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蓮實重彦が「大いに気に入ってしまった」『ダンケルク』(二〇一七)論

 「群像 2018年 1月号」に掲載された蓮實重彦の随筆「パンダと憲法」は蓮實の映画批評家としての仕事にある程度親しんでいる者にとってそれなりの驚きをもって受け止められた。なぜなら、そこにはこんなことが書かれていたからだ。



「クリストファー・ノーランの新作『ダンケルク』(2017)が大いに気に入ってしまった(……)」



 この文章にそれなりの驚きが見受けられたということは、当然ながら蓮實はいままでクリストファー・ノーランを評価をしていなかったという共通認識が蓮實の読者にあったことを意味する。たとえば『映画時評 2012-2014』に収められている『ダークナイト ライジング』を評した文章には「この監督は、あくまで「着想」で勝負する人であり、(…)それをショットの連鎖として提示する彼の「演出」は必ずしも高度なものとはいいがたい。」という指摘が冒頭からなされ、この直後には「その指摘は、「批評」とはいっさい無縁のたんなる事実の確認にすぎない。」というダメ押しの文章が続く。また同著に収録された青山真治、阿部和重両名との対談においても「ノーランという人には演出力が全くない。」とここでもクリストファー・ノーランに「演出」という言葉によって否定的な評価がなされている。ここでいう「演出」とは「運動」の不在とも言い換えることができるだろう。蓮實は評の中で『バットマン ビギンズ』のクライマックスを具体的に分析することでノーラン作品における「運動」の不在ぶりを証明するのだが、「パンダと憲法」の「大いに気に入ってしまった」という告白の後に『ダンケルク』に関する具体的な言及はまったくなく、ノーランが『ダンケルク』でみせた「演出」をなぜ蓮實が気に入ったのかはいまだ謎のままだ(そもそも「パンダと憲法」における突然のノーランの新作評価は随筆の主題である民主主義への「どうも好きになれない」という厭悪感への自省のなかで不意に告白されたもので、そこでは民主主義への厭悪感が理論的なものではなく評価されてしかるべき作家や映画監督の作品がどうにも好きになれないという個人的な好みと同じような体質的な問題として前提されるなか、ひとつの例外の例として──「これまでの作品に一つとして感服したためしのないクリストファー・ノーランの新作『ダンケルク』(2017)が大いに気に入ってしまったという例外もなくはないが」──提示されたにすぎす、民主主義への個人的厭悪感の省察が目的として書かれた随筆においてはまったく無視しても良い細部なのだ)。
 あるいは、「演出」の巧拙とは無関係の理由で『ダンケルク』を「大いに気に入ってしまった」のかもしれない。地域としての「ダンケルク」についてなら、蓮實は『反=日本語論』においてそれなりの長さを持った文章を書いている。そこには地域としての「ダンケルク」がなんとかまだ保持している戦争の記憶がドイツ人観光客を喜ばせている様子を結末に置いてはいるものの、描き出されているのは主に著者の当時はまだ幼い息子に母方の祖父母が手加減なしのフランス語で会話する様子や、オー・シェ・フュという叫びをめぐる言語的複雑さとその複雑さを複雑さのまま受け止め、残酷さと嘲笑と差別とを引き出してしまう息子に対する著者の驚愕だ。しかも、地域としての「ダンケルク」に残存する戦争の記憶は、またも幼い息子の声によって呼び起こされ結末に書き込まれているのだ。この結末に対応する冒頭部においても「ダンケルク」という場所は戦争と紐付けられた言及がなされている。このように「ダンケルク」という土地にまつわる戦争の記憶は、息子にまつわる蓮實の個人的な記憶とも結びついているようにみえる。連合国軍によって行われた大規模撤退作戦「ダイナモ作戦」の様子を描いた『ダンケルク』という二〇一七年のフィルムには、夥しいイギリス軍兵士に比べドイツ軍兵士の姿はほとんどみえない。せいぜい映画のラストでトム・ハーディ扮する飛行士ファリアを捕縛するために接近する様子やトム・ハーディのクロースアップの左右に映り込む程度である。その描写の密度の差は『反=日本語論』という書物における幼い頃の息子や妻と旧ドイツ軍のトーチカが残るオースト・ダンケルクの砂丘を楽しそうに散策するドイツからの観光客との差に対応しているかのようにみえなくもない。
 一九七七年に上梓された『反=日本語論』の描写は四〇年後の二〇一七年に『ダンケルク』というフィルムとして反復され、蓮實重彦に蓮實重臣の記憶との再会を不意に引き起こす……



