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第3章 崖の上のアリス──川本徹『フロンティアをこえて──ニュー・ウェスタン映画論』を読む③

 第3章を開くとまず目に飛び込んでくるのは、一九九〇年代に製作された夥しい西部劇映画のタイトルの数々である。川本はハリウッドの九〇年代を西部劇のリヴァイヴァルが起きた時代と呼んでおり、これらのリヴァイヴァル西部劇のなかには現在においても評価の高いクリント・イーストウッド『許されざる者』(一九九二)やアカデミー賞を受賞したケヴィン・コスナー『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(一九九〇)、また日本での知名度は低いがフェミニズム西部劇として評価されているマギー・グリーンウォルド『リトル・ジョーのバラード(原題:The Ballad of Little Jo)』(一九九三)などのタイトルが挙げられている。これらのリヴァイヴァル西部劇映画群は、一九六〇〜七〇年代に製作された修正主義西部劇を引き継いでおり、この章で中心的に扱われるマイケル・マン『ラスト・オブ・モヒカン』(一九九二)も、アメリカ先住民を親和的、同情的に描いたプロ・インディアン映画(※1)の系列にあたる作品となる。しかし、川本はこのマイケル・マンの西部劇がはらんでいる思わぬ保守性をこの章で明らかにすることになるのだが、ひとまず、川本の論旨を順を追って説明することから始める。

 第3章ではジェイムズ・フェニモア・クーパーの小説『モヒカン族の最後』とこの小説を映画化する際に発生したとある場面の差異が論じられる。物語のクライマックスにおけるモヒカン族の若者アンカスとヒューロン族の悪漢マグアとの急峻な崖上での格闘とアンカスが思いを寄せるヒロインの顛末が小説が映画化されるにあたって大きな変更が加えられている。小説と映画との差異、そして各年代の映画における時代ごとの変更点を論じることがこの章の主題となる。
 さて、第3章で中心に論じられることになるのは上述したようにマイケル・マン『ラスト・オブ・モヒカン』であり、上述したクライマックスの場面がクーパーによる原作小説、モーリス・トゥールヌール、クレランス・ブラウン『モヒカン族の最後』(一九二〇)、ジョージ・B・サイツ『モヒカン族の最後』(一九三六)におけるそれらと比較される。『ラスト・オブ・モヒカン』のクライマックスでは、マグアに拐われたアリスを追ってアンカスが戦いを挑むも、ナイフによる格闘の果てにアンカスは死亡し崖から転落する。一部始終を目撃したアリスもまたアンカスの後を追って崖の上から飛び降りて命を落とす。川本がマイケル・マンによる演出を端的に記述したあと、原作との比較のため同様の場面が描かれている箇所を読んでみると、驚くべきことにクーパーの小説にはヒロインの落下はまったく描かれていないことが判明する。小説で崖から落下するのは悪役であるマグアなのだ(「つかんでいた岩が抜けた。マグアは一瞬、空を切ってまっさかさまに落下し、絶壁にしがみつくように生えているやぶの緑をかすめると、みるまに谷底へと消えていった」(クーパー 下巻三一〇)。
 なぜこのような差異が発生したのか。川本はまずこのアダプテーションがいつ発生したのかを調査することから始める。川本はその起源を一九二〇年版の『モヒカン族の最後』(以下、二〇年版と表記する)に見出す。川本は『モヒカン族の最後』の映画化の歴史で最初にヒロインの落下を描いたのが二〇年版だと言う。二〇年版の崖の上のクライマックスは、D・W・グリフィス『國民の創生』(1915)のメエ・マーシュの転落と酷似している。というより、二〇年版『モヒカン族の最後』はあきらかにグリフィスの映画を参照し、クライマックスをヒロインの墜落へとアダプテーションしている。

