見出し画像

棺桶的空間──トニー・スコット試論


かつてそうであったという言葉。私たちは、彼がいると言う。だが突然、彼がいたとなる。この恐ろしいかつてそうであったという言葉、とわたしは思った。

──トーマス・ベルンハルト『破滅者』

 トニー・スコットの名前を、俄かにだがふたたび目にするようになった。それは彼がヴィンセント・トーマス橋からその身を投げて一〇年という月日が経過したこととは些かも(あるいは些かは)関係なく、ひとえに彼の出世作である『トップガン』の続編『トップガン マーヴェリック』が公開されたからという端的な事実に由来している。映画の最後を飾るのは黒地のショットに浮かぶ白い文字でそれは「IN MEMORY OF TONY SCOTT」という追悼の言葉だったが、この言葉によってトニー・スコットは今もなお『トップガン』の監督として葬られようとしている。それは蓮實重彦が一〇年前に「「橋」の悲劇──トニー・スコット賛」で指摘したことが今もなお進行中であるということだ。あるいは「IN MEMORY」が「IN LOVING MEMORY」と書かれてあったなら、事態は異なる展開を見せていたのだろうか。
 そのようなことを考えたのは、『トップガン マーヴェリック』を観た直後の熱に浮かされてトニー・スコットのフィルモグラフィを可能な限り観ていったためなのだが、今回は『One of the Missing』(一九六八)と『Loving Memory』(一九七〇)のというイギリス時代にアンソニー・スコット名義で撮られた中短編を初めて観て、その主題の一貫性に驚いたからだと言える。この主題とはトニー・スコットと聞いて誰もが思い浮かべるような「橋」のことではない。日本においてトニー・スコットの映画における「橋」の主題を膾炙したのは蓮實重彦だろうが、ここで問題とするのは「橋」とは対極に位置する主題のことだ。蓮實の言葉から借りるならそれは、「トニー・スコットの作品を見ることは、閉ざされた狭い空間と開かれた宙吊りの空間との関係がどう組織されているかをたどることにほかならない。」というときの「閉ざされた狭い空間」のことにほかならない。この「閉ざされた狭い空間」はフィルモグラフィ最初の短編映画『One of the Missing』から最後の長編映画『アンストッパブル』まで途切れることなく現れ続けてきた主題であり、「開かれた宙吊りの空間」である「橋」もこの主題との対称から発展していったと思われる。
 そのような「閉ざされた狭い空間」のことをひとまず「棺桶的空間」と呼びたいと思う。その理由として「閉ざされた狭い空間」のなかに人間は閉鎖され、往々にして死に向かう時間が描かれるからである。「棺桶的空間」の代表としてはトニー・スコットの初長編映画『ハンガー』が最もわかりやすいだろう。『ハンガー』の「棺桶的空間」とはそのものずばり棺桶そのものなのだが、その棺桶は死者を安置するためのものではなく、急速な加齢によって限り無く死に接近しながらもしかし死にきれないカトリーヌ・ドヌーヴの眷属デヴィッド・ボウイを安置するためのものである。この死者に限りなく近い生者のための棺桶は、カール・テオドア・ドライヤー『吸血鬼』の棺桶をたやすく想起させる。松浦寿輝の言葉を借りるなら「生と死との間を漂いつづけている偽の死者たち」ということになるだろうが、そのような「偽の死者たち」はトニー・スコットのフィルモグラフィにおいて、とくに『マイ・ボディガード』以降顕著に現れる。その代表は言うまでもなく『デジャヴ』のポーラ・パットンだろう。デンゼル・ワシントンがモニターに映ったポーラ・パットンの顔を呆然と見つめてしまう素晴らしいシーンにロラン・バルト『明るい部屋』の一節を思わず引用してしまいたくなる(「しかしプンクトゥムは、、、、、、、彼が死のうとしている、、、、、、、、、、、ということである。私はこの写真から、それはそうなるだろう、、、、、、、、、、という未来と、それはかつてあった、、、、、、、、、という過去を同時に読みとる。」)。それにアインシュタイン-ローゼン橋というある種の「橋」の存在にも言及してみたくもなるが、『One of the Missing』と『Loving Memory』に話を戻そう。この二作の「棺桶的空間」について、まず『One of the Missing』から説明する。