「海と田舎との遭遇がまた家族や親類との再会をも意味しなければならない(…)」
─蓮實重彦『反=日本語論』

 蓮實重彦の『ダンケルク』に対する「大いに気に入ってしまった」という評価はこうした「演出」とは無縁の感傷的な理由によるものなのだろうか。

クリストファー・ノーラン『ダンケルク』

 ここでいちど『反=日本語論』を閉じる。こういった類推は個人の内面に勝手に踏み込むようなものだし(すでに踏み込んでいるのかもしれない)、映画そのものとはあまりに関係ない事実だからだ。そもそも「大いに気に入ってしまった」理由が書かれていないのならば、その事実に納得し、あれこれ理由を考えることなどすべきでないのかもしれない。
 しかし、蓮實重彦の映画批評にそれなりに親しみ、かつ、かなりの信頼を寄せている以上、やはり『ダンケルク』というフィルムには蓮實が「大いに気に入ってしまった」とこぼすに値する映画的な証拠、「演出」が存在していたのではないかと考えてしまう。見落としていた「演出」が『ダンケルク』にあったのではないかという不安とその解消、それがこの文章を書いている理由なんだろうか。おおいにありうる話だが、不安の解消ほど映画を観るという行為から忌避すべき動機もないだろう。むしろ、なにも観てはいないという不安を自覚して保持すること、それが理由でなければならない。そして同時に、しばらくのあいだは観ることがかなわないであろう映画について書いた蓮實重彦の文章を読んだときに胸のなかで湧く観たいという欲望にも似た動機も心のなかに存在している。いやいっそのこと先走って蓮實重彦のテクストから引用してしまおう。「だが、何のためにか。ひとが、いかに映画を見ることが不得手であるかを改めて確認するために、というのが一つの理由だ。また、視線の対象とされていながらも瞳をすりぬけて行くことではじめて画面となる、あの映像と呼ばれるフィルム断片の働きを、生なましく触知してみたいから、というのがいま一つの理由といえばいえる。」。『ダンケルク』を「観る」、つまり不安の保持と観たいという欲望の同時的達成のためには、この先走って引用した蓮實重彦による映画について具体的に書かれたテクストが必要になるだろう(少なくともぼくにとってはそうだ)。
 そのための手がかりとしておそらく有効なのは『映画 誘惑のエクリチュール』に収録された「浮上と滑走 フランシス・コッポラ『地獄の黙示録の一挿話を読む」だろう。これからとくに関係が深いと思える箇所を引用するが、かなり長めの引用であることをはじめにお断りしておく。それは「浮上と滑走」の引用部を読めば「大いに気に入ってしまった」と告白するに至った理由(ぼくが考える限りにおいてだが)をおおよそ察してくれるだろうという打算によるものである。

「説話論的な構造としては、距離とその走破が基盤となり、その実現をはばむ諸々の条件の排除作業が、説話論的な持続をいたるところで活気づける。その意味でなら、『地獄の黙示録』のこの戦闘場面は、映画がその誕生いらいいく度となく戯れてきたメロドラマのしての活劇という形式におさまることだろう。いわば、伝統的なシークェンスとなるべき説話論的な構造が、冒頭から提示されているのだ。まず、欲望の実現にふさわしく、あらゆる輸送手段と攻撃手段とが、有効に連動しなければならない。そのために、ヘリコプターによる移動は必須のものとなるだろう。この乗物のたてる耳をつんざくような音響さえが、その円滑な連動に貢献するはずだ。こうした条件のもとで遂行される作戦がフィルム的虚構として語られる場合、未知の説話論的な要素が介入することはまずないだろう。アメリカ映画がこれまで手にしてきた資産を最大限に活用すれば、このシークェンスは、何の驚きもともなうことなく、一つの物語として完成されるはずである。作者コッポラに残されているのは、緊密に配置さるべき説話論的な要素を、しかるべき画面を通して程よく強調することでしかない。たとえば海上に鳴り響く『ワルキューレの騎行」などが、そうした強調点に位置しているわけだが、この種の修辞学的な誇張は、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』のいくつかの戦闘場面のように、見るもののフィルム的感性を途方に暮させることはないだろう。人は、映画の限界で映画が映画から逸脱する瞬間におびえることもないまま、良くできているか否かを見きわめればそれでよかろう。つまり、このシークェンスが映画に醜いほど似てしまうだろうことは、説話論的な必然というほかないのだ。」
(蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』ちくま文庫p87〜88)

「一連の物語として分節化さるべきその作戦は、すなわちメタ・ランガージュという視点からして、記号としての朝を冒頭に据えているのだ。闇と光線との中間地帯に横たわる不分明な閾として早朝。やがてすべてが鮮明となり、一日が一日として消費されようとしている朝。それが攻撃開始と律儀に対応するというこの徹底したアカデミスム。(……)すべては、 出発、、のあわただしさを指示する細部からなりたっている。 出発、、という説話論的な要素が、文字通り、超=言語的な 出発、、の表象の効果的な配列に従って、視覚と聴覚をいくぶんか過度に、だが過激にはいたらぬ程度に快く刺激する。だから、この画面の連鎖を難解だと思うものなどひとりとしていないだろう。つまり、われわれのフィルム的感性は、ここですっかり 安心、、するのだ。イメージは安定しており、その連鎖は均衡がとれている。何の疑いもなく映画だと確信しうるフィルム的虚構の内部で、人は、それが作戦開始の瞬間なのだと、穏やかな心で納得する。」
(同、p92〜93)


「(……)攻撃作戦が、目的地への 出発、、を完了し、中間地帯の 走破、、という段階にさしかかったいま、まだあとに、 接近、、 接触、、 所有、、という三つの段階を従えているだろうことを予想しうるものには、そうした過程が、どんなフィルム的言説におさまっているかを検討する仕事が残されているからだ。
  接近、、、それは攻撃目標を間近に捉えつつ組織される戦闘への準備期間である。 接触、、とは、いうまでもなく、欲望の実現をはばむ要求を排除するための、戦闘そのものである。 所有、、とは、二メートルの波が打ちよせる岸辺を占領し、ランスによるサーフィンを可能にする状況の実現にほかならない。」
(同、p96)


