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第2章 囚われの女たち──川本徹『フロンティアをこえて──ニュー・ウェスタン映画論』を読む②

 第Ⅰ部第Ⅰ章では製作年の新しい西部劇が扱われたが、第2章では現代劇に残存する西部劇的な伝統について論じられる。この章で扱われるのは、ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』(一九八四)とケリー・ライカート『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』(二〇一六)の二作である。後者はマイリー・メロイの短編小説に基づく三部構成のオムニバス映画だが、論じられるのは第一部のみとなる(原作となる短編は「分厚い本(原題“Tome”)」)。この二作は現代を舞台にしながら、西部劇のおけるひとつの典型が共通して見出せる作品である。それは先住民捕囚物語と呼ばれるそれである。『パリ、テキサス』とよく比較される映画としてジョン・フォードによる『捜索者』(一九五六)が挙げられるが、アラン・ルメイによる原作小説は実際に起こった先住民によるシンシア・アン・パーカー拉致事件をモデルにしている(グレン・フランクル『捜索者 西部劇の金字塔とアメリカ神話の創生』に詳しい)。『捜索者』がそうであったように『パリ、テキサス』もまた失踪した女性を探し求める映画である。その他の点でもフォードとヴェンダースの映画には多くの類似点が見受けられるが、『パリ、テキサス』の終盤ではハリー・ディーン・スタントン演じる捜索者トラヴィスに関するある事実が判明し、その点がジョン・ウェインが演じた『捜索者』の主人公イーサンと『パリ、テキサス』のトラヴィスを分別する。ハイウェイの果てにトラヴィスと息子ハンターは、妻であり母であるジェーン(ナスターシャ・キンスキー)を見つけ出す。覗き見小屋で働くジェーンとマジックミラー越しに電話で会話するトラヴィス、この場面のトラヴィスの告白によってあきらかになるのは、他ならぬ彼自身が妻の自由を奪い、捕囚として扱っていたという過去である。川本はこの拘束の過去の告白と共に、ハリー・ディーン・スタントンが口にするある台詞にも「捕囚物語=captivity narrative」との関連を見出す。日本語字幕では「子どもを産ませて自由を奪った」と訳される台詞は、直訳すると「子どもを産ませて捕虜(captive)にした」となる。また、ハリー・ディーン・スタントンとナスターシャ・キンスキーが覗き見小屋のマジックミラー越しに見つめ合う場面に、キンスキーの顔の上にスタントンの顔が反射しまるで仮面を被ったように見える名高いショットが登場するが、ここに川本による『捜索者』論との関連を見出すことが可能だろう。

『パリ、テキサス』


 川本の前著『荒野のオデュッセイア』で詳しく論じられる『捜索者』の主人公イーサンとその宿敵であるコマンチ族の酋長スカー(ヘンリー・ブランドン)との鏡像性への注目は、ジョーン・ダグルの論文「フォード西部劇にとける線上的な様式と多民族の接触」(“Linear Patterns and Ethnic Encounters in the Ford Western,”2001)を参照しながら、具体的なショット分析として展開される。

(…)イーサンとスカーの鏡像性、類似性は、彼らの初対面のシーンに明瞭にあらわれている。(…)兄の一家殺害から数年後、イーサンはようやくスカーの居場所をつきとめ、この宿敵と対峙する。そのさいイーサンのクロースアップの直後に、ちょうどこれとシンメトリカルなかたちで、つまりイーサンの顔を鏡に照らしたかのように、スカーのクロースアップが映し出される。(図4-3、4-4)。ハリウッド映画によく見られる切り返しであるが、ここではふたりが正確に同じサイズで切り取られていること、またそうした例は本作中、これが最初で最後だということは注目に値する。