異人種の男に結婚を迫られる白人女性、崖の上での攻防、そして墜落死──。

川本徹『フロンティアをこえて──ニュー・ウェスタン映画論』七〇頁


 川本はさらに両作品の崖の上でのクライマックスでヒロインが言い放つ台詞の共通性にも注目し、比較している。メエ・マーシュ(『國民の創生』)とバーバラ・ベッドフォード(『モヒカン族の最後』(一九二〇))はともに「飛び降りるわよ!/I'll jump!」と迫り来る異人種(黒人/ネイティブ・アメリカン)の男に警告し、実際に崖から身を投げることになるが、このことによって「彼女たちの人種的な純潔さ」(七〇頁)が守られると川本は指摘する。「死によって〈白さ〉が永遠のものとなる」(七〇〜七一頁)のだ。
 人種混淆への恐怖が物語の推進力となっている『國民の創生』に対し、クーパーの小説と二〇年版はアンカスとコーラが相思相愛であり、後者はこの恋愛関係に焦点をあてた映画化となっている(※2)。この一点を見れば、小説『モヒカン族の最後』ならびに二〇年版は『國民の創生』の保守性とは一線を画している。しかし、モヒカン族と白人の恋愛は小説ならびに映画のどちらにおいても成就しない。この二人はどちらも最後には死んでしまい、その血が混淆されることはない。「先住民と白人の血は混ざりあわない。」のだ。また二〇年版のみならず、第3章で論じられる三種類の映画版すべてにおいて、原作小説では黒人の血を引いているコーラが〈純粋〉な白人に変更されている。この変更を川本はとりわけ重要視している。それは「長編小説の映画化に省略はつきものだとしても(…)」と断りをいれているものの、「『モヒカン族の最後』の映画化の歴史は、人種混淆の回避の歴史である。」と閉じられるこの節が「乗り移る女性」という「混淆」という語を意識したタイトルが名づけられていることからも察せられるだろう(※3)。〈白〉と〈黒〉が混じり合ったヒロインの漂白。人種(混淆)の主題とそれを表象する色彩への言及。それは「変化する色彩」と題された三六年版『モヒカン族の最後』を論じる次の節でより一層前面に出てくることになる。
 ジョージ・B・サイツが監督した『モヒカン族の最後』(以下三六年版)のクライマックスでもヘザー・エンジェル扮するコーラは崖から身を投げる。二〇年版と同じ展開だが、川本が「重要」だと指摘するひとつの変更点がある。コーラの髪の色が金髪に変化していることだ。WikipediaやIMDbで確認できる一九三〇年代に撮られたヘザー・エンジェルの宣伝写真では彼女の髪の色は黒髪である。また、三〇年代の出演作のスチール写真などを見る限り、多くが黒髪である。つまり、おそらく元々は黒髪だったエンジェルの髪の色は三六年版は撮影にあたって金髪に染められたと推測できる。なぜ髪の色をわざわざ変更させたのだろうか。川本が推測するには、一九三〇年代前半に流行したある映画ジャンルがこの三六年版に強く影響しているらしい。その映画ジャンルとは、『トレイダ・ホーン』(一九三一)や『キング・コング』(一九三三)といった未開の地での冒険を描くジャングル映画である。 

一九三〇年代前半に、未開の地の冒険を描くジャングル映画が流行し、そのなかで女性の黄金の髪が重要な意味をもった。(…)こうした映画で黄金に輝く女性の髪。それは〈黒い〉原住民や野獣にたいする彼女の〈白さ〉、人種的な純潔さをスクリーン上で強調する。(…)『モヒカン族の最後』の三六年版では、ニューヨークの森林地帯という「ジャングル」で、金髪のヒロインがマグアという先住民に追われる。同時代のジャングル映画との類似は明らかである。かくして視覚的な水準で白人女性の純潔さが強調されることになった。