「説話論的な必然として介在する画面。それは、あらゆる音響と運動感覚とが、一瞬、停止するかにみえるショットのことだ。いままでは、空中に吊られて、編隊の飛行と同調しつつ、実質的には横移動で撮影していたキャメラが、地上の光景を視界におさめてはいないが明らかに地面に降りたって、遥かかなたからこちらに向って近づいてくるいくつもの機体を、正面から捉えた縦の構図の固定画面がそれである。 近づいてくる、、、、、、といっても、その画面が強調しているのは、なかなか近づいてくるようにはみえない編隊の、ほとんど音響を欠いた飛行の光景である。」
(同、p99〜100)


フランシス・フォード・コッポラ『地獄の黙示録』



「しいていうなら、航空機による戦闘場面が必然化する制度的なショットとでもいうべきであろうが、機体だけが音もなく接近してきて、それが頭上にさしかかろうとする瞬間に、不意に轟音が響きわたるという、あのトーキー初期に完成された複葉単発機による第一次大戦の空中戦の場面の音響処理という、きわめて古典的な技法が、ここでコッポラによって踏襲されているのである。」
(同、p100)


「画面の奥から近づいてくる飛行物体を縦の構図で捉えたとき、画面が音を持たないということ。そしてその飛行物体が何であれ、運動感覚よりはその中断による曖昧な浮遊感覚のみが強調されているということ。さらにはその沈黙と停止とが、突如として騒音と運動を煽りたてるということ。その三つの要素は、フィルム的感性がその視覚と聴覚とを白黒のスクリーンに向けていっせいにおし開き、飛行機という攻撃的な輸送手段をそこに認めた最初の瞬間である一九三〇年から、一九八〇年に公開されたコッポラの超大作の色彩七〇ミリ画面にそれを再発見する瞬間まで、多少の変奏を伴いこそすれ、一貫して維持されてきたフィルム的言説の制度をかたちづくっている。それには、ジャン=リュック・ゴダールの短編『未来展望』の冒頭のショットを思い起こせばことたりる。いっぽう、いくぶんかシニックなルネ・クレール流の音響処理は、その過渡期的な効果を知的に評価されることはあっても、今日まで生きのびることはなかった。その理由は、ハワード・ホークス的な技法が、説話論的な持続に一つの変容を導入しうる 運動、、として機能しているのに対して、ルネ・クレールの限界のある才気が貢献しえたものが、説話論的な持続の内部における、運動性を欠いた修辞学的な饒舌にすぎなかったからである。」
(同、p102)


「浮くこと、水面に滑走すること。それがこの映画の主題なのだ。」
(同、p108)




 このまま文章を終えてしまいたい欲望にふとかられるが、しかしこれでは引用と認められるための主従関係を満たさないだろうという懸念から、ここからは「浮上と滑走」における『地獄の黙示録』の具体的なシークェンス分析を『ダンケルク』に適用するのが妥当かどうか確認する作業を行なっていきたい。
 『ダンケルク』における「説話論的な構造」が「距離とその走破が基盤」であることは確認するまでもないと思う。しかし『ダンケルク』は『地獄の黙示録』と大きく異なるフィルムになっている。そのような印象を抱くのは、『ダンケルク』が「ラスト・ミニッツ・レスキュー」の映画だからだろう。『ダンケルク』を撮るにあったってクリストファー・ノーランはいくつかのサイレント映画を参考にしたと語っており、その中にはD・W・グリフィス『イントレランス』(1916)の名前を挙げている(1)。確かに四つの異なる時代の物語を並行編集を駆使して同時的に語っていく『イントレランス』はタイムスパンの異なる三つのパートを並行的に描く『ダンケルク』に影響を与えている。しかし、グリフィスの映画がそれぞれのクライマックス=「ラスト・ミニッツ・レスキュー」への収束に向けて組織されるのに対し、ノーランはむしろ「ラスト・ミニッツ・レスキュー」を全編にわたって展開させようとする。106分という上映時間を持つ『ダンケルク』という映画のほとんどでサスペンスを持続させること。それが、『ダンケルク』を撮るにあたってノーランが採用した「着想」である(2)。
 ではそのような「着想」はどのような「演出」によって視覚化されているのか。まず指摘できる方法論に反復あるいは類似の演出があるだろう。たとえば「空」のジャック・ロウデンが操縦するスピットファイアが着水しコクピットへ海水がどんどん浸水するシーンと並行するのは、「防波堤」で高地連隊に同行したフィン・ホワイトヘッドらが放棄された商船に乗り込み満潮を待っているとドイツ兵の射撃訓練によって船底に穴が空き、そこから浸水が始まるという状況である。こうした状況の反復/類似のほかに、動作、あるいは身ぶりの反復/類似も『ダンケルク』では演出される。「海」のパートの序盤でマーク・ライランスが船長を務める民間船ムーンストーン号は撃沈された軍艦の上にひとりで座り込んでいるキリアン・マーフィを発見、保護する。このとき、民間船は接触の恐れがあるためある程度の接近しかできず、キリアン・マーフィは海に飛び込み引き上げれることになるのだが、この引き上げるという動作=身ぶりは、この「海」のパートの直後の「防波堤」においても繰り返される。救護兵のふりをしたフィル・ホワイトヘッドとアナイリン・バーナードはダンケルクから撤退する駆逐艦に負傷者を運ぶも同乗は許されず、海岸に戻るかわりに桟橋の橋脚に身を隠す。出発しようとする駆逐艦をドイツ空軍の戦闘機が空爆し、乗船していた兵士たちの多くが海に投げ出される。兵士たちは桟橋に向かって泳ぎ、フィル・ホワイトヘッドとアナイリン・バーナードはその中のひとりであるハリー・スタイルズの手を取り橋脚に引き上げる。
 反復はタイムスパンの異なる三つのレイヤー(「防波堤」の一週間、「海」の一日、「空」の一時間)を連結、同期させるために用いられるが、この方法論はショットという単位においても採用される。そのショットこそ、蓮實が「浮上と滑走」において「説話論的な必然として介在する画面」として語ったものである。「それは、あらゆる音響と運動感覚とが、一瞬、停止するかにみえるショットのことだ」が、『地獄の黙示録』では一挿話の一ショットで留まっていたそれが『ダンケルク』では繰り返し出現する。それはまず、「海」から見えるショットとして現れることになる。