川本徹『荒野のオデュッセイア』一四七〜一四九頁
図4-3『捜索者』
図4-4 同上


 川本は「修正主義西部劇の多くは、白人とインディアンの従来の関係をひっくり返すことに終始する(…)これにたいして『捜索者』は、白人とインディアンの関係をひっくり返すのではなく、両者のあいだに引かれた境界線を根本から問い直す」(一四五頁)と述べている。この直後、川本は『捜索者』の主人公と宿敵を「鏡像」として表象する特徴を指摘し、従来の修正主義西部劇の「反転」とは異なる「融解」という概念で『捜索者』を論じていく。上に引用した『パリ、テキサス』のショットにこの「融解」の概念がよりふさわしいように思える。しかし、指摘しておかなければならないのは、「融解」がよりふさわしいとしてもそれはあくまで画面上の処理の問題であって、『捜索者』がはらんでいた人種的イデオロギーの問題とはまったく異なるものだと言わざるをえないことである。では、『パリ、テキサス』において「融解」しているのは、いったいどのような境界線なのか。ハリー・ディーン・スタントンの顔がマジックミラーに反射し、ナスターシャ・キンスキーの顔に被さるように見えるショットの直前、スタントンはこの窓に背を向け、かつての自分の行いを告白していた。その内容は、嫉妬と迷妄によって妻をトレーラーハウスに閉じ込めていたという「捕囚物語=captivity narrative」的な物語である。映画を観ていた者なら、スタントンが語るこの物語に既視感をおぼえるだろう。それは「捕囚物語=captivity narrative」という西部劇的伝統に由来するからではない。覗き見小屋への二回目の来店の前の場面で、安ホテルのロビーにあるソファに横たわりながらスタントン扮するトラヴィスは、息子ハンター・カーソンにみずからの母と父について聞かせる。いわく母は素朴で善良な女性だった。父はそんな母とは別の空想の母をつくり出した。父はよく母をパリの女だと冗談めかして言っていた。しだいにその冗談が冗談ではなくなっていった。父は実在ではなく空想を見つめるようになった。自分の冗談を本気にしはじめた。母はとても困っていたよ、とても内気なひとだったから……覗き見小屋で語られるスタントンとキンスキーにこの話がデジャヴするのは当然といっていいかもしれない。日本語字幕における父の空想は実際の台詞では「idea」と口にされ、トラヴィスの自分の留守中に妻がほかの男と会っているという妄想は「imagine」という音で口に出される。この二つの単語の類似性は言うまでもないだろう。父の空想は息子に受け継がれてしまった。さて、上に引用したショットはこのような話の直後に現れる。キンスキーは見透せないミラーの向こうにいるのがスタントンだとすでに悟っている。「トラヴィス」と夫の名を口にし、その声をきっかけにスタントンは振り向く。キンスキーは見えないにもかかわらず夫の姿を探そうと視線をあちこちに彷徨わせ、ついには跪いて障壁のようなミラーに手を触れる。そしてそのとき、キンスキーの顔にスタントンの顔が重なる。いままで一方的に見る側にいたスタントンがみずからの顔に対峙する。このとき、「融解」が起きる。それはスタントン/キンスキーという男女間の「融解」ではなく、トラヴィス(息子)/トラヴィス(父)という世代間での「融解」である。父と息子のあいだで共有される名前、妄想、そして顔。『パリ、テキサス』の劇中でトラヴィス(父)の顔が画面に現れることはない。たしかに、アルバムを開く場面で父親の写真が画面に映されるが、離れた位置から全身を捉えた写真では顔を判別しずらく、モノクロのせいか鮮明さもない。父の肖像は不可視にとどまり、ハリー・ディーン・スタントンとその弟役のディーン・ストックウェルの相貌から推察するしかない。兄と弟、そのどちらにも似て、どちらにも似ていない父の相貌。というより、スタントンとストックウェルの顔こそ「融解」の結果なのだ。かれらの父と母の。この「融解」の顔とパラレルに存在するのが、ハンター・カーソンの顔である。スタントンはキンスキーにカーソンのいるホテルの部屋を教え、みずからは姿を消すと告げる。最終的にそれを了承するキンスキーだが、ここで注目したいのは、カーソンがいるホテルの部屋とキンスキーがいる覗き見小屋もまた鏡像、類似の関係にある点だ。そもそもカーソンを同行しての捜索の旅は、かれの保護者にあたるストックウェルとオーロール・クレマンの弟夫婦に無許可でおこなわれたものである。つまり、弟夫婦からしたらスタントンの旅はカーソンを拉致したうえでの逃走の旅になってしまう。捜索が拉致と「融解」すること。ここにも「捕囚物語=captivity narrative」が反映される。このような対立する要素の思わぬ共存を、見事に言い表した記述が『フロンティアをこえて』に書かれている。

(…)パリとテキサス。互いに相いれない言葉の組み合わせに見えるが、劇中で明かされるように、これはテキサス州にあるパリという実在の町をさす。
 この町では、言葉の上ではたしかに、パリとテキサスという遠く隔たった記号が、その距離をこえて隣りあっている。(…)パリ、テキサス。遠く隔たったもの同士の思いがけない結合は、あくまで印刷されたイメージの世界にとどまる。