上掲書七二頁

 ヒロインの落下と髪の色の変化。二〇年版と三六年版が施したふたつのアダプテーションは、マイケル・マン『ラスト・オブ・モヒカン』にも受け継がれている。さて、ここで川本による『ラスト・オブ・モヒカン』の分析を読んでいく前に指摘しておくべきことがある。マイケル・マンの映画において落下するヒロインはジョディ・メイが演じているがその役名はコーラでなく、アリスである。コーラとアリスは姉妹であり、原作小説、二〇年版、三六年版、『ラスト・オブ・モヒカン』で姉と妹の名前が入れ替わっていたり、髪の色が異なっていたりする。ここで、川本がわかりやすく整理した箇所を引用しよう。

『モヒカン族の最後』二〇年版 黒髪の姉コーラ
『モヒカン族の最後』三六年版 金髪の妹コーラ
『ラスト・オブ・モヒカン』 金髪の妹アリス

上掲書七三頁

 基本的にアンカスと恋愛関係が描かれる方のヒロインが崖から落下することを抑えておけば問題ない。さて、ヒロインの名前以外は二〇年版、三六年版を踏襲する『ラスト・オブ・モヒカン』だが、崖の上のクライマックスでそれまでの映画版には無い独自の演出もみせている。それは、いまにも身を投げようとするアリス(ジョディ・メイ)に対し、ウェス・ステューディ扮するマグアが示すある動作に関する演出である。川本の記述を引用しよう。

まずアリスが崖の縁にゆっくりと移動し、高さを確認する。すると、それを見た先住民のマグア(ウェス・ステューディ)がアリスに手を伸ばし、自殺をやめるように指で合図する[図3-3]。

上掲書七四頁
図3-3 『ラスト・オブ・モヒカン』


 監督のマイケル・マンやマグア役のステューディによれば、マグアのこの行為はアリスに対するやさしさであると解釈されており、マンはこれを「とても人間味のある行為」と呼ぶ(『[ザ・ディレクターズ] マイケル・マン』)。一方で、これはマンの指摘するところでもあるが、やさしさを示す「マグアの手が血で赤く染まっているのが皮肉である。」と川本はその手のひらの細部(色彩)に注目を促すのを忘れない。この血はエリック・シュウェイグ扮するアンカスをマグアがナイフで殺害した際に付着したものであるが、クーパーの原作ではこれとは異なる場面でマグア自身がみずからの手に付着した血をヒロイン(ここではコーラである)に見せつけ、それについて言及する場面がある。川本が参照するのは、ヒューロン族による英国軍の虐殺の場面であり、そこでは先住民(アンカス)ではなく、白人である英国軍人の血によってマグアの手が赤く染まる。マグアはこの血に染まった手をコーラに突きつけ、次のような言葉で威嚇する。「この手は真っ赤だ。だが、これは、白人の血だぞ」(クーパー下巻三二四)。川本はクーパーの小説におけるマグアの行為について、先行研究を参照しつつ、次のように述べる。

 このマグアの言葉は、ごく表面的に見ても、おそるべきものである。さらに、この言葉には象徴的な意味もひそむ。それを明らかにしたのは、シャーリー・サミュエルズである。赤い膚(先住民)についた、白い血(白人の血)。サミュエルズによれば、ここで示されるのは、「目に見える形になった異人種混淆、赤い膚と白い血の暴力的な混ざりあい」(Samuels 103)である。マグアがコーラを娶るよりもさきに、マグアの身体上で、赤い膚と白い血が混ざったのだ。図式的に言えば、〈赤〉+〈白〉である。

上掲書七五頁


 このような象徴的な色彩の混淆を『ラスト・オブ・モヒカン』のクライマックスに折り返すなら、そこで提示される図式は〈赤〉+〈赤〉となる。川本はクーパーの小説の記述について、サミュエルズの指摘(※4)もふまえて「身の毛もよだつ形ではあれ、〈赤〉+〈白〉の可能性を浮き彫りにした。」(七五頁)と一定の評価をあたえている。一方で、『ラスト・オブ・モヒカン』では「〈赤〉+〈白〉の可能性をできるかぎり消し去っている。」(同上)とその保守性を指摘する。この記述を最後に「血で汚れた手」と題された節は終わることになる。
 つづく「不意打ちする顔」においても、これまで論じられてきた各映画版が異人種間の描写がクーパーの小説よりも後退していることに触れている(『ラスト・オブ・モヒカン』におけるネイティブ・アメリカン俳優の起用は川本も評価するところである。ただし、これを製作陣の革新性に求めるよりも、修正主義西部劇の影響下にある西部劇リヴァイヴァルという同時代的な運動によると位置付けるほうが妥当と思われる)。
 だが、ここで川本は論述の方針を一変させる。これまではクーパーの小説や各年代の別ジャンルの映画との比較による論述が、『ラスト・オブ・モヒカン』における映像演出そのものを対象にしはじめる。言うならば、映像文化史的な考察がテクスト分析へ転換するのだ。