 バリー・コーガンが船に接近してくる飛行機を発見し、船長のマーク・ライランスに不安そうに警告する。船長は「わが軍だ」と冷静に応答し、飛行機はその言葉に従うかのように船の上を何事も無く通過していく。このときのバリー・コーガンの不安を表す表情はたんにマーク・ライランスの冷静さを際立たせるためだけのものではいことに注意しよう。上述したように「説話論的な必然として介在する画面=遥かかなたからこちらに向って近づいてくるいくつもの機体を、正面から捉えた縦の構図の固定画面」(『ダンケルク』においてはある例外を除いて編隊ではなく、単独の機体だが)もまた「反復」される。バリー・コーガンの不安が実現するのはその「反復」のときなのだが、そのとき起きる事態は単なる敵機による「空」からの攻撃ではなく、通常のサスペンスよりもおそろしい「反復」それ自体が引き起こした呪いのような事態なのだ。
 しかし、それはどのような事態なのか。まずは「反復」された「説話論的な必然として介在する画面」を見てみよう。

 場面の状況としては、「防波堤」から出発した駆逐艦がドイツ軍の空爆に晒されていて、またフィン・ホワイトヘッドらが乗る商船も浸水がいよいよ深刻化し沈没が間近に迫っている。マーク・ライランスの民間船には救助されたスピットファイアのパイロットであるジャック・ロウデンも乗っていて、船長の息子であるトム・グリン=カーニーとともに駆逐艦から流出した重油で汚れた海から兵士たちを船に引き上げている。劇中でシェルショックと呼称されていたPTSDに苦しんでると思われるキリアン・マーフィもやがてこの救助作業に加わる。ジャック・ロウデンは救助のあいまに「空」を見上げる。頭上ではさらに攻撃を加えようとドイツ軍機が旋回する。その攻撃を阻止するためにトム・ハーディが操縦する編隊の最後の一機がドイツ軍機の背後に接近する。
 このような場面が進行する中、「反復」はジャック・ロウデンが空を見上げたことをきっかけに始まる。このときのショットの構図がバリー・コーガンのそれと酷似しているのは単に船の上から「遥かかなたからこちらに向って近づいてくる(…)機体を、(…)捉えた縦の構図の固定画面」が撮られているからではない。バリー・コーガンがイギリス空軍の戦闘機を見たように、ジャック・ロウデンもまた味方の戦闘機を見ているということを強調するためにこの二つのショットは反復=酷似しなければならなかった。ジャック・ロウデンが見ている味方機とは、言うまでもなくトム・ハーディが操縦するスピットファイアである。迫り来る敵機の攻撃よりおそろしいことを引き起こすのは、この味方であるはずのスピットファイアなのだ。それはどういうことか、場面の続きを見てみよう。
 ふたたび攻撃を加えようとするドイツ軍機の背後に迫り、ぴったりと位置取ったスピットファイアは機銃掃射を行い、これを撃破する。ドイツ軍機は白煙を上げながら徐々に高度を落としていく。撃墜の瞬間、歓声を上げたジャック・ロウデンだが、海に落ちていくドイツ軍機の軌道の行く末が重油で汚れたこの海域であることを悟り、表情を一変させる。マーク・ライランスに向かっていますぐに船を出すようにジャック・ロウデンが叫ぶと、船のエンジンが唸り、黒く汚れた海域から離脱を始める。直後にドイツ軍機が墜落、爆発炎上し、その爆炎が重油に燃え移り、一帯を文字通り火の海にする。まだ海の中にいる多くの兵士たちは炎に飲み込まれ、絶叫を上げながら火に焼かれる。
 トム・ハーディの行為(3)は皮肉にもドイツ軍機が行おうとしていた自軍への攻撃を代行してしまうかたちになったわけだが、重要なのはジャック・ロウデンの視点からではドイツ軍機とその背後に位置するスピットファイアは一瞬ぴったりと重なり、ひとつの機体として見えることだろう。それはバリー・コーガンに不安=サスペンスを喚起させた自軍の飛行機を反復しつつ、『地獄の黙示録』における「説話論的な必然として介在する画面」も同時に反復する。蓮實が指摘した「説話論的な必然として介在する画面」とは、「遥かかなたからこちらに向って近づいてくるいくつもの機体を、正面から捉えた縦の構図の固定画面」の「なかなか近づいてくるようにはみえない編隊の、ほとんど音響を欠いた飛行の光景」のことだった。ジャック・ロウデンが眼にしたのはドイツ軍機とスピットファイアという二機の飛行、編隊の飛行の光景である。つまり『地獄の黙示録』におけるある特定のショットはおろか、蓮實が分析した特定の一挿話がここで反復されてしまったのだ。それはノーランが意図したというより、反復そのものに潜む魔、あるいは呪縛といえる事態だろう。「(…)飛行機という攻撃的な輸送手段をそこに認めた最初の瞬間である一九三〇年から、一九八〇年に公開されたコッポラの超大作の色彩七〇ミリ画面にそれを再発見する瞬間まで、多少の変奏を伴いこそすれ、一貫して維持されてきたフィルム的言説の制度」が成立するには、飛行機とともにその犠牲になる兵士たちが存在しなければならない、とでも言うのだろうか。
 しかし、反復は、このようなおそろしい事態を引き起こすだけでは当然ない。たとえば「引き上げられ」たキリアン・マーフィは過失とはいえバリー・コーガンを「突き落とし」てしまうが、この事故に対する悔恨がシェルショックを一時的にでも抑え「引き上げる=救出」するという身ぶりへと彼を導く。「救出」されることは、「救出」することへの契機を含んでいる。トム・ハーディによるドイツ軍機の撃墜がキリアン・マーフィによるバリー・コーガンの突き落としの反復だとするならば、トム・ハーディもまただれかを「救出」することになるだろう。そのためには、キリアン・マーフィが「救出」を演じた船という装置がふたたび関わってこなければならない。