川本徹『フロンティアをこえて』五二〜五三頁


 フォードの『リバティ・バランスを射った男』の有名な台詞「ここは西部です。事実が伝説になったときは、伝説を印刷します(print the legend)」を導入にして、テキサス州の町パリの写真のプリント(print)について分析する川本の記述は見事に『パリ、テキサス』を要約している。「遠く隔たったもの同士の思いがけない結合は、あくまで印刷されたイメージの世界にとどまる。」というとおり、結合、あるいは融解したように見えた顔と顔はマジックミラーという「表面」の上でそう見えたに過ぎず、その実態はどれほど接近しても、やはり隔たったままなのだ。

テキサス州、パリ

 『パリ、テキサス』を論じ終えたところで、上述したとおり、第2章はケリー・ライカート『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』へと論を移る。ふたたび「捕囚物語=captivity narrative」の文脈をもちいた論が展開されるが、『捜索者』と比較された『パリ、テキサス』とは異なり、ここで川本はフォードの参照を控え、『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』第一部におけるフレーム内フレームの使用に注目する。マイリー・メロイの短編小説「分厚い本(“Tome”)」を原作とする第一部は、ローラ・ダーン扮する弁護士を主人公とし、彼女がジャレッド・ハリス扮する怪我で退職した元大工の依頼人に悩まされる様子を描く。まず川本は、このエピソードの主人公がライカートの映画ではめずらしい社会的に地位のある経済的に恵まれた人物であることを指摘する。「これまで低所得層の女性を描くことが多かった」ライカートが社会的・経済的に恵まれた女性といういままでにない主人公を描くことで浮かび上がってくるのは、高い技能と相応の地位にあってもなお埋まらないジェンダー格差という主題だ。ダーン扮する弁護士は、依頼人が八ヶ月にも渡って納得しなかった依頼内容(会社に責任のある労働災害だが和解金を受け取っていたため訴権がないことに対する相談)を、セカンドオピニオンの男性弁護士が説明した途端、あっさりと受け入れたことに愕然とし、その帰り道にパートナーの男性との電話で「自分が男ならいいのに」と嘆く。メロイの原作小説にもある直裁的かつ説明的なセリフだが、川本はライカートもこの弁護士のような葛藤をライカート自身の労働現場、つまり映画製作の現場にて抱いてきたのだと主張する。『リバー・オブ・グラス』撮影時におけるライカートが直面した女性であるが故のままならなさは、トッド・ヘインズとのインタビューのなかで語られるが(293頁、引用文献一覧を参考)、川本はこのインタビューをふまえたうえで劇中のある場面に注意を促す。男性弁護士のセカンドオピニオンを受ける前の場面で、ハリスはアポ無しでダーンの事務所に押し掛けてくる。みずからのオフィスにひとりで先に行くように入っていったダーンはデスクに回り込み、脱いだコートを投げかけながら、これまで幾度となく行ってきただろう説明を繰り返す。しかし、ハリスは説明を聞き入る様子はなく、ドアのところで立ち止まりドアを動かしながらその立て付けの悪さを指摘する。ハリスがドアを動かすと、ドアの後ろに隠されていたダーンの姿がドア枠というフレーム内フレームのなかに現れる。このショットに川本は「さながら女性が画面に映るかどうか、その存在を主張できるかどうかは、男性がコントロールしているかのようである。」とコメントする。『ライフ・ゴーズ・オン』第一部には、男性が女性の行動をコントロールする際、この場面のようにドアを利用した演出がよく見られる。ハリスは警備員を人質にとって保険会社のビルにて立てこもり事件を起こす場面でダーンは現場に呼ばれ、ハリスの要求どおり事故に関するファイルを探すよう警察に要請される。防弾ベストを着せられ、ひとりでビルの入口に向かわされるダーンを捉えたロングショット、ファイルを見つけたあとドアの隙間からハリスが手招きで部屋の中に入るよう指示するショットにそうしたコントロールされる女性の姿が反映されているだろう。

『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』


 立てこもり事件の場面で川本はふたたび「捕囚物語=captivity narrative」の文脈を持ち出すのだが、このまえにもダーンがハリスによって「捕囚」になる場面があることを川本は忘れず指摘する。セカンドオピニオンからの帰り、パートナーに向かって電話越しに愚痴をこぼしていたところ、目の前に妻が運転する車から降ろされたハリスが現れ、ダーンの車に乗り込んでしまう。仕方なしにハリスを助手席に乗せて車を運転するダーンだが、妻への罵倒、自己憐憫、自暴自棄の言葉が次々に飛び出し、ダーンがこれ以上口を開いたら車から降りてもらうと脅すと、ハリスはようやく沈黙すると約束しそのとおりにするがしばらくすると今度は堰を切ったように泣き出してしまう。
 川本はこの場面に続くショットを賞賛するが、その理由は、『フロンティアをこえて』においてケリー・ライカートが特権的に扱われている理由の一端を垣間見させてくれる。