 ここで真に注目すべき点は何か。それはアリスとマグアのショット/切り返しショットの緻密さである。

上掲書七六頁


 このように述べる川本は、まず三六年版と『ラスト・オブ・モヒカン』におけるアンカスの死後、ヒロイン(前者はコーラ、後者はアリス)が投身するまでの秒数を比較することから始める。三六年版で十一秒だったそれは、『ラスト・オブ・モヒカン』では六倍以上の七〇秒もの時間まで延長している(※5)。この時間の引き延ばしの原因は、マイケル・マンがアリスとマグアの表情と所作をショット/切り返しショットを駆使して丹念に描いているからだと川本は指摘する。
 そして、川本がひときわ強調するのは、アリスを演じるジョディ・メイのクロースアップの「比類なき強さと美しさ」(七七頁)である。崖の上から高さを確認したその顔は、おそれとおののきが顔全体に滲み出ていた直前の表情とはまるで異なる印象を観る者にあたえる。また映画全体、あるいはこのシーンだけでも劇的なアクションに満ちていた『ラスト・オブ・モヒカン』において、運動がほとんど停止したこのクロースアップの挿入は、「映像的な不意打ちとして見る者を圧倒する。」(同上)。ここからさらに、『ラスト・オブ・モヒカン』のアリスの物語上の役割はこれまでの映画化に比べてひときわ小さいこと、また西部劇におけるネイティブ・アメリカンの捕虜となった白人女性の表象という映画史的な観点においてもその表象は小さく、文学における女性視点の先住民捕囚体験記の存在の多さと対照的である点などのアリスのクロースアップが与える鮮烈さの印象を補強するような説明がつづけられる。
 補足的な説明のあと、ふたたびテクスト分析的な記述が開始される。再開された記述では、二〇年版との比較が行われる。さきほどは三六年版と『ラスト・オブ・モヒカン』の崖の上の場面の時間的長さが比較されたが、同じ場面で上映時間が最も長く割かれたのは二〇年版である。飛び降りようとするコーラと警告を受け距離を保つマグア、劇中の時間で数時間のにらみ合いがつづき、ついにコーラが睡魔に屈した瞬間を狙ってマグアがその腕を掴む。なんとか崖から身投げしようとするも、ヒューロンの男は腕を掴んで離さない。そこにアラン・ロスコー扮するアンカスが駆けつける。その姿を見たコーラは崖の上に這い上がろうとするも、マグアによって崖の縁を掴む手をナイフで突き刺され、落下する。マグアはナイフの切先をアンカスに向け、対峙、崖の上での対決がはじまる。以上が二〇年版の崖の上のクライマックスの詳細である(※6)。ショット/切り返しショットがコーラとマグアのあいだで多用される点は、二〇年版も『ラスト・オブ・モヒカン』も共通している。しかし、二〇年版の一場面における時間的長さもショット数の多さもすべてはコーラとマグアの攻防のために奉仕しているにすぎない。『ラスト・オブ・モヒカン』の挑戦は、この二〇年版のシンプルなショット/切り返しショットの「はるかさきを行くこと」(七九頁)と川本は断言する。
 『ラスト・オブ・モヒカン』の本格的なテクスト分析に入る前に二〇年版の崖の上のクライマックスを詳述したのは、遠景から人物を捉えた後者と異なり前者がクロースアップを中心に構成されているからである。加藤幹郎がかつて顔のクロースアップについて述べた「情動の風景」という言葉を軸に、川本はジョディ・メイ=アリスのクロースアップを精妙な筆致で記述し、読み解いていく。