 『ダンケルク』における船とは、いかなる装置なのか。ひとまずそれは「走破」の主体である、ということができるだろう。『地獄の黙示録』がそうであるようにダンケルク』の「説話論的な構造」が「距離とその走破が基盤」であることはすでに確認した通りだ。しかし、ここで飛行機もまた「走破」の主体ではないのかという疑問も湧く。たしかに飛行機もまた「走破」にふさわしい被写体であることは間違いない。事実、トム・ハーディが操縦するスピットファイアは終盤において「走破」を達成する主体として特権的な被写体となるのだが、そのシーンを注意深く見ると、それはむしろ飛行機が飛行機であることをやめたためだと思えるような演出がされている。言ってしまえば、飛行機が船のような身ぶりを演じているのだ。
 結論を先行してしまったが、ここから船が飛行機より「走破」の主体によりふさわしいと思われる理由を記述していきたい。それは「出発という説話論的な要素」を演じているのが船だからだ。くわしく見ていこう。
 フィン・ホワイトヘッドが「防波堤」に到着して一通りの状況説明が完了したとき、船という走破の主体が提示される。この「海」パートは「一日」という時間配分がなされており、「一日」の開始ににふさわしく埠頭周囲の風景は薄明かりに包まれている。「闇と光線との中間地帯に横たわる不分明な閾として早朝」のなかで一時間後に所有する船が海軍に接収されるというマーク・ライランスが演じる船長がみずからの船から彼の息子であるトム・グリン=カーニーと共にあわただしく積荷を下ろしている様子が船員であるバリー・コーガンの視点から捉えられる。日用品の積み下ろしの最中の船長の息子に促され、後方に視線をやるとうず高く積まれた救命胴衣がバリー・コーガンの目に入る。「空」のパートがいちど挟み込まれた後、カメラが再び埠頭に戻ってくると救命胴衣の積み込みが完了したことや周辺の光量の増加、接収された民間船に乗り込む海軍兵の姿などから予告されていた一時間がまもなく経過するだろうことが示される。接収の最終段階である海軍兵の乗組みが差し迫っていることを受け、マーク・ライランスは独断で民間船を出航させる。このときバリー・コーガンも船長らに無断で船に飛び乗り、マーク・ライランスの独断専行を反復する。これらの独断専行はこのシークエンスのサスペンス的葛藤の主体がマーク・ライランス扮する船長とバリー・コーガンの若い船員であることがはじめから明らかである以上むしろ期待通りの行為である。あわただしさを演じていた彼らが、それが行われていた舞台である船の上であわただしさを終えることによって、このシークエンスにおけるサスペンスが解消される。また、「防波堤」パートにおける出発をめぐるサスペンスとのクロスカッティングもあわただしさの印象に寄与するだろう。さらに前述した「空」パートでも、編隊を組んで飛行している三機のスピットファイアが目的地をダンケルクに設定する会話がなされる。「すべては出発のあわただしさを支持する細部からなりたっている。出発という説話論的な要素が、文字通り、超=言語的な出発の表象の効果的な配列に従って、視覚と聴覚をいくぶんか過度に、だが過激にはいたらぬ程度に快く刺激する。」。かくして、出発をめぐる儀式が完了し、フィルムはいよいよ走破の段階へ突入する。
 このようにシークエンスを見ていくと、「走破」の主体が「海」の船であることを了解してもらえると思う。「空」の飛行機はすでに飛行状態にあり、ショットではなくセリフによって目的地を設定することから「海」の船と比較すると「出発のあわただしさを支持する細部」に留まっていると相対的に判断せざるを得ない。また「防波堤」にも「出発」をめぐるサスペンスが用意されているのだが、「防波堤」の船は空爆や魚雷、潮の満ち引きなどの外部条件によって「出発」のできなさが強調される。またフィン・ホワイヘッドらが一兵士に過ぎない(4)ことも「出発」のできなさに寄与するだろう。船を操る主体に到底なり得ないことをその不安に満ちた面持ちと華奢な身体が証明している(この点、バリー・コーガンも彼ら兵士たちの表情を共有している)。そのことを端的に象徴するのが潮が満ち始めたとき海岸に戻ってくる兵士たちの死体である。彼らはその生死に関わりなく、「防波堤」という領域に留まり続けなければならない。それが『ダンケルク』というフィルムが彼らに与えた任務だからだ。「1.防波堤 1週間」という画面に重なる文字がそれを端的に示すだろう。

