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かれらは一人では生きられない

かれらは当たり前のことに、いずれ二人の人格なのだったが、それを認めるという成熟が、かれらにとっての危機に他ならなかった。──野崎六助「時とは打倒せねばらなぬ一つの専制である」

野崎六助『北米探偵小説論』第Ⅳ章 時と砦について

帰宅せよ。すべて許す。── ヴァルター・ベンヤミン「一方通行路」

ヴァルター・ベンヤミン(著)、丘澤静也(訳)『教育としての遊び』

 デヴィッド・ロウリー『ピーター・パン&ウェンディ』を観ているあいだ(サム・ペキンパーのビリー・ザ・キッド映画を倣ってタイトルを『ジェームズ・フック&ピーター・パン』すれば良いのにと思っていた)、「かれらは一人では生きられない」ということばが頭に浮かんだ。
 これは野崎六助の『北米探偵小説論』にあるシオドア・スタージョンについて論じた「コズミック・ブルースを唄え」にさりげなく書きつけられた一節なのだが、法月綸太郎はこのフレーズに注目し、『北米探偵小説論』全体を貫く「共にいることウィズネス」の主題をこの一節が書かれた箇所から導き出している。以下、かなりの長くなるが『法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術』に採録された『北米探偵小説論』論である「かれは一人では生きられない」より引用する(論旨の行方が彷徨ったとしても、どうしても省略できない、まるごと引き写すしかない文章というものが存在する)。

(…)ジャンルの壁を強化する縦割りの系譜を追うのではなく、ありえたかもしれない横のつながりを夢みること……。ヘイクラフト式の紀伝体(作家列伝)ではなく、カットバック風の編年体技術が採用されていることの意味は、見かけ以上に大きい。
 野崎はこうした歴史記述を選んだ根拠を、「アメリカ探偵小説を、社会意識という変数の中においてみ」るための必要条件と説明している(「はしり書き的うしろ書き」)。この説明は納得の行くものだが、理由はそれだけではないだろう。ありえたかもしれない連帯の可能性を示唆する編年体の構成には、もうひとつの切実なモチーフがあったはずである。なぜなら野崎は、孤立した者たちが「共にいることウィズネス」を志向するフィールドとして、「北米探偵小説」を定義しているのだから。


 かれらは一人では生きられない。そこに帰属することなしには生きられないのだ。スタージョンはそれを逃避の砦とは捉えずに、逆に、かれらにとって唯一の積極的な住み家に転化しようとする。かれらにあっては、そこにおいてのみ、「共にいることウィズネス」が可能なのだ。


 本書から省かれた旧版のシオドア・スタージョン論「コズミック・ブルースを唄え」には、右のような一節がある。「共にいることウィズネス」という語はほかでは用いられていないが、ここに書かれていることは、実はスタージョンひとりの問題に限られない。
 最初のセンテンスにポーの「群衆の人」がこだましていることは、指摘するまでもないだろう。「かれは一人では生きられない。かれは群衆の人である」。さらに野崎は、本書の副読本とでもいうべき『アメリカを読むミステリ100冊』の冒頭で、ポーを継いだアメリカのミステリの一世紀は、「単独者ソリチュード」の魂をかき乱す「群衆マルチュード」という不可思議な万華鏡の発見と探究に費やされた、と指摘している。したがって、スタージョンに関する記述は、「北米探偵小説」の書き手たちすべてについて、つぎのように読み替えることができる。


 かれらは一人では生きられない。「北米探偵小説」に帰属することなしには生きられないのだ。ヴァン・ダインは、ハメットは、あるいはクイーンは(……等々)、それを逃避の砦とは捉えずに、逆に、かれらにとって唯一の積極的な住み家に転化しようとする。かれらにあっては、そこにおいてのみ、「共にいることウィズネス」が可能なのだ。