オープンロードを一台の車(ローラの車)が進んでいく[図2-4]。ふつうなら、これはアメリカの広大さと、それが保証する自由を謳った映像ということになる。しかし、皮肉なことに、ここでは車を運転する女性は迷惑な男に囚われている。その状況を裏書きするかのように、天気はどんよりと曇っている。エラ・テイラーは『ライフ・ゴーズ・オン』に関するみずからのエッセイを次のように題している。「広大な空の下に囚われて(“Trapped Under the Big Sky”)」(Taylor)。このタイトルの状況をもっとも如実に示したのが、ここで指摘したショットにほかならない。

川本徹『フロンティアをこえて──ニュー・ウェスタン映画論』五七頁
[図2-4] 『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』


 『フロンティアをこえて』の後の章(第10章)で西部劇と近接するジャンルとしてロード・ムーヴィーについてまるまる一章論じられることになるが、そこで引用される杉野健太郎の「アメリカをレビュー(再見=再吟味)する旅」という『イージー・ライダー』についての評は、『ライフ・ゴーズ・オン』のこのショットについてもある程度なら適用できるだろう。旅とは言えないただの帰り道の風景にあっても、アメリカならロード・ムーヴィーの条件である広大な風景が撮れる。しかし、その内実は自由を謳うどころか、ジェンダー格差による抑圧が反映されたかのように濁っている。「広大な空」は「自由」の保証を意味せず、むしろ「捕囚」のための条件となる。ライカートは西部劇だけでなく、ロード・ムーヴィーの「レビュー(再見=再吟味)」もおこなっている。上記の引用でいえば「裏書き」という語がそれに相当するだろう。そのような「裏書き」はライカートのデビュー作である『リバー・オブ・グラス』にも認めることができる。

図2-5『リバー・オブ・グラス』
図2-6『パリ、テキサス』


 上に引用した二つのショットは『フロンティアをこえて』において見開いたときに一目で比較できるよう左右の同じ位置に配置されている(58〜59頁)。ライカートによる『パリ、テキサス』への言及は確認できないが、左右対称的なレイアウトを施すことで視覚的な説得力を高めている。だが、このようなレイアウトは論の補強のためだけに施されているわけではない。

車に乗ればどこかに行ける。どこへでも行ける。高架道路が象徴するのは、その移動の自由である。じっさい、『パリ、テキサス』でトラヴィスは、このシーンの直後、息子と一緒に旅に出る。しかし、『リバー・オブ・グラス』のコージーは違う。主婦であり、赤ん坊の世話をしている彼女は、高架道路に乗ることなく、家(彼女にとっての牢獄)に帰っていく。高架道路はむしろ彼女の不自由さを浮き彫りにするものとして、フレームにおさめられている。