 『One of the Missing』はアンブローズ・ビアスの短編小説「行方不明のひとり」を原作とし、いくつか設定に変更を加えながらも基本的にはビアスの小説の筋書き通りに進む。南北戦争時、スティーヴン・エドワーズ扮する南軍の斥候ジェームズ・クラバリング(原作では北軍に所属、名前も異なる)が偵察任務に就くところから始まる。ライフルに弾を込め念入りに点検してから単独で森を抜け、川のほとりで水汲みをする北軍兵を発見する。斥候は向こう岸へ渡り廃墟に身を隠しながら北軍を一望できるところまで進む。途中、井戸の底に死体を発見する。斥候は崩れかけている煉瓦で建てられた家に陣取る。そこからは北軍の様子が一望できる。敵は火を焚いてたむろしており、油断しきっている。斥候はライフルを構える。対岸ではリドリー・スコット扮する砲兵隊長がほとんど戯れのような訓練をはじめる。斥候が引き金を引き絞ろうとしたとき、野戦砲がさきに火を吹く。砲兵隊長の思惑ははずれ、砲弾は予想より低く跳び対岸の廃墟を破壊する。斥候のいる廃墟は崩れ落ち、瓦礫がその身体を押し潰す。北軍は敵兵に気づかず去っていく。斥候が目を覚ますと、瓦礫で生埋めになっていることに気づく。同時にライフルの銃口が眉間の真ん中を狙っているかのように目の前にあることにも。撃鉄を起こしていたうえに、引き金を一旦前に押し込んでいたのでわずかな衝撃で銃弾が発射されかねない。斥候は恐慌し、幻覚まで見始める。さきほど覗いた井戸の底には自分の死体があり、森を駆け抜ける自分の背中を撃つのは自分自身だ。助けに来てくれだはずの仲間たちは空に溶けるようにして消えていく。眼、口、銃口の極端なクローズアップ、泡を吹き、絶叫するも、ロングショットに切り替わることで絶叫もむなしい谺となる。斥候は左手が腐りかけた木材に触れていることに気づく。指で弄るとぱきりと折れ、一片の木片を手にすることができた。この木片をつかって前に押し出した引き金を元の位置まで戻すことを考えつく。そうすれば弾が発射される確率は格段に下がる。斥候は慎重に木片を引き金まで持っていく。慎重にしなければ、慎重に……そして、ついに、かちり、という音がする。
 原作にあった北軍の青いコートが埃に塗れ南軍の灰色のコートと見分けがつかなくなるという『拳銃の報酬』を連想するエピローグは映画からは省かれている。トニー・スコットは瓦礫に生埋めになり身動きできなくなった男が目の前のライフルから何とか逃れようとするという極端にアクションが制限された状況をサスペンス豊かにに演出している。まず銃口とそれを見る眼、恐怖に歪み叫びだす口をクローズアップで捉え、矢継ぎ早に編集していく。口のクローズアップは斥候が生埋めになっている一帯を俯瞰するロングショットへと繋がれて絶叫は無人の森に谺するだけの虚しい響きと化す。幻影を見るシーンではスローモーションなどが活用され、ほとんどセリフのないこの短編映画で主人公の精神状態を視覚化する。このとき、トニー・スコットの演出が優れているのは井戸をふたたび見せる点だ。井戸の描写はビアスの原作にはなく、トニー・スコットがこの短編映画のために付け加えた細部である。井戸の底にあった死体が斥候の顔になっていたことはさっき触れたが、井戸という円筒の空間がライフルの銃口/銃身の予告であったことがこのシーンによって遡行的に判明し、また井戸の底の死体を見下ろした際の垂直方向の視点は俯瞰のロングショットによって反復される。死体の顔を映すクローズアップは言わずもがなだ。さらに井戸の口をしめす円形はスティーヴン・エドワーズの顔の各部への極端なクローズアップとして反復し変奏されていく。
 『One of the Missing』であきらかになるのは「棺桶的空間」が井戸から生埋めに派生し変奏されるという事態だ。それは次作の中編映画『Loving Memory』においても同様である。
 『Loving Memory』はひとりの青年とひとくみの夫婦らしき男女が事故を起こすところから始まる。青年は自転車に乗って下宿している農家から町へ向かっている。夫婦の乗る自動車は町からの帰り道だ。自動車が海岸沿いの道から田舎道へはいったとき、カメラは自動車を追ってパンすると、背景に橋がかかっている。カメラはそのまま橋にズームする。橋の上を青年が自転車で走っている。両者は出会い、事故を起こす。青年は即死したようだ。年老いた妻が青年の顔を覗き込み、「かわいそうに」とつぶやく。夫は無言で青年の死体を車に乗せようとする。死体を抱え上げると、海岸沿いの道をバイクが走っているのが見える。