 スリム化された文庫版では、いくぶん鳴りをひそめているが、『北米探偵小説論』の隠れたテーマが、こうした「共にいることウィズネス」の探究(より正確には、その挫折の探究)にあることを強調している点にはっきりと示されている。もちろん、後継のクイーンも例外ではない。
 あるいは、編年体の記述によって、ヴァン・ダインの退場と、ハメットとリリアン・ヘルマンの関係がオーバーラップしてくるくだり──まるでハメットにとって、ヴァン・ダインがかけがえのない伴侶であり、その欠落を埋めるために、ヘルマンへの依存が要請されたかのようだ。これも本書から省かれているが、旧版の第Ⅳ章「時の砦について」には、自殺したロスト・ジェネレーションの詩人ハート・クレインに言及した「メルヴィルの墓の下に」、スコット・フィッツジェラルドとゼルダ夫婦の栄華と破滅を描いた「時とは打倒されねばならぬ一つの専制である」の二つの断章がはさみ込まれていた。こうした流れの中、『影なき男』が夫婦探偵小説の元祖として皮肉な持ち上げ方をされるのは、「共にいることウィズネス」の挫折と変容を示す指標以外の何物でもないだろう。
 だとすれば、従兄弟どうしの若き合作者クイーンが、ヴァン・ダイン=ハメットの「共にいることウィズネス」、すなわち横並びの分身・共同関係を受け継いだ『北米探偵小説論』の最重要作家として浮上してくるのは、自明のことである。クイーンの国名シリーズと、バーナビー・ロスの「悲劇四部作」が節を分けられているのは、こうした横並びでの分身・共同関係を浮き彫りにするためにちがいない。
 探偵クイーンは、彼の分身であるドルリー・レーンの自死を代償として生き残り、作者クイーンはコンビ作家として「共にいることウィズネス」をかろうじて維持しながら、「ミスター北米探偵小説」の栄光と挫折を一身に引き受けることになる。(…)

 野崎がスタージョンについて書き、法月が北米探偵小説として書き替えた「かれらは一人では生きられない。(…)」以下の一節は、この文章の発端となったロウリーの映画に折り返すなら、次のようになるだろう。


かれら(=ピーター・パンとフック船長)は一人では生きられない。ネバー・ランドに帰属することなしには生きられないのだ。ロウリーはそれを逃避の砦とは捉えずに、逆に、かれらにとって唯一の積極的な住み家に転化しようとする。かれらにあっては、そこにおいてのみ、「共にいることウィズネス」が可能なのだ。


 また、野崎が『北米探偵小説論』を書くにあたって参照したヴァルター・ベンヤミン(と花田清輝。ここにも「共にいることウィズネスの志向が見出せる)の「一方通行路」(『教育としての遊び』丘澤静也訳 晶文社 一九八一年)からの引用は、「共にいることウィズネス」の主題とは対照的だが、それゆえに『ピーター・パン&ウェンディ』に相応しい、ともすれば映画の要約のような一節が書き写されている。

亡霊と事物の間にはさまって、子供は何年かをすごすわけだが、その時期の子供の視野は人間ばなれしている。子供は、夢の中に住んでいるかのようだ。じっとしているものは、なにひとつない。自分の身にはあらゆることが降りかかり、あらゆるものと出会い、あらゆるものに衝突する、と子供は思う。放牧民として子供が過ごす歳月は、夢の森のなかを流れる時間なのである。そこから子供は獲物をもち帰り、それを清め、それを確かなものにし、その魔法を消す。机の抽きだしは、兵器庫に動物園、犯罪博物館に地下納骨堂になってしまう。いが栗はクサリガマの分銅であり、銀紙は銀の宝物、積み木は棺桶、サボテンはトーテムポール、銅貨は楯というわけだ。そして「かたづける」ということは、これらがぎっしり詰まった建物を破壊することに他ならない。