上掲書五八〜五九頁

 左右対称的な図版の比較によって浮き彫りになるジェンダー格差。それはヴェンダースとライカートの一見すると似たような風景を撮りながら、その実対照的な作風の違いも明らかにする。前者では問われることのなかった旅=移動に関わる社会的/経済的要件が後者の主題となるからだ。『リバー・オブ・グラス』おいては専業主婦という社会的地位が、『ウェンディ&ルーシー』においては貧困という経済的要件が旅=移動の不可能性を規定している(ライカートが1999年に撮影した中編『Ode』でも橋と自動車が旅=移動の不可能性を象徴する装置して画面に登場する。この中編映画の主人公はヘザー・ゴッドリーブとケヴィン・プールのカップルで、ふたりはまだティーンエイジャーであるため自動車を運転できない。ゴットリーブとプールは橋の上で時間を過ごすが、プールは橋の下を流れる川にある砂州に横たわり、ゴットリーブと垂直的に視線を交わす。ゴットリーブにとって橋は高校から家への帰り道の途中、唯一気の休まる宙吊りの時間を過ごすための装置であり、プールにとっての橋もある程度はそうである。しかし、ゴットリーブと共にいない時間の橋は『リバー・オブ・グラス』の高架道路のようにのしかかるように頭上に存在する抑圧や不自由さの形象としてつねにプールの視界を覆っている。自動車もまた不自由さの象徴として機能する。運転ができない以上、ゴットリーブは不機嫌にボンネットの上に尻を乗せるばかりだ。一方のプールはカーニバルで出会った男性の車に乗り込み、そのまま数日間姿を消す。プールが車に乗り込む直前、彼は出会ったばかりの男性とキスをする。このシーンの直前、プールと男性は夥しい数の自動車が停まっているまるで墓場のような、あるいはサバービアの住宅街のような駐車場を抜けていく。プールがみずからのセクシャリティを自覚する場面では自動車が性的なマジョリティとマイノリティを象徴しているような演出が見られる。『Ode』と同じ原作の映画作品に『ビリー・ジョー/愛のかけ橋』(1976)という作品があるが、そこで少年と性的関係をもつ男性は家庭のある中年男性であり結末でこの男性は自殺した少年のガールフレンドに起こったことを告白する。『Ode』にこのような場面は無いが、プールもまた家庭、ひいてはコミュニティに参与できない存在として自己を規定してしまったことは十分あり得る。地元に居場所はなく、そこから立ち去ることもできない。プールにとって自動車は、みずからが家庭を育むことができない決定的に孤独な存在であることを思い知せる装置として機能する。そして、橋もまたプールに移動の制限を知らしめる装置として機能するだろう。若さゆえの移動の制限、唯一可能なことはそれまで劇中で幾度か描かれてきた落下の演出をみずから演じることだけだ)。
 『ライフ・ゴーズ・オン』のローラ・ダーンもまたジェンダーという不自由さに抑圧されている。しかし、それはライコートがこれまで描いてきた経済的要件とは異なる要件である(54ページを参照)。『ライフ・ゴーズ・オン』において経済的な要件による移動の不自由さが描かれているのは、ダーン扮する弁護士を「捕囚」するジャレッド・ハリス扮する元大工のほうなのだ。ハリスとダーンが鏡像的な関係であることは川本も指摘している。五四〜五五頁の記述を読むとハリス扮するフラーが弁護士のローラを悩ませる状況を説明する一方で、ライカートが観客にフラーにも一定の同情を寄せるような演出をしているとの指摘を見ることができる。具体的にはフラーの視点ショットに関する記述がそれにあたる。

ここで、フラーが最初に登場するシーンに目をむけよう。シーンの最初のショットでは、オフィスにやってくるローラが映される[図2-2]。これはフラーの視点から撮られた映像(フラーの視点ショット)であることが、すぐあとに明らかになる。第一部の主人公はローラだが、観客はときにフラーの視点に立つことを求められる。このシーンには、もうひとつフラーの視点ショットがある。ローラとの会話中、彼が手元のメモに視線を落とすと、今度はフラーの視点から撮られたメモが映される。重要なのは、そのメモの映像がぼやけていることだ。(…)彼はいまでは働けないばかりか、文字すら満足に読めなくなっている。それを観客は彼の視点ショットをとおしてフラーと一緒に体験する。

上掲書五四〜五五頁

 さらに、視点ショットとともにフレーム内フレームについて言及しているがこのあとに続く。

 もうひとつ重要なのは、このシーンの終わり方だ。シーンは、フラーがローラを見るところからはじまった。最後はこれが逆になっている。つまり、ローラがフラーを見るところで終わる[図2-3]。この図はローラの視点ショットである。シーンの冒頭のフラーの視点ショットと比較すると、カメラの角度や人物の動きの有無などの違いが見られる。しかし、ここではむしろ共通点に目をむけたい。それはフラーがいずれもフレーム内フレーム、スクリーンというフレームの内部に作られた、もうひとつのフレームに囲まれていることである。これらの映像が意味するのは、ローラとフラーはいずれも社会のなかで囚われているということである。

上掲書五五〜五六頁

 互いの視点ショットによるフレーム内フレームの画面は[図2-2]と[図2-3]として提示される。『リバー・オブ・グラス』[図2-5]と『パリ、テキサス』[図2-6]から引用された図版と同様の対称的なレイアウトがここでも確認できるが、ここでは両者の鏡像性を強調するかたちで配置される。囚われる女と男。『パリ、テキサス』では個人的な妄執に囚われた男の物語だったが、『ライフ・ゴーズ・オン』では「ローラとフラーはいずれも社会のなかで囚われている」ことを視点ショットとフレーム内フレームがつたえる。

図2-2 『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』
図2-3 『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』