 だが、任務の終わりはそれが任務である以上必ずやって来る。そして、「防波堤」の任務の終わりを告げるのは、「海」の「走破」という任務を果たした船でなければならない。そのとき、「防波堤」から見える光景はどのようなものか。目を凝らしてよく見てほしい。

 水平線上に浮かぶ小さな黒い点々を視認できたとき、この画面はとある画面の反復であることが了解できるだろう。「説話論的な必然として介在する画面」、「あらゆる音響と運動感覚とが、一瞬、停止するかにみえるショット」、「地上の光景を視界におさめてはいないが明らかに地面に降りたって、遥かかなたからこちらに向って近づいてくるいくつもの機体を、正面から捉えた縦の構図の固定画面」、「近づいてくるといっても、その画面が強調しているのは、なかなか近づいてくるようにはみえない編隊」……
 『ダンケルク』の船は『地獄の黙示録』のヘリコプターを正確に反復することで、みずからが「走破」の主体であることを改めて強調する。ハンス・ジマーのそれまではサスペンスを十分過ぎるほど掻き立てていた劇伴も、ここでは船の勇敢さを讃えるような調子に一変する。ここでフィルムは「浮上と滑走」で指摘された「所有」の段階に差し掛かっていることは蓮實のテクストを記憶している者なら容易く了承してくれるだろう。船はもう「防波堤」の兵士を引き上げるだけだ。
 だが、ここで注意しなければならならないのは船が「所有」しようとしているのは「防波堤の兵士たち」であって「防波堤」そのものではないということだ。『ダンケルク』の冒頭、舞い落ちるビラがその図で端的に示していたように「防波堤」、つまり「ダンケルク」という場所を「所有」しているのはドイツ軍であり、事実ときおり高音を急激に響かせながら飛来し爆弾を落としていく飛行機がその事実を声高に主張する。まだ全面的な「所有」こそ実現していないが、それはあくまで時間的な問題でしかなく、実力的な問題からいえば「所有」などいますぐにでも達成し得る。まるでそんなふうに念押しするかのように船の「所有」=救助作業のあいまにハワード・ホークス的な技法(5)ともにメッサーシュミットが急降下し、船に攻撃を加えようとする。
 トム・ハーディが「救出」の身ぶりを演じるのはまさにこの瞬間においてである。「救出」されることは、「救出」することへの契機を含んでいる、と書いたが、それは逆に「救出」することは、「救出」されることへの契機も含んでいる、ということもできる。空襲しようとするメッサーシュミットをスピットファイアは撃ち落とす。ドイツ軍の戦闘機は孤独に落下し機体は海の中にに消えて無くなる。海岸線を無音で横切るスピットファイアに兵士たちは賞賛とよろこびの歓声をあげる。このとき、スピットファイアの燃料はすでに尽きている。飛行機は動力飛行ではなく滑空している。ここでの画面にはハワード・ホークス的な技法、つまり「機体だけが音もなく接近してきて、それが頭上にさしかかろうとする瞬間に、不意に轟音が響きわたるという、あのトーキー初期に完成された複葉単発機による第一次大戦の空中戦の場面の音響処理という、きわめて古典的な技法」がまったく欠けている。この場面において、『ダンケルク』はひとつの「逆行」(6)を実現する。「飛行機という攻撃的な輸送手段をそこに認めた最初の瞬間である一九三〇年」、つまりトーキー初期から、「(…)一貫して維持されてきたフィルム的言説の制度」を飛び越し、サイレントの時代に回帰すること。それがここで言う「逆行」の意味である。
 そしてまた、この無音の運動が船の反復であるということも指摘しなければならない。浮くこと、あるいは滑走することはもっぱら船という運動体の身ぶりそのものだからだ。『ダンケルク』というフィルムの音響的な類似の範囲で指摘するなら、船は飛行機と同様にエンジンを動力としているが、ハワード・ホークス的な技法を随所に響かせる飛行機と異なり、『ダンケルク』における船はエンジン音をことさら強調しない(7)。そのエンジン音は常に海の波音、またはハンス・ジマーによる劇伴に紛れてこちらの聴覚を刺激することをなかば放棄している。戦闘機は音を失う、というより無音を得ることによって船の身ぶりを獲得する。そのとき、戦闘機は当初の任務を逸脱し(マイケル・ケインの声が告げる当初の任務は、救出作戦の掩護だった)本来は船(しかも民間船)が果たす「救出」の任務に参加することになる。それは敵軍の戦闘機が果たすはずだった攻撃を意図せず代行してしまったシークエンスをちょうど正反対にしたものだ。
 そして、戦闘機による「救出」が達成されたとき、「ダンケルク」という場所の真の「所有」が達成される。それは「1.防波堤 1週間」/「2.海 1日」/「3.空 1時間」という異なるタイムスパンを持った時空間が一致する一点でもある。「1.防波堤 1週間」=「2.海 1日」=「3.空 1時間」という時空間(8)は、おそらく「ダンケルク」と呼称するにふさわしい。そのような時空間をトム・ハーディのスピットファイアは「空」と「海」の境界線のあいま、また「海」と「防波堤」という境界線のあいまなど存在しないかのようにつかの間漂う。この時間こそ、『ダンケルク』におけるタイトル・ロールである。