このワンショットで喚起されるサスペンスが素晴らしい。バイクは事故現場へまっすぐ走ってくる。バイクの男が自動車のすぐ横を通りかかる。ちらと視線を送るが、何事もなく通り過ぎていく。夫婦は青年の死体を家に持ち帰り、ひとまず昔息子が使っていた部屋に死体を置くことにする。夫は鉱山の管理人で仕事はひとりでする。妻は家にずっといる。訪れるひとはいない。せいぜい毎朝決まった時間に牛乳配達人がやってくるだけだ。夫は仕事に出かける。妻は青年の死体の服を替える。あまりにかわいそうなんだもの。息子のシャツは息子が死んだとき、あらかた夫が貰っていたのだけれど一枚だけ上等なのが残ってる。眼鏡も息子のをあげよう。まあ、まるでジェームズそっくり。夫がいない間、妻は青年のまえで過ごすようになる。そこで彼女はおしゃべりをする。むかしは農場にいたこと、羊を飼っていたこと、トウモロコシ畑のこと、この丘の家に引っ越したこと、息子が撮った写真のこと、海に行った思い出、写真を撮るときの秘訣、わたしはその写真で本を作ったの、いまはもう作ってないけど、写真がないから……夫が鉱山の管理人になったこと、ふたりで管理するはずだったのにもうひとりは心臓発作で死んだこと、ドイツとの戦争が始まったこと、息子が徴兵されたこと、ちかくで飛行機が墜落したこと、夫がその飛行機のプロペラを持って帰ったこと、おみやげだと言って、「ジェームズが帰ってきたらプレゼントしよう」、帰ってきた息子はすっかり弱っていたこと、胃と脚を悪くしていたの、それからずっと寝たきりで、アンブローズが丘に連れていったときもずっと眠ってた……それから、わたしはジェームズを森に埋めないでと言ったのだけれど夫は聞いてくれなくて、それからこの部屋で過ごすようになったのだけど、アンブローズが健康に悪いからといってこの部屋には入れなくなって……アンブローズが言ってたわね、一〇時に鉱山でダイナマイトを使うって……もし怪我してたらどうしよう? アンブローズはこんなに遅くなったことはないのに。あら、帰ってきたわ。棺桶でも作っていたのかしら……このプロペラ、重いのに引っ掛けるためのフックが弱いの。きっとすぐ落ちてきてしまうわ。あら、そこの床板も危ないわね。踏み抜いてしまいそう。それから、このワイヤー……アンブローズは分かってない。あなたを連れていく必要なんてないのに。そうだ、あなたのブーツを見つけたわ。あなたのシャツもアンブローズがたくさん持ってるし。大丈夫、明日はわたしに任せて、ジェームズ。大丈夫、うまくいくわ……
 『Loving Memory』は静謐な心理サスペンス(何せ劇伴はひとつもない)とも言うべき作品で、現在ならA24が製作した映画に近いかもしれない。アルバート・フィニーが自腹を切って(BFIと折半しつつ)カンヌ映画祭に出品しようとしたという逸話からもその完成度の高さは折り紙つきだろう。とくに素晴らしいのはロザムンド・グリーンウッドのその顔だ。ことの顛末を目の当たりにしたときのあの顔、女優も凄いが演出したトニー・スコットも凄い。さて、『Loving Memory』における「棺桶的空間」は青年の死体を一定期間安置することになる部屋である。そこには思い出の残骸が積み重なっていて、長らく封印されてきたであろうことがわかるよう視覚化されてきる。『Loving Memory』はこの部屋でのロザムンド・グリーンウッドのモノローグに多くの時間を割いているが、ロイ・エヴァンスが鉱山でひとり仕事をしている様子をロング・ショットなどで捉えながらときおり挿入する。「閉ざされた狭い空間と開かれた宙吊りの空間との関係」は『One of the Missing』でそうだったように爆発的な音響によって通底されるが、『One of the Missing』の絶叫が誰にも届くことがなかったのと異なり、『Loving Memory』の爆破音はロザムンド・グリーンウッドの耳に届き、彼女にとある企図を引き起こさせる。単純化して言うなら、鉱山での爆発をこの部屋で再現するというものだが、「開かれた宙吊りの空間」での出来事を「閉ざされた狭い空間」において反復するという演出はこの時点でかなりの冴えを誇っている。またこの企図の直後に「棺桶的空間」の反復/変奏とも言うべき「棺桶」そのものが画面に現れるのだが、この反復/変奏は初の長編映画である『ハンガー』でも踏襲されることになる。カトリーヌ・ドヌーヴが住まうニューヨークの高級アパートメントにはドヌーヴ扮する吸血鬼自身をモデルにした美術品が陳列され、さらに屋根裏にはこれまでの眷属を封印した棺桶がいくつも積み重ねられている。または『ザ・ファン』のロバート・デ・ニーロがかつて活躍した球場の一室もこの部屋に連なっているかもしれない。