(…)接近するマグアを見て、アリスはまず恐怖の表情を浮かべる。口は半開きで目には涙がたまっている。身体は震えをおさえることができない。
 おどろくべきはここからだ。岩だなの縁に到達し、落下という選択肢が頭に浮かぶなり、彼女の表情は急変をとげる[図3-4]。口元は引き締まり、目からは涙が失せ、震えも静止する。あきらめと、死の決意と、敵へのあわれみ。これらがひとつに凝固した顔の光景が広がっている。風にかすかに揺れる髪の毛と、細かく降り落ちる水滴が、アリスの顔の不動性を静かに際立たせる。逆にその表情に、その射抜くような視線に動揺するのがマグアである。頬をピクピク痙攣させながら、マグアは右手のナイフを下ろす。そしてもう一方の手を伸ばし、自分の側に来るよう合図する[図3-3]。まず一度、そして念を押すようにもう一度。だが、アリスはその合図を無視し、マグアに背をむけ、身を投げる。まっすぐ伸びていたマグアの腕が力を失う。一連のショット/切り返しショットでこのような複雑・精妙な描写がなされるのである。映画ならではの技法であるショット/切り返しショットとクロースアップが、絶対的な他者同士のコミュニケーションとその困難さを照らし出す。

上掲書七九〜八〇頁


 顔と顔の周囲に広がる微細な運動の記述は、『ラスト・オブ・モヒカン』の描写がジョディ・メイ=アリスの顔の光景とその不動性を際立たせように、「凝固した顔の光景」や「アリスの顔の不動性」といった固定的な意味の言葉へ収束し、それらを強く印象づける。ジョディ・メイ=アリスの顔のショットが凝固へと到達したとき、切り返しショットにあたるウェス・ステューディ=マグアの顔には細かな運動が生起し出す。頬の痙攣から手、そして指という上半身の先端から別の先端へ派生してゆく小さな動き=流れ。非意志的な顔の震えから緊張と慎重さが宿る指の合図、そしてそれを拒否し重力に身を任せる身体の傾き、崖の底に向かって落下していくその束の間の全身のあがきを小さく捉えるスローモーション、墜落の結末を換喩するような力を失った赤い膚の手の下降。
 川本の記述は、すでに映画を観た者はもちろん、未見の者にも映像的な光景を喚起するすぐれたものである。しかし、最もすぐれているのは、上記の引用部の文章を読んでいる途中、七九頁から八〇頁へと頁をめくった瞬間、まさに「不意打ちする顔」が出現し、その視線に射抜かれてしまう、そのような誌面上のレイアウトである。
 ジョディ・メイ=アリスの顔についての記述は七九頁の末尾から始まる。加藤幹郎の言葉に導かれるようにジョディ・メイ=アリスが浮かべる最初の表情が記述される(「(…)接近するマグアを見て、アリスはまず恐怖の表情を浮かべる。口は半開きで目には涙がたまっている。身体は震えをおさえることができない。」)。そこではまず、恐怖という感情を表す語によって内面が提示される。口や目といった顔の各部分の細部がどのような状態にあるかの描写がつづき、その状態に付随する身体の状況が写しとられている。読者はこのように描写された顔が変化するであろうことを予測しながら、頁をめくる。数頁前の顔のクロースアップついての言及があったこともその予測を手伝う(「──後述するようにこの直前の表情とはまるで異なる──」(七七頁)。文章を追い上から下に動いていた視線の運動は、次の頁が姿をみせるときに下から上へと復帰し、文章のつづきを読む準備を始める。


