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『斬首の光景』の三つの映画

 ジュリア・クリステヴァ『斬首の光景』は主に絵画やデッサンを対象にした斬首、首、顔にまつわるイメージを論じた美術・哲学論だが、そのなかで映画への言及はわずか数行にに留まり、三作品のタイトルが挙げられるだけだ。その三作はジュールス・ダッシン『幽霊は臆病者』、アルノー・デプレシャン『魂を救え!』、フィリップ・アゴスティーニ、ブリュックベルジュ神父『カルメル会修道女たちの会話』であり、いずれにも身体から分離した首のイメージが登場する。
 『幽霊は臆病者』はチャールズ・ロートン扮する幽霊が居城に駐屯するG.I.を驚かそうと首を取り外して哄笑させてみるが、彼らはシーツを被り顔にガスマスクを装着し幽霊に扮することでロートンを逆に驚かせる。このときの兵士たちの幽霊の扮装は白いシーツで全身を包み、黒いガスマスクに覆われた顔が宙に浮いているように見える。これは首を手に持ったチャールズ・ロートンの方法をどこかしら模倣しているように思えてならない。『幽霊は臆病者』はこのような宙吊りの首=顔のイメージがたびたび反復される。ロートンが一族の肖像画を前に子孫であるロバート・ヤングに向かって、不名誉な臆病者の逸話を語って聞かせるとき、二人は部屋中の壁に掛けられた肖像画を見上げながら会話をする。このシーンの肖像画の顔はまさしく宙に浮いている。また、パラシュートで投下されるブロックバスター爆弾の形状も切断された頭部的なイメージを想起させる(円形の底面から延びた直線が弾頭に向かうにつれ曲線を描き先端にて収束する)。マーガレット・オブライエンが爆弾の投下を発見する際、オブライエンの視点ショットでパラシュートの膨らみが白い靄のように仰角で示されるが、このショットに映る輪郭の曖昧な白さと見上げるという視線はチャールズ・ロートンがG.I.たちの前に初めて姿を現す場面を反復している。
 『魂を救え!』ではミイラ化した男の首がいつのまにかスーツケースに忍び込んでいる。ヒッチコック的なマクガフィンとして処理するにはあまりに異様な存在である首はその持ち主になってしまったエマニュエル・サランジェの関心を強く引き寄せる、思考=頭の中が首に占められる。サランジェは解剖学的なアプローチで首の身元を特定しようとするが、その過程を捉えた一連のシーンはサスペンスを醸造するわけでもなく、描かれるはずもない本番に向けての準備のような印象を与える。それは首の身元特定作業と並行して描かれるオペラ歌唱の練習シーンに依るものかもしれない。首と歌はほのかな関係を結んでいるが、その関係が明らかになるだろうという期待は『魂を救え!』の演出からは期待できそうにない。無口な首と歌う首は対比されるが、サランジェは後頭部を開き頭蓋骨に穴を開ける、また首の断面から下顎骨を取り出してより精密な調査を行う。歌うときに開く口のイメージに囚われているのだろうか、のちにサランジェの口から首の男の生物学的特徴が歌うように説明されるだろう。『幽霊は臆病者』の肖像画にあたるのが首の生前の持ち主と思われる人物を撮影したフィルムであることは間違いない。フィルムは映像だが無音で、チャールズ・ロートンがそうしていたようにイメージに対する注釈が声として響く。また首を発見した際のサランジェの失神は発作的な素早い挙動と編集によって活劇的ともいっていいアクションとして描かれるが、このときの暗転=ブラックアウトに対応するイメージがラストで提示される。さまざまな事件を経てエマニュエル・サランジェは病院で目覚めることになる。失神と覚醒という対比はまず色彩として演出され、暗転を示す黒い画面を反転するかのように病室の壁は不自然なほどその白さを際立たせている。サランジェの頭部はベッドからはみ出しているが、その様子はミディアム・クロースアップで捉えられ、カメラのフレーミングによって首が断ち切られたよう見える。意識を取り戻したサランジェは頭を上げてまだはっきりと焦点を結ばない視線を宙に向けたまま不動の姿勢を取るが、この起き上がるという動作が倒れるという失神時の運動と対応していることは明らかだし、また起き上がる際の頭の動きをカメラはワンカットで捉えるのも首の発見による意識喪失を見事なカット割で演出したことと対応している。
 『カルメル会修道女たちの会話』はまず首のイメージを頭蓋骨として提示する。パスカル・オードレが寝室にて発見するこの頭蓋骨は静物画のジャンルのひとつである「ヴァニタス」に酷似しており、フランス革命下で殉教を選び断頭台に消えた十六人の修道女の運命を予告すると同時に修道女のなかで唯一生き残り一連の出来事について証言を書き残すマザー・マリーに扮するジャンヌ・モローの最後のショットも予告する。黒いフードから延びるモローの首はモノクロの映像ということも手伝ってか、宙に浮いているようにも見える。このような連想は暴徒と化した民衆によって破壊された修道院の片付けをしている際に見つけたパリの聖ディオニシウスの絵画によっても補強される。聖ディオニシウスこと聖ドニは西暦二五〇年頃に殉教した聖人で、首を斬り落とされたにもかかわらず自らその首を拾い上げ、数キロメートルにわたって説教をしながら歩いたという。斬首された者がなおも生き延び、言葉を残し、それが言い伝えられること。『カルメル会修道女たちの会話』成立の過程そのものが首のイメージの変遷として語り直される。またジャンヌ・モローのミディアム・クロースアップは聖テレサ(アビラのテレサ)の絵画へディゾルブされるが、この聖人の絵画も聖ドニと同じ場面で登場している。