 「棺桶的空間」は『ハンガー』以降のフィルモグラフィにも多く見受けられる。『トップガン』において「棺桶的空間」は言うまでもなく戦闘機だろう。アンソニー・エドワーズ扮するグースが死亡する事故はキャノピーへの激突という戦闘機の密閉性を強調するかのような事故だった。『ビバリーヒルズ・コップ2』ではエディ・マーフィを轢き殺そうとしたユルゲン・プロホノフが射殺され車ごと炎上する。『リベンジ』ではマデリーン・ストウが幽閉される娼館の部屋。『デイズ・オブ・サンダー』ではストックカーが棺桶のヴァリアントではあるが「棺桶的空間」としてよりふさわしいのは病室や農場といった空間だろう。レーサー生命に終わりを告げらるかもしれない場所、またマイケル・ルーカーやロバート・デュヴァルは隠遁することでレーサーや整備士としての己を葬ろうと振る舞う場所が病室や農場といった穏やかな空間なのだ。『ラスト・ボーイスカウト』ではふたたび爆発する車。『トゥルー・ロマンス』はデニス・ホッパーが住まうトレーラーハウス、この「閉ざされた狭い空間」は終盤のホテルの一室として反復/変奏される。『クリムゾン・タイド』の潜水艦、またラストの法廷。ジーン・ハックマンはそこで半生を捧げてきた艦長としての役目を終える。『ザ・ファン』のサウナルーム、子供が監禁される球場の部屋。『エネミー・オブ・アメリカ』はまず冒頭の湖に沈む自動車があり、ジーン・ハックマンのアジトや終盤のイタリアン・レストランなど。『スパイ・ゲーム』の会議室と中国の刑務所。『マイ・ボディガード』でも車という「閉ざされた狭い空間」で多くの死者が出る。デンゼル・ワシントンも例外ではないが、復讐のあいまに挿入される禊のようにプールで血を流す(洗う?)イメージも「棺桶的」と言えるかもしれない。『ドミノ』における落下するエレベーター。また「偽の死者」のイメージとして撃ち殺されたマフィアの息子を含む大学生たち。そのシーンには墓穴という棺桶的イメージが。『デジャヴ』においてはフェリーがまず「棺桶的空間」だろう。ジム・カヴィーゼルが「開かれた宙吊りの空間」であるところの「橋」からフェリーを見下ろすことでフェリーの「棺桶的」=「閉ざされた狭い空間」性が強まる。タイム・ウィンドウで覗き見するポーラ・パットンの部屋。このとき、モニターがドライヤー『吸血鬼』における棺桶についた小窓の役割を果たすだろう。デンゼル・ワシントンがアインシュタイン-ローゼン橋=ワームホールを渡るために入れられる装置も「棺桶的空間」。装置の中に入ったデンゼル・ワシントンはモニター越しにアダム・ゴールドバーグと会話するがこのモニターも『吸血鬼』の棺桶の小窓的。『吸血鬼』ではジュリアン・ウェストの抜け出た魂が囚われたレナ・マンデルを発見するが、過去に行くシーンはそれのオマージュなのかと穿った見方をしてみたくなる。またこのシステム/装置が「白雪姫」と名付けられているのも興味深い。「棺桶的空間」に横たわる白雪姫ほど「偽の死者」と呼ぶにふさわしい人物もいないだろう。さらにこの装置に閉じ込められる様子は水中に没した爆弾を積んだ自動車として変奏される。『サブウェイ123 激突』ではジョン・トラヴォルタがハイジャックする列車ペラム123号。この映画のジョン・トラヴォルタは常に苛立たしげな態度であり、「棺桶的空間」に留まらなければならないことに我慢ならないように見える。タクシーが渋滞に捕まると歩いて橋を渡ろうとするほどだ。ジョン・トラヴォルタの死が印象に残るのは「開かれた宙吊りの空間」である「橋」の上でほとんど自死のようにデンゼル・ワシントンに撃たれるからだろう。トニー・スコットのフィルモグラフィにおいて「棺桶的空間」をここまで強く拒否するキャラクターは類を見ない。「閉ざされた狭い空間」という主題を思い起こしながら観ればジョン・トラヴォルタの態度は倫理的とも言えるであろう清々しさに満ちている。そしてその倫理は『アンストッパブル』のデンゼル・ワシントンに引き続れるだろう。『アンストッパブル』ではデヴィッド・ウォーショフスキーが運転する機関車7375号が「棺桶的空間」として表象される。このときのウォーショフスキーの窓から顔を出して暴走する777号を見やる後ろ向きの姿勢はデンゼル・ワシントンが機関車1206号をバックしながら運転するときに引き継がれる。