 ベンヤミンのこの記述は、エヴァー・アンダーソン演じるウェンディの最後の行動を思い起こさせる。わが家に帰ってきたウェンディは、屋根の上でピーター・パン(アレクサンダー・モロニー)と最後の会話を交わし、別れ、空をゆく船を見送ったあと、ウェンディは屋根から落ちないように慎重に壊れた煙突に歩み寄って(このとき、ウェンディは両手を広げてバランスをとりながら、よろめき未満の慎重な足取りで歩をすすめるが、この身振りは魔法で空を飛んでいたときの名残のように見える)、煉瓦に刻まれた「PETER PAN」の名の下に「+ Wendy」と書き加える。もはや単独者としてのそれとして膾炙してしまった物語の名の下に、往々にして消去されがちな一人の人間としての名を署名すること。ちょうど、上に挙げた『Pat Garrett and Billy the Kid』が『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』という邦題に改められたのとは正反対のように。しかし、法月が正確に指摘したように──「『北米探偵小説論』の隠れたテーマが、こうした「共にいることウィズネス」の探究(より正確には、その挫折の探究)にあること」──、この身振りは、むしろ「共にいることウィズネスの挫折」をこのうえなく強く印象づけるだろう。ベンヤミンが言うように「それを確かなものに」することは「その魔法を消す。」ことにほかならないのだから。
 「共にいることウィズネス」の挫折と変容。法月が野崎の著作から見出したこれをデヴィッド・ロウリーのフィルモグラフィーに適応してみるのはさほど困難なことではない。しかし、ある意味で「挫折と変容」を蒙ることなく「共にいることウィズネス」を達成した作品も存在する。
 『さらば愛しきアウトロー』において、ロバート・レッドフォードは本職である銀行強盗の際、つねに懐に拳銃を忍ばせている。レッドフォードが支配人に声を掛けて、融資の相談を持ちかけ、相手が「どのようなお仕事で?」と尋ねると、コートを開き「このような」と言って拳銃を(支配人だけに)見せる。いちども発砲されるどころか、銀行強盗の際にはその形すら画面には映らない拳銃。身につけた拳銃を手に持つことによって身体から引き離さず、ただ「共にいることウィズネス」であること。

かれら(=THE OLD MAN AND THE GUN)は一人では生きられない。「銀行強盗」に帰属することなしには生きられないのだ。ロウリーはそれを逃避の砦とは捉えずに、逆に、かれらにとって唯一の積極的な住み家に転化しようとする。かれらにあっては、そこにおいてのみ、「共にいることウィズネス」が可能なのだ。


 『さらば愛しきアウトロー』の結末において、レッドフォードはふたたび銀行へ向かう。直後、ふたたび逮捕されるまで四回の銀行強盗を働いたという事実が字幕で説明される。拳銃はもはや見せることすらない。それどころか、レッドフォードすら画面からいなくなる。レッドフォードと拳銃は共に画面から隠されることで「共にいることウィズネス」を達成する(拳銃はレッドフォードの服の内に、レッドフォードは銀行の内に)。『さらば愛しきアウトロー』はロウリーにおいて、タイトルの名を冠した者/物たちが最後まで「共にいることウィズネス」であった稀有な作品である(それは、おそらく、この映画が実話を基にした映画であることと無関係ではないだろう)。
 『さらば愛しきアウトロー』とは異なり、老人と銃の関係が「共にいることウィズネス」の挫折と変容に終わった映画も当然ながら存在する。かつて「Smith,Wesson and Me」と言い放ったクリント・イーストウッドは『グラン・トリノ』で拳銃の代わりにライターを懐から取り出し、まんまと蜂の巣にされる。拳銃を携えているとはまるで思われていなかったレッドフォードとは対照的に、ここでのイーストウッドはつねに拳銃を肌身離さずにいる男として演出される。監督クリント・イーストウッドと俳優クリント・イーストウッド(=ウォルト・コワルスキー)の思惑が一致したときに現れる「共にいることウィズネス」の変容、いないものをいるように思わせること。それは『グラン・トリノ』という映画において、車と犬と歌によって反復されることになるだろう。

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