 ここで先に引用しておきながら、放置してきた蓮實のテクストの一説を呼び戻してみよう。


「浮くこと、水面に滑走すること。それがこの映画の主題なのだ。」

 あるいはこのような一説も理解の一助になるかもしれない。

「(…)いまや、攻撃性をまったく感じさせない浮上物体として、衝撃を欠いた無重力圏に漂うばかりなのだ。」

「フィルム的感性をせきたてられるようなめまぐるしい運動を編集によって実現するより、一つの運動がその周囲に葛藤を波及させることのない無重力世界での浮上体験といったものを画面に定着させることの方が、『地獄の黙示録』の主題論的な体系と説話論的な構造にふさわしいような気がするのだ。」

「そしてウィラード大尉の水源への遡行をいったん中断させたキルゴアは、結局のところ、船を見すてたわけではなく、サーフィンボードという船の模型と戯れずにはいられない水面滑走の欲望につき動かされる滑走的存在だったわけだ。」

 このような文章を目にすると、トム・ハーディのスピットファイアの滑空をサム・ボトムス扮するランス・ジョンソンの巧みな波乗り、浮上と滑走に重なたくなる。そのような欲望を言い表すのにふさわしい言葉はやはり蓮實のテクストにすでに書き込まれている。「つまり、このシークェンスが映画に醜いほど似てしまうだろうことは、説話論的な必然というほかないのだ。」。あるいは、「ここでも、ロバート・デュヴァルは、映画に醜いほど似ている。」。だが、この「醜い」という語を否定的な意味で捉えてはならない。「浮上と滑走」の結論において、蓮實はこの「醜い」という語を「コッポラのあからさまな趣味の悪さ」という言葉として言い換え=反復し、部分的ではあるが肯定しているからだ。「映画に醜いほど似ている」ということは、具体的には「ある種のアカデミズムの周到な模倣」のことであり、「その生真面目な模倣は、そうした 瑞々しい退屈さ、、、、、、、 というべきものを(…)フランシス・コッポラ特有のフィルム的資質として、われわれに示してくれるのだ。」。


 瑞々しい退屈さ、、、、、、 、」とは、決して不愉快な映画的体験ではない。」


 この一説が事実であることを、まぎれもない自身の体験として、わたしは無条件に肯定する(9)。



 蓮實重彦のクリストファー・ノーラン『ダンケルク』に対する肯定的言及をきっかけに綴られたこの文章は、「浮上と滑走」という別のテクストを参照しつつ『ダンケルク』そのものを分析し、また「浮上と滑走」が分析の対象としていたフランシス・フォード・コッポラ『地獄の黙示録』も適宜参照しつつ、こうして結論まで導かれたわけだが、その結論を読んでもらえばわかるように、当初の目論見は宙に吊られ(しかも早々に)、論というよりは虚構としての側面を展開する結果になってしまった。論を成立させるための諸々の条件が自身に欠いていることをあらためて思い知ることになったが(もともとは「『ダンケルク』(2017)が大いに気に入ってしまった」蓮實重彦論」というタイトルだった)、これがアマチュアの限界であることは十分に理解しつつ、アマチュアなりに虚構としてのおもしろさは可能な限り達成しようと努力した。その努力が虚構としてのおもしろさを担保するものではないことは重々承知だが、すくなくともこの文章を結論まで導いたことだけは自負として保っておきたい。
 言い訳がましいこととともに、この文章をようやく終える。



(1)「ちなみに私が今回「ダンケルク」の参考にしたサイレント映画はまず、エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督の「グリード」(1924年)と、F・W・ムルナウ監督の「サンライズ」(1927年)、それにD・W・グリフィス監督の「イントレランス」(1916年)です。」
(https://natalie.mu/eiga/pp/dunkirk)

(2)「それぞれに時間の縮尺が違うこの3層をつないで、サスペンスが雪だるま式にふくらんでいくようにしたのです。」(同上)

(3)燃料計の計器が壊れ、正確な燃料の残りが把握できず、さらにこれまでの飛行と戦闘での消費を考慮すれば帰投すら危ういという状況で下したこの判断がこのような結末を迎える。トム・ハーディの内面はその顔の大部分が酸素マスクに覆われていることもありその心理が理解できる画面は存在しないが、このような結果を見ると皮肉さが際立つ。

(4)フィン・ホワイトヘッドは防波堤に到着した直後、アナイリン・バーナードが埋葬した遺体から拝借したブーツの紐を結んでいる様子を見る。また、担架の負傷兵を運ぶ際、アナイリン・バーナードは死亡した救護兵の服を奪い、フィン・ホワイトヘッドもそれに倣う。空爆され沈没した船から脱出した高地連隊のハリー・スタイルズと行動をともにする際は橋脚から海に飛び込み、水浸しを演じる。『ダンケルク』全編を貫く反復の主題が「防波堤」では別の何かの振りをするという模倣の主題として変奏される。模倣はアナイリン・バーナードの正体に深く関わる主題でもある。