機関車1206号もまた「棺桶的空間」のヴァリアントとして表象されるが、暴走する777号と連結することで「棺桶的空間」は長さを獲得し、それが「橋」への変貌の第一段階となる。やがて暴走は食い止められ、先頭車両のクリス・パインと貨物の上のデンゼル・ワシントンはカットバックで視線を交わすが、ここで蓮實重彦の言葉を思い出してみよう。「「橋」という装置は、トニー・スコットにとって、何よりもまず、ロング・ショットとクローズ・アップとを無理なく連鎖させるその演出設計に不可欠なものだからである。」と蓮實は言う。では『アンストッパブル』のラストシーン(https://youtu.be/KY0tKEA37-0)はどうなっているのだろうか。列車を停止させたクリス・パインがひと息つき後方を振り返ると、まるで橋の上にいるかのように貨物車の上に立っているデンゼル・ワシントンがクリス・パインの視点ショットらしきロング・ショットで示される。デンゼル・ワシントンは手を挙げ若い車掌を称える。そのアクションにクリス・パインが応える様子をクローズ・アップで捉える。カメラは反対側に置かれ、肩なめのロング・ショット、そしてデンゼル・ワシントンのクローズ・アップと画面は連鎖する。蓮實の言う「橋」という装置が導くショットの連鎖がここには現れている。だが、上述したように『アンストッパブル』における「橋」は、もともとはそれが表象する「開かれた宙吊りの空間」と対極のはずの「棺桶的空間」だったのだ。「棺桶」のヴァリアントだった列車が「橋」のヴァリアントになること。

 こうした考えに至ったとき、思い出すのは『ハンガー』のいくつもの棺桶のことだ。カトリーヌ・ドヌーヴによって積み重ねられた「棺桶」とデンゼル・ワシントンによって連結された「棺桶=橋」。『マイ・ボディガード』では「橋」から「棺桶」への旅路が描かれた。『デジャヴ』ではアインシュタイン-ローゼン「橋」を越え、過去という「棺桶」の中に入っていった。『サブウェイ123 激突』では「棺桶」を拒否するジョン・トラヴォルタに「橋」の上で引導を渡した。そして、『アンストッパブル』。「棺桶=橋」。
 ここでふと『Loving Memory』を思い出す。橋を渡った直後事故に遭った青年の死体は、まず自動車の後部座席に隠される。ここでもまた「橋」と「棺桶的空間」が近しく存在している。トニー・スコットのフィルモグラフィはこのように変遷し、また元の位置に戻ってきたのだろうか。それをトニー・スコットの映画に確かめる術はもはやない。だが、あり得たかもしれない変遷をほかの映画のなかに見出すことは出来るかもしれない。たとえばダンカン・ジョーンズ『ミッション:8ミニッツ』。『ハンガー』で「棺桶的空間」に密閉されたデヴィッド・ボウイの息子は「囚われ」ることを主題に選んだようだ。「棺桶的空間」としての列車を描くこの映画は『デジャヴ』のような既視感をあえて想起させようとしているのか。
 また『トップガン マーヴェリック』においても「棺桶的空間」は表象される。マイルズ・テラーがSAMの標的になったとき、トム・クルーズはコブラ機動によってテラーの機体に覆い被さり、身代わりとなる。『トップガン』におけるアンソニー・エドワーズ扮するグースの命を奪ったキャノピーをちょうど反転させたかのようなこのF-18の機動。この運動をコックピット内に取り付けられたカメラが撮影しているのだが、そのときのショットがドライヤー『吸血鬼』の棺桶のそれに酷似しているのはいったいどういう偶然なんだろうか。またこの戦闘が行われる空域が専門用語で「棺桶ポイント/Coffin corner」と呼称されることも奇妙な符号のように思えてくる。
 「棺桶的空間」はトニー・スコットのフィルモグラフィにおいて反復され、変奏される主題だった。もしかしたらそれは、トニー・スコットのフィルモグラフィの外においても反復され、変奏されているのだろうか。それについて何らかの結論を導くには、映画を観続けるしか方法はないだろう。トニー・スコットを『トップガン』の監督としてだけではなく、30作品におよぶフィルモグラフィ(IMDb)の映画監督トニー・スコットとして記憶しながら、現在のスクリーンに向き合うこと。
 結局のところ、わたしたちができることはそれしかない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?