を経て、本格的な交流へ変化する。それは丘にかかる影をめぐるエピソードととして提示される。厩舎にてフィルのカウボーイの師匠ブロンコ・ヘンリーの遺品の鞍にピーターを乗せ、乗馬の基礎を手解きしたあと、フィルはピーターを外に連れ出し、丘を指差して言う。「普通の人間は丘しか見ない。ブロンコは何を見たと思う?」。その質問にピーターは即答する「吠える犬」。

『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

 このやり取りの直前のフィルの台詞は「彼は目の使い方も教えてくれた」(英語字幕では“He taught me to use my eyes in ways that other people can't.”)というものである。たんに風景しか見ないその他大勢の人びとと、自然が偶然作り出す美を発見できる特別な感性を持つ少数派の人間の差異は、「表面」しか見ないか否かにあるような台詞だ(いうまでもなく、この場合の「彼方」は過去のことになるだろう)。ピーターがみずからの師であり、おそらくは恋人でもあったろうブロンコ・ヘンリーと同じく秀でた感性の持ち主であることに気づいた、というより「吠える犬」を見るたびに追憶していた過去をこの青年の身の内に見出したしたフィルは、ピーターへの訓練を熱心に行うようになる。性急な乗馬訓練の甲斐があったのか、ピーターはかなり傾斜のある坂も馬で降りれるようになり、やがてフィルと二人きりで遠出に出かけるまでかれを信頼するようになる。興味深いのは、このフィルによるカウボーイへの教化が、西部劇における男性の入浴シーンの作用とは対照的な作用をピーターにうながしている点だろう。杭を打ち立てる作業を終え、小休止をとっているピーターのシャツを捲った腕を指し「カウボーイの日焼けだ」とフィルは指摘する。この場面では、男らしさの調節/抑制を目的とする入浴とは真逆の事態が起きている。川本は『パワー・オブ・ザ・ドッグ』を「入浴の西部劇」と呼ぶが、ここでは「肌の西部劇」と言い換えてもよさそうだ。裸体のうえに滑る泥、日焼けした細い腕、追憶される男同士の肌の接触、そして牛の皮。映画の終盤、ロープの仕上げに必要な牛の生皮がとある理由で失われる事態となる。激怒するフィルにピーターは偶然回収していた死んだ牛から剥ぎ取った生皮を提供すると申し出る。厩舎におけるロープづくり、ランプの灯りが手元を照らす、ロープを編む手の動きはどこか艶かしく、見学に誘われたピーターの煙草を巻くために紙を舐める仕草にも誘惑的なニュアンスが漂う。ピーターはフィルに煙草を咥えさせる。ロープは順調に仕上がっていく。フィルは「素顔」になりつつある。だが、ピーターが与えた生皮には目に見えないものが潜んでいる。ピーターは「素顔」だったのか、それとも「仮面」をかぶっていたのか。多少の曖昧さを残しながら、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』はピーターがベッドの下にあるものを隠す場面で閉じられることになる。このベッドがある部屋、もしかしたらこの空間は、フィルにとっての森の奥の秘密の場所だったように、ピーターにとって唯一「素顔」になれる秘密の場所なのかもしれない(つづく)。

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