 そのとき、顔に不意打ちをされる。


図3-4 『ラスト・オブ・モヒカン』


 川本の記述に導かれて読者がおぼろげな輪郭を描いていたところに、「情動の風景」がこれ以上ないほど鮮明なかたちであらわれる。そのおどろき。本文にのしかかるように配置された図版から放たれる視線は、劇中のマグアのように読んでいる者を射竦めるが、川本はこの視線に別のアリスの顔をみる。


アリス・プレザンス・リデル。ルイス・キャロル撮影(一八六〇年)




 アリス・プレザンス・リデル。ルイス・キャロルの小説『不思議の国のアリス』およびその続編『鏡の国のアリス』の主人公のモデルとされる人物。川本は小谷真理の「[…]キャロルが撮ったアリスの強い目線はふたりの関係性が、当時のヴィクトリア時代の男女の権力関係におさまらないなにかを含んでいた気がしてならない。」(※7)という言葉を引用しつつ、ルイス・キャロルが撮影したアリス・リデルの写真から放たれる視線の強さの延長線上にジョディ・メイ=アリスの視線を位置付ける。小谷の著書からの引用は崖の上のアリスの視線が、たとえば七八頁で語られた男性的なジャンルである西部劇映画における白人女性の捕虜の描写の貧しさ(「文学に女性視点の先住民捕囚体験記が多く存在するのとは対照的である。」(七八頁)とは一線を画する「なにかを含んでい」ることを含意しているとみてよいだろう。
 しかし、その「なにか」は「(…)アリスが身を投げる時点で完全に幕をとじてしまう。」(八一頁)。この「なにか」については、ケリー・ライカート『ミークス・カットオフ』(二〇一〇)のショット/切り返しショットについて分析する第12章に引き継がれることを予告して第3章は閉じられる。川本は七九頁にて、『ラスト・オブ・モヒカン』の挑戦は、この二〇年版のシンプルなショット/切り返しショットの「はるかさきを行くこと」と述べた。そして章を閉じるにあたって、「はるかさきを行くこと」という主題がふたたび取り上げられることになる。この「はるかさきを行くこと」という言葉は、この本の表紙に記された題名/英題『フロンティアをこえて/Beyond the Frontier』の「こえて=Beyond」という部分と強く共鳴している。また、序章にて川本は「本書のサブタイトルである「ニュー・ウェスタン映画論」の「ニュー」は、「ウェスタン映画」と「論」の両方を修飾する(…)」(九頁)とも述べている。この言葉と「本章では従来あまり語られてこなかったこの西部劇の女性登場人物について考えたい。」(六八頁)と第3章の冒頭の言葉から考えると、第3章はこれまでの章に比べて「ニュー・ウェスタン映画論」としての側面が強く出ている章であること考えて間違いはないだろう。この本の後半では、二十一世紀以降に製作されたまさに「ニュー・ウェスタン映画」についての「ニュー・ウェスタン映画論」が第1章、第2章よりさらに踏み込んで展開されることになるが、この第3章の内容は、これ以降の章を読んでいるときにも参照すべき記述や論旨の展開を含んでおり、とくに人種表象にかかわる色彩の主題はやがて色彩の表象それ自体が主題として立ちあらわれる。そこでは西部劇からロード・ムーヴィーへという映画ジャンルを越境する道程が描写されることになるが、その地点にいるのもまたケリー・ライカートという名前であることだけはここで指摘しておきたい(つづく)。



(※1)「六〇年代から七〇年代、インディアンの扱いにおいてこれまでと違った作品が現れてくる。五〇年台においても既述の通り、インディアンに対して同情的な西部劇=プロ・インディアン西部劇があった(…)。」吉田広明『西部劇論:その誕生から終焉まで』三二〇頁