(5) 冒頭の空襲から生還した兵士の1人が「空軍は何をしている?/Where's the bloody air force?」)と叫ぶが、『空軍/エア・フォース』とは言うまでもなくハワード・ホークスによる航空映画のタイトルである。またこのようなホークスの映画タイトルの想起は『シネマの記憶装置』に収録された「仰視と反復 スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』」におけるスピルバーグのホークスからの引用を指摘する蓮實の記述も想起させるだろう。
「(…)われわれはハワード・ホークスの予言の中に暮らしつつ空を見つめ続けてきたのであり、たまたまスティーヴン・スピルバーグもそうしたひとりだったというわけなのだ。」(蓮實重彦『シネマの記憶装置』p115〜116)。
「スピルバーグは、映画を撮る限りにおいて、ホークスを引用せざるをえない不自由な存在なのである。(…)引用とは、独創性を欠いた模倣の仕草と思われがちだが、実は引用することで映画ははじめて映画自身を肯定し、本来が正当性を欠いていた自分を危うげに支えることが可能となるものなのだ。いわば、必死の反復こそが引用なのである。」(同上 p116〜117)。
 『ダンケルク』がハワード・ホークスほ予言から生まれたフィルムであることはもはやあらためて強調する必要はないだろう。「空を見つめよ、、、、、、の一語は、声としては響かぬが幾重にも共鳴する振動となって、あらゆるフィルム断片へと伝播していく。」(同上 p117)のだから。

Watch the sky! 空を見上げよ!
上:スティーヴン・スピルバーグ『未知との遭遇』
下:クリストファー・ノーラン『ダンケルク』

(6)「逆行」といえば当然『ダンケルク』の次作となる『TENET テネット』のことを想起するが、蓮實重彦『映像の詩学』に収録された「ハワード・ホークス、または映画という名の装置」のことも同時に思い浮かぶ。そこには「逆行」という語が文字通りの意味で書き込まれているのだが、その「逆行」が指示する対象は『リオ・ブラボー』のジョン・ウェインがいっとき手離したライフル銃なのだ。また『ダンケルク』はウィンストン・チャーチルの六月四日の庶民院での演説を読み終えたフィン・ホワイトヘッドの表情で閉じられるが、このチャーチルの演説によっていずれ彼が戦場に「逆行」するであろうことを予感させる。ノルマンディー上陸作戦が開始されるのはチャーチルの演説の二日後である。

(7)船がエンジン音を不意に強調する瞬間は二箇所ある。一つはジャック・ロウデンが操縦するスピットファイアが墜落し、その現場に駆けつけるとき。もう一つはトム・ハーディが撃墜したドイツ軍機が重油に汚れた海に墜落しようというとき、そこから逃げるとき。どちらの場面も戦闘機の操縦士であるジャック・ロウデンが関係していることが興味深い。

(8)あるいは「一連の物語として分節化さるべきその作戦は、すなわちメタ・ランガージュという視点からして、記号としての朝を冒頭に据えているのだ。闇と光線との中間地帯に横たわる不分明な閾として早朝」と正確に対応する「と光線との中間地帯に横たわる不分明な閾としての夕暮」と言い換えることも可能だろう。

(9)白状するなら、ぼくの『ダンケルク』初見時の感想はスピットファイアの滑空シーンを除けば決して芳しいものではなかった(逆に言うなら、滑空のみは無条件で肯定できた)。購入した席が劇場の最前列右通路側で画面の推移を満足に把握できず、右から聴こえるハンス・ジマーの劇伴がやたらうるさいという鑑賞条件だったということも考慮できるが、『ダンケルク』を肯定する立場になったやはり蓮實重彦による肯定的評価をきっかけに再鑑賞したことによる。甚だ情けない限りである。また、三浦哲也によるノエル・キャロルが提唱した「サスペンスのパラドクス」に対する反論も評価を変える理由と言えるかもしれない。「サスペンスのパラドクス」とは、「くり返し同じフィルムを見る観客が、同じ箇所で同じ緊張を覚えるということがありうるが、未決定の状態によって観客を緊張させるはずのサスペンスが、結末が決定されていてなお可能であるのはどうしてか、という問題である。」(三浦哲也『サスペンス映画史』p58)。キャロルはこのパラドクスに対して「想定」という「感情移入」の水準による解決を提示するが、三浦はそれに反論を試みる。「「感情移入」の水準とは区別される、サスペンスに固有の感情がある。(…)「畏れ」である。反射的な恐怖よりも高次の感情としての「畏れ」。(…)死ぬのであれ、死なないのであれ、その結果を観客にはどのようにしても変えられない。そうした状況の総体によって「畏れ」の念が引き起こされる。同一化しえないこと、つまり、高みの見聞であるがゆえのこの絶対的な距離がそれを生じさせるのだ。そして、矛盾しているようだが、「畏れ」のなかには「希望」が宿りうる。宿命的時間のなかに「見えないもの」を組み入れることによってであり、それは人為性を超えた「希望」である。」(同上p285〜286)。キャロルの論文を未読である以上どちらを支持するかを判断することはできないが、この文章は三浦のこうした記述があったからこそ生まれたものだと言うことはできるだろう。

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