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「サスペンス=宙吊り」のまま──桜井画門『亜人』における特権的瞬間、偶然性、賭けについて

語源に戻れば、サスペンスはラテン語の《suspensus》に由来し、宙吊りの状態に置かれること、未決定の状態に置かれることを意味する。

──三浦哲哉『サスペンス映画史』(※1)

 『亜人』の作者桜井画門は皆川亮二の『ARMS』へ寄せたエッセイで「漫画映像」という独自の用語を用いている。「漫画映像」とは「映画的な映像を漫画表現におとしこんでいる」(※2)ことを意味し、同エッセイで桜井は「一コマ中でも複数方向に動く人物、その部位、そしてカメラ、またそれぞれの速度の微妙な違い」/「静止画の中で映画的映像を発動させる事」(※3)とその具体的な特徴を挙げる。
 皆川の作品に大きな影響を受けたと述懐する桜井は、上記のような皆川の作品の特徴を自らの作品にも反映させようとしたことを白状している。

図1 桜井画門『亜人』(※4)
図2 桜井画門『亜人』(※5)


 例えばこれらのコマ内で描かれる運動は上で引用した「一コマ中でも複数方向に動く人物、その部位、(…)またそれぞれの速度の微妙な違い」という文章を正確に反映させている。
 またスピード線や吹き出し、オノマトペの使用が制限されていることも特徴だろう(図1の1コマ目、5コマ目にはそれらが使用されているが、図2では徹底して使用が制限されている)。それは「静止画の中で映画的映像を発動させる」ための桜井なりの条件のように思える。
 このような「漫画映像」的なコマを見るているうちに想起するのは、三輪健太朗がその著者『マンガと映画──コマの時間と理論』においてジル・ドゥルーズの『シネマ』から援用した「特権的瞬間」という概念である。アンリ・ベルクソンの概念を直接的に引用するかたちでドゥルーズは『シネマ』の議論を進めているが、ベルクソン=ドゥルーズは運動を表象する方法は二種類あるとし、その二つを「古代の方法」と「近代の方法」として対比させる。ベルクソンはこの対比を「古代科学が、対象を十分に知るのはその特権的な諸瞬間を記したときであると信じているのに対して、近代科学は対象を任意の瞬間において考察する。」(※6)と説明する。『マンガと映画』において三輪はこの文章を引きつつ、さらにベルクソンによる馬のギャロップという運動の表象を彫刻と瞬間写真の対比させて論じる記述を引用し、次のようにまとめる。

(…)「馬のギャロップ」という運動を表現するにあたり、「彫刻」を用いるというのが「古代の方法」、「瞬間写真」を用いるというのが「近代の方法」にほかならない。前者は、走る馬の本質を最もよくつかんだ特徴的な姿勢を選び出す。一方、後者が見せてくれるのは運動の孤立した断片である。要するに、古代における運動とは「特権的瞬間」から構成され、近代における運動は「任意の瞬間」から構成される、ということである。

三輪健太朗『マンガと映画──コマの時間と理論』
(※7)

 三輪は、ベルクソン=ドゥルーズの「特権的瞬間」と「任意の瞬間」という概念が近代的なマンガにおける表現と「厳密に重なるわけではない(…)」(※8)と留保しつつ「「任意の瞬間」になぞらえ、「映画的」なマンガを論じる(…)」(※9)という立場を採用し、「(…)古代的な永遠性、無時間性への志向から遠ざけ、具体的な幅を持ったものとして表象するスタイル。」(※10)を見出したと結論している。
 しかし、気をつけねばならないのは、三輪自身も注意を促しているように「「特権的な瞬間」になぞらえうるような運動の表象」はマンガからは決して排除されてはいないという点である(むしろ「ごく一般的なマンガの中にも頻繁に登場する。」(※11))。「特権的瞬間」に相当するマンガの運動表現として三輪が例示するのは石ノ森章太郎『サイボーグ009』のあるコマである。

図3 石ノ森章太郎『サイボーグ009』(※12)


 このコマについて、加藤幹郎が「愛の時間」という論考で賛辞を送っていたが、三輪は加藤の記述を検討し、その中に「特権的瞬間」の指標を見出している。その指標とは何か? 「愛の時間」における記述はこのようなものだ。

このひとコマを満たす無時間性あるいは超時間性にわたしは愕然とする。そのジェット機はわたしが次の頁をめくるまで永遠に落下しつづける。この画面は静止している(ここには運動をあらわす線も、墜落にともなう効果音も描きこまれていない)。そして凛とした静寂があたりをつつみこんでいる。
……おそるべき速度で墜落するジェット機をとらえた画面ではあるが、これは切断された時間の一片をしめすものではない。ここで運動は停止しているわけではない。つまりこのジェット機は(わたしがこのコマを凝視しつづけるかぎりにおいて)無限に永遠に落下しつづけるのだ。