(※2)二〇年版『モヒカン族の最後』は落下後の描写も『國民の創生』を参照したと思しきショットが連鎖するが、岩に激突し坂を転がったメエ・マーシュのもとに白人の兄であるヘンリー・B・ウォルソールが駆けつける『國民の創生』と異なり、二〇年版ではアラン・ロスコー扮するアンカスがウォーレス・ビアリー扮するマグアと格闘しながら崖の上から下ってゆき、コーラが事切れた付近でマグアにとどめを刺され、コーラの遺体のすぐ側まで転がっていく。力尽きる寸前、アンカスはコーラの手に触れ、息絶える。『國民の創生』におけるショット連鎖を参照しながらも、グリフィスが忌避した異人種関の恋愛を死後とはいえ成就させた二〇年版は川本も第3章で記述するように『國民の創生』の保守性とは一線を画しているように思われる。ちなみにグリフィスはネイティブ・アメリカンを好意的に描いてきた映画監督でもあるが、その映画内で黒人とネイティブ・アメリカンの描写の差異について指摘したのが三浦哲也である。

しばしば提起される疑問として、グリフィスは同じ人種的少数者でもネイティブ・アメリカンたちは好意的に描いたにもかかわらず、どうして黒人たちは差別的に描いたのかというものがあるが、それは端的に述べて、ネイティブ・アメリカンが失われつつあるものの側、すなわち南部的なものの側にあるのにに対し、黒人たちが勝利したものの側、都市的進歩を生きる北部の側にいるとグリフィスが捉えたからであるだろう。そしてよく知られるように、グリフィスは南部の伝統に殉じた黒人の召使いは英雄として描いたのである。たとえば『彼の責務』(一九一一)において亡き主人との約束を果たす黒人など。

三浦哲也『サスペンス映画史』六一頁

 加藤幹郎もまた、『映画とは何か|映画額講義』にてグリフィスのキャリア初期のアメリカン・インディアンを主人公にした短編映画について分析するさい、そのイデオロギーを「(…)新大陸の血塗られた入植史を情緒の水準で正当化してきた(…)のちの西部劇の人種的偏見とは対極に位置する(…)」(一九二頁)と限定的ではあるものの一定の評価をあたえつつ、「インディアン全体に対する組織的暴虐としての州政府の施策に批判が向けられることはない。」(二〇〇頁)と歴史的視座の欠如を批判している。
 ところで、グリフィスは『モヒカン族の最後』を短編『Leather Stocking』(一九〇九)として映画化している。その他、『モヒカン族の最後』の映画化作品ではフォード・ビーブ/B.リーヴス・イースン監督、ハリー・ケリー主演の一九三二年版が存在する。またクーパーの小説はアメリカ以外の国でも翻訳、映画化されており、マテオ・カノ『アンカス、ある民族の終焉(Uncas,el fin de una raza)』(一九六五、スペイン)、ハラルト・ラインル『夕陽のモヒカン族(一九六四、西ドイツほか)などがある。


(※3)有森由紀子は論文「1990年代西部劇研究 『ラスト・オブ・モヒカン』におけるアメリカのアダム像」(http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN17/arimori-article-2013(2).html)において、ダニエル・デイ・ルイス扮するホークアイ/ナサニエルをインディアンと白人の人種的境界を横断、および仲介する存在と解釈し(「ホークアイ/ナサニエルはインディアンであると同時に白人でもあり、男性的領域と女性的領域を行き来し、卑しい出自でありながら敬意を受ける主となるという点で、人間社会が厳格に規定する人種・性別・階級の境界にとらわれることなく、それらの境界線を繰り返し横断する。」)、原作では一登場人物に過ぎなかったナッティ・バンポーとの差異を指摘している。


(※4)Samudls,Shirly.“Generation Through Violence:Cooper and the Making of Americans.” New Essays on The Last of the Mohicans,edited by Daniel Peck,Cambrige Up,1992,87-114.

(※5)ちなみにショット数は三六年版が九、『ラスト・オブ・モヒカン』が一六である。比較すると、後者の一ショットあたりの持続時間がかなり長いことがわかる。

(※6)この場面は三分以上(正確には三分九秒)つづく。ショット数は三八、そのうち字幕のインサートは四ショットである。

(※7)小谷真理『性差ジェンダー|事変 平成のポップ・カルチャーとフェミニズム』四四頁


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