 これらの作品に現れる首のイメージはおおよそこのようなものだが、他にも歌という要素が共通項として三つの映画を繋ぐ。『カルメル会修道女たちの会話』のクライマックスでは断頭台に向かう修道女たちは讃美歌「来たり給え、創造主なる聖霊よ」を歌いながら一人、また一人とギロチンにかけられていく。名前を呼ばれるたびに唱和の声が小さくなる。そして、つかの間、途切れるが群衆に紛れていたパスカル・オードレが引き継ぎ、それはジャンヌ・モローの証言として変奏されるだろう。『魂を救え!』ではオペラ歌唱の練習がたびたび描かれると上述したが、デプレシャンの映画で分離したままだった斬首された頭部と歌唱は『カルメル会修道女たちの会話』においては一致を見ているといってよいと思う。『幽霊は臆病者』においても歌は重要な役割を担う。ブロックバスター爆弾を被害を出さずに処理したロバート・ヤングとチャールズ・ロートンは「Gertie from Bizerte」を陽気に歌いながら並んで歩いて帰ってくる。『カルメル会修道女たちの会話』とは異なりハッピーエンドだが、本望を果たしたときの歌としてのそれと重なる部分もある。だが『幽霊は臆病者』において重要なのはオスカー・ワイルドの小説には影もかたちも無いだろうブギウギを踊るミュージカル・シーンだ。製作者がアーサー・F・フリードであるためだろうか、明らかに物語から乖離したこのシーン(それこそチャールズ・ロートンの首のように)は、クライマックスで思わぬ反復を見せる。ダンスシーンでマーガレット・オブライエンはロバート・ヤングに促されてその動作を一歩遅れて模倣する。

 クライマックスでは時限装置が作動したブロックバスター爆弾を安全に処理するために鎖でジープと繋ぎ、無人の場所に向かってジープを爆走させる。音楽にのって可能な限りの躍動と疾走をみせるこのシークエンスはブギウギの踊りを披露するシーンと同等の運動量を誇っている。何より、ブロックバスター爆弾はマーガレット ・オブライエンがそうしたようにロバート・ヤングの動作を模倣する。ロバート・ヤングの運転するジープが地面の凸に突っ込み跳ね飛ぶと、鎖で繋がれた爆弾も同じような跳躍を見せる。

 また後部座席で鎖が繋がったままかを見張っていたチャールズ・ロートンは藪に突っ込んだ後、ブロックバスター爆弾に跨がり、ロデオに挑戦するかのように振り落とされないよう踏ん張るが、後ろを向いていたロートンは爆弾に跨ることで前方を向くことになり、運転をしているロバート・ヤングの姿勢を反復することになる。爆弾処理成功の暁にロートンとヤングは歌を歌って祝うが、そのシークエンスでロバート・ヤングはマーガレット ・オブライエンをブギウギのときに行ったようにふたたび抱き上げるだろう。『幽霊は臆病者』のハッピーエンドはロートン、ヤング、オブライエンという同じ一族の幽霊と人間が歌って踊って祝うことによって成就するのだ。


 『斬首の光景』の原題『VISIONS CAPITALES』という。「CAPITALES」が邦題の「斬首」に相当しているが、訳者が解説でも断っているようにこの言葉は「斬首」という行為を直接的に指示するものではない。「CAPITALES」は「首」そのもののことでもあり、また「決定的な」という意味も含意している。複数形の「s」が原題を形づくるどちらの単語にも付いていることも重層的なイメージの作用のはたらきを予示することを意図しているのだろう。
 絵画、デッサン、彫刻等の図像を思索の対象とする『斬首の光景』において「歌」が考察の対象となることはついにあり得なかった。それは、斬首あるいは頭部にまつわる美術展のカタログとしてひとまず成立した『斬首の光景』という本の性質上当然のことだろう。しかし、クリステヴァが『斬首の光景』で挙げた三つの映画には「歌」が重要なモチーフとして現れている。クリステヴァがそのことに意識的だったかのかそれとも無意識的だったのかは定かではないが、「歌」を歌う人間の顔もまた「VISIONS CAPITALES」=「首の光景」=「決定的な場面」であること(映画において、歌う人間の顔のクロースアップは欠かすことはできない。そのとき、歌う顔はカメラのフレーミングによって首から下が切断されたように見えるだろう)に間違いはないだろう。

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