──加藤幹郎「愛の時間」(※13)


 三輪は図3に先行/後続する頁を参照し、なぜ「愛の時間」において図3が論述の対象となったのかを検討する。三輪は先行する頁の最後のコマにおいてジェット機はすでに降下しており、図3と同様の運動を示していると指摘する。三輪の採用する「任意の瞬間」によるマンガの運動表現は運動を分節し、前後の連関によって継起的に運動を表象する。しかし、図3とそれに継起するはずの先行するコマは海面への落下という同一の運動を描いており、また図3に後続する頁の一コマ目が海面への着水を描いていることから、図3と先行するコマは反復表現であり、運動の分節が機能していないことが理解できる。さらに加藤の指摘に注意を払うと図3の落下には「運動をあらわす線も、墜落にともなう効果音も描きこまれて」おらず、それ故に「切断された時間の一片」=「任意の瞬間(分節表現)」には相当せず、「無時間性あるいは超時間性」という「特権的瞬間」になぞらえうる表象と見なすことが可能となる。
 実は『亜人』にも図3のような「特権的瞬間」を思わせる運動が存在する。図4として引用する図像がそれにあたるが、この図像には上に引用した加藤の論述をそのまま適応できうるだろうし、また図4と先行/後続する頁との関係も図3におけるそれと正確に対応している。ところで「特権的瞬間」的運動表象とは「一つの図像が単体で運動の全体を表象し、何らかの意味を担うことになるような表現(…)」であるのだが、図4が担う意味とは何だろうか。

図5 桜井画門『亜人』(※14)


 それを考察するには図4の状況と『亜人』の設定を確認する必要がある。劇中における亜人とは、17年前に発見された不死身の新人種のことを指す。亜人は各国政府によって保護・隔離という扱いを受けているが、日本では亜人への非人道的な人体実験が繰り返されており、また一部企業には亜人の貸与も行なっている。図4の旅客機が墜落しようとしているビルは亜人を利用して新薬を開発し利益を上げた製薬会社であり、佐藤と名乗る亜人テロリストが旅客機をハイジャックし製薬会社への自爆テロの瞬間を描いているのが図4の状況である。スリルを味わい哄笑するテロリストと犯行予告を侮る製薬会社の社長の態度はあまりにも対照的だ。さらに、旅客機の乗員乗客や警備の警察官がテロによる恐怖に慄くなか、佐藤はテロリズムを満喫して「スリル満点!」とまで口にする。ここでは、人間にとって畏れるべき死という現象が亜人には甚だしく軽い意味しか持ち得ていない。のちに明確になるが、佐藤にとっては、みずからの眉間に撃ち込まれる銃弾もアーケードゲームの筐体に投入するコインも等価値なのだ。死に対する価値観の断絶的な相違、旅客機の落下という「特権的瞬間」はそのような意味を担っている。
 そのような死の非対称性は図1の最後のコマでも表象されている(図5)。ガラス板を挟んだシンメトリカルな構図で向き合う佐藤と警備員が描かれているが、前者が拳銃、後者が麻酔銃という殺傷能力の有無という点では彼我の差がある武器を亜人と人間が向け合っている構図は前述の非対称性を強く思わせる。

図5 桜井画門『亜人』(※15)


 このような非対称性は佐藤を一方的に死を宣告する立場へと押し上げる。製薬会社へのテロを終えた佐藤は第2フェーズと称し暗殺リストを公開する。そこには主要登場人物である戸崎の名も記載されている。佐藤は暗殺リストを上から順に遂行していくが戸崎は自分の名前がリストの後半であること、また第2フェーズは第3フェーズへのカウントダウンであると佐藤が口にしたことから、時間的猶予があると見積もり事態への対策に臨む。だが、リストの最後尾が暗殺されたと知らされたことで戸崎はありもしない規則性を無意識的に見出していたことを思い知る。「順番じゃないのか」という台詞は象徴的だ。リストの消化順はそのときの佐藤の気分によって決定されるという偶然性に支配されている。そのような偶然性の下にみずからが組み込まれていることを知ること。「知らなかった危機が知られるとき、当の危機に対して、そしてそれまでその危機を知らず自分自身に対して、ひとは恐れおののくのです。」(※16)とは映画評論家・三浦哲哉の言葉だが図6はその言葉をそのまま視覚化したようなコマであり、また先行/後続する頁との関係は「特権的瞬間」的でもある。しかし、注意しなければならないのは図6の黒い腕は、図4のような実際の運動ではなく、戸崎の内面で生起したイメージ、あるいは心理面で発生した落差の感覚を視覚化したものであるということだ。ならば、このような運動の不在を「特権的瞬間」と呼ぶことはできない。それは「サスペンス=宙吊り」と呼ぶべきだろう。

図6 桜井画門『亜人』(※17)


「特権的瞬間/死の非対称性」は「サスペンス/死の偶然性」へと推移する。そしてこの「サスペンス/偶然性」に晒されるのは主要登場人物に留まらない。偶然性は全国的かつ無差別的にその範囲を広げるだろう。そのとき図4のような落下は「特権的瞬間」という位置から滑り落ち、「日常的危機」として現前する。
 だが、「日常的危機」の只中においてこそ、死に纏わる非対称性と偶然性を覆そうという運動が演じられる。三浦が先のエッセイでヒッチコックを引用していみじくも言うように「サスペンス映画こそが、恐怖とともに、足場をめぐる反省の契機を近代人に与える役割を果たす(…)」のだ。そのような運動を確認するためにここで図2に立ち返ろう
 図2は図5と見事に対照的である。図2の図像は奥行きのある縦構図で描かれている。佐藤と対峙するのは『亜人』の主人公永井圭であり、彼も亜人である。図2で永井は麻酔銃を引き抜こうとしているが、画面奥の佐藤はバイクの闖入によってに拳銃を弾き飛ばされている。このような構図と細部の対照は図4や図6が意味を担っていた非対称性を無効化している。さらにこの図2が図4に似た「特権的瞬間」のような運動であることも注目すべきだろう(また、バイクを駆るのは永井の友人だが、この介入が永井の予想範囲外にある偶然に属する出来事であることも付言しておこう)。
 「特権的瞬間」の再演とほぼ同時に、「日常的危機」はひとまず収束する。だが三浦がその著書『サスペンス映画史』で主張するように「サスペンスとは、意識を馴致しようとするあらゆるものに対する抵抗の謂いである。」(※18)のだ。
 「恐怖とともに、足場をめぐる反省の契機」を与えられた主人公永井圭のとってかりそめの収束は足場とはならず、いまだに宙吊りの状態にとどまっていることに自覚的にならざるをえない。眼の前にはさっきまで死の床に横たわりかけていた友人がいる。このたった一個の命しか持たない友人に対して、永井はかつてこう言った。
「僕は…命を懸けることが出来ない/だから/命以外のすべてを懸けなきゃあ…わりにあわない」(※19)
 このようなセリフが谺しているだろう頁を見つめていると、ふとパスカルの『パンセ』の一節を想起する。「だが賭けなければならないのだ。それは任意的なものではない。君はもう船に乗り込んでしまっているのだ。(※20)」。それはいちど敗北を期した後、ふたたび佐藤との戦いに参戦する際に口にした「論理的」(※21)説明にも通じるだろう。
 このような認識と「サスペンス=宙吊り」によって与えられた「足場をめぐる反省の契機」は主人公を真の収束への到達へ向かわせる。そこでは、偶然性が支配する「未決定の状態に」積極的に身を投じる運動が描かれる。
 この過程で、主人公は「偶然」にも頭を打って、「偶然」にも記憶を失い、手がかりを見つけようと探ったバックから「偶然」にも貰い受けた拳銃を手にする。このような「偶然」の積み重ねは主人公にある推論を促し、結果としてこれらの「偶然性」は「可能性」という価値のあるものに読み替えられる。
 パスカルは『パンセ』の「賭け」をめぐる断章において「賭けをする者は、だれでも、不確実なもうけのために、確かなものを賭けるのである。」(※22)と述べている。「偶然性」を「可能性」と認識する主人公にとっての「確かなもの」とは、「僕は亜人だ」という自己同一性にほかならない(図7)。

図7 桜井画門『亜人』(※23)


 「僕は亜人だという記憶」を喪失していた主人公が「僕は亜人だという可能性」に「賭け」て自殺する。結果、彼はあらたな認識を獲得する。主人公はみずからの経験にもとづき、亜人とは「死なないだけのただの人間だ」という一見すると矛盾したような認識を得る。この認識が佐藤にも適用できると確信した瞬間の永井のモノローグは極めて象徴的だ。佐藤とともに落下しながら永井は「肉体のシステムからは逃れられない/この重力にすら逆らうことはできない」と確信する。それは「死の非対称性/偶然性」を規定していた落下という「特権的瞬間」の支配から解き放たれる瞬間だ。
 「でも起こりえる」という「偶然性=可能性」に向かって跳躍すること。それが『亜人』における「賭け」であり、そして「賭け」とは、「サスペンス=宙吊り」の状態から解放されるための運動そのものにほかならない。(初出:『manga.com vol.1』、2023年2月18日 初版発行 コミティア143、編集:maritissue)


(※1) 三浦哲也『サスペンス映画史』みすず書房、16頁
(※2) 皆川亮二、[ 原案協力 ] 七月鏡一『ARMS』(12) 小学館文庫、329頁
(※3)同掲、329 〜 330頁
(※4) 桜井画門『亜人』(8)、127頁
(※5) 桜井画門『亜人』(15)、106頁
(※6) アンリ・ベルクソン『創造的進化』合田正人/松井久訳、ちくま学芸文庫、417頁
(※7) 三輪健太朗『マンガと映画──コマの時間と理論』NTT 出版、326頁
(※8) 同掲、337頁
(※9)同掲、352頁
(※10)同掲、354頁
(※11)同掲、362頁
(※12) 石ノ森章太郎『サイボーグ 009』(1)( 石ノ森章太郎デジタル大全 )、78頁
『サイボーグ 009』と『亜人』に共通する用語に「黒い幽霊」が存在する。前者は主人公たちと敵対する武器商人の組織の名称、後者は亜人が放出する特殊な物質から成る分身体の名称として。
(※13) 加藤幹郎「愛の時間──いかにして漫画は一般的討議を拒絶するか」『表象と批評──映画・アニメーション・漫画』収録
(※14) 桜井画門『亜人』(4)、186 〜 187頁
しかし、先行する頁との連関を比較すると図4が図3 ほど「特権的瞬間」になぞらえられるかは疑問の余地が残る。図4に先行する頁では、ハイジャックされた旅客機が垂直降下する運動を背後から捉えたような俯瞰の図像が描かれているが、 頁のほぼ全体を占める旅客機の機体と眼下の街との対比が遠近感を生み、旅客機はまだ上空にいるように感じさせる。図4では爆破予告をしたビルの真上に旅客機が位置していることから、先行する頁と図 4 の間には運動の分節表現として成り 立っていると見なすのが妥当だろう。とはいえ、本論ではあくまで程度問題として捨象し、図 4 を「特権的瞬間」になぞらえられるような運動の表象」と見なす。
(※15) 桜井画門『亜人』(8)、127頁
(※16)【じんぶんや第84講】三浦哲哉選「サスペンス=宙吊りの思考」(https://www.kinokuniya.co.jp/c/20120926095924.html)、最終アクセス :2024/03/13


( ※ 17) 桜井画門『亜人』(5)、168頁
図6が喚起するサスペンス性で、ダシール・ハメット『マルタの鷹』におけるフリットクラフト・パラブルを筆者は想起する(この挿話をめぐる詳しい分析は諏訪部浩一『マルタの鷹』講義』を参照)。フリットクラフトは、工事中の建物から落下した一本の梁が直撃しかけたことをきっかけに「だれかが、自分の人生の蓋を開け、そのからくりを覗かせられた
ように」(ダシール・ハメット『マルタの鷹 [ 改訳決定版 ]』小鷹信光訳、108頁)感じ、妻と二人の息子を残し、突如失踪する。妻からフリットクラフト捜索の依頼を受けた探偵・スペードは、郊外の街にてフリットクラフトを発見する。彼は偽名を使い、新たな妻子と共に失踪前と全く同じような生活を送っていた。このフリットクラフトの体験を、スペードは 「人間は、そんなふうなでたらめの偶然によって死んでいく。無差別に、そんな偶然から逃れていられるあいだだけ、生きのびられる。そんなことがわかってしまったのだ。」( 同掲、108頁 ) と要約する。「でたらめの偶然」「無差別に」という言葉は、暗殺リストの無規則性に当てはまる。またこの挿話が持つアイロニーを措き、『亜人』と比較してみると主人公・永井圭の願望が、フリットクラフトと同じであることが理解できる。永井が参戦するにあたって戸崎に要望した条件は、偽の身分と事故前と同水準の生活だった。他にも、「FILE:36 DOOM」にて図6を反復したような黒い腕が描かれる。その腕に傷つけられた男性の頬の傷は、梁が落ちたときに砕け散った鋪石のかけらがフリットクラフトの頬につけた傷を想起させる。
( ※18) 三浦哲也『サスペンス映画史』みすず書房、286頁
( ※19) 桜井画門『亜人』(2)、63 〜 64 頁
(※20) パスカル『パンセ』前田陽一/由木康訳、中公文庫、160頁
(※21) 桜井画門『亜人』(10)、185 〜 186頁
「よく聞け / 勝率 0%。この数字は何も干渉しなければ永遠にゼロのままだ / だから無駄でも行動し続ける / たとえ 0・000001%程だとしても、勝機が生まれる可能性を死なせないためにだ。何が言いたいかわかるか!? バカ!! つまり、何 はなくとも最後まで戦うということは、非論理的行動ではない!! / これは〇 % の勝率を最大限引き上げるため熟考された、完璧な論理的行動だ!」
(※22)同掲、161頁
(※22) 桜井画門『亜人』(16)、147頁
(※23) 桜井画門『亜人』(17)、110頁


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