 だが、ここであらためて、とある視点ショットを自動車との関係、つまりロード・ムーヴィー的な移動の自由(あるいは不自由)との関連のもとに解釈してみたい。そのショットを見ることによって、ケリー・ライカートの映画においてもっとも移動の不自由を被っている人物が浮かび上がってくるからだ。
 55頁において川本はハリス扮するフラーの視点ショットを二回言及する。最初は事務所を訪れたローラを見るときの視点ショット。二回目はローラから手渡されたメモに視線を落としたときの視点ショットである。「ローラとの会話中、彼が手元のメモに視線を落とすと、今度はフラーの視点から撮られたメモが映される。重要なのは、そのメモの映像がぼやけていることだ。(…)彼はいまでは働けないばかりか、文字すら満足に読めなくなっている。それを観客は彼の視点ショットをとおしてフラーと一緒に体験する。」(55頁)。

ぼやけた視点ショット


 「重要なのは、そのメモの映像がぼやけていることだ」と川本は指摘する。なぜ映像がぼやけていることが重要なのか。それは、数ある視点ショットのなかで唯一このショットのみがフラーの現状に合致した焦点の合わないショットだからである。この視点ショットはフラーという人物=フレームをとおしたショット、つまりある種のフレーム内フレームと解釈できる。外縁と内縁が完全に一致したフレーム内フレーム(フレーム=フレームというべきか)のショット。「彼はいまでは働けないばかりか、文字すら満足に読めなくなっている。それを観客は彼の視点ショットをとおしてフラーと一緒に体験する。」。── 観客は彼の視点ショットをとおしてフラーと一緒に(…)、いわば、観客もまたフラーに囚われるのだ。それは、フレーム内フレームで表されるローラの不自由さとは異なる不自由さの経験である。社会的、経済的な要件よりもさらに深刻な身体的な要件にフラーは囚われている。ライカートの女性主人公たちは移動を抑圧されてきたが、フラーはそれよりも深刻ないわば疎外という事態に見舞われる。事故の後遺症としての視力の低下、複視はフラーを自動車の運転から疎外し、最終的にみずからの意思での移動すらままならなくなる(フラーが喧嘩をして妻に自動車から下ろされたように、フラーによるローラの捕囚はローラの意思次第で解消可能なものである。実際フラーが車に乗り込んできた直後、ローラはフラーを残して食事に行く)。運転から連行へ。どこかに行くのではなく、つれて行かれること。川本はフラーがローラの車に乗り込んできた場面の直後、ショッピングモールにおけるアメリカ先住民のダンスについて筆を割いている。原作にはない映画オリジナルの場面であり、川本がこの場面を「捕囚物語=captivity narrative」の主題から読み解いていく筆致とても興味深い(映画冒頭、タイトルが表示される前に鳴り響いている音はおそらくショッピングモールのダンスの場面で鳴り響く鈴の音と同じだろう。この鈴の音はロングショットで捉えられ徐々に接近する貨物列車の走行音に掻き消されるが、第9章で触れられる西部の歴史におけるアメリカ先住民と列車の関係を示唆しているようにも思える)。ここで川本が指摘するのは、フラーとローラが画面設計の面では共通していること、そしてフラーが囚われの状態にあることにローラも少なからず関係してしまっていることである。

同時に、フラーが囚われの状況にあることに関して、ローラが無関係ではないことも見逃すべきではない。それはたんにローラがフラーの居場所を警官に知らせた、ということだけを意味するのではない。保険会社のシーンにおけるふたりの会話からわかるのは、ローラが以前から、いかにも弁護士的な態度──表面的には丁寧であっても、じっさいにはぞんざいな態度──でフラーに接してきたという事実だ。フラーなローラにつきまとっている点だけに注目すれば、ローラは一方的な被害者ということになる。しかし、フラーの一件をめぐるプロセス全体に目をむければ、そうとは言い切れない部分がある。

上掲書六二頁

 ローラとフラーは画面設計の共通性のみならず、捕囚する/されるという関係においても両義的であることがはっきりと指摘されている。画面設計上の共通性は上記の引用部の直前にエピソード末尾でパトカーの後部座席にいるフラーとエピソード序盤の情事を終えたばかりの鏡のなかのローラのフレーム内フレームを比較があることを確認できるが、捕囚する/されることの両義性はあくまでショットの共通性を通して間接的な言及に留めている印象を受ける。また川本はショッピングモールの先住民のダンスに注目したアレックス・ヒーニーの論を参照しつつ、フラーのプライベートな領域侵犯に並べるかたちで白人であるローラのアメリカ史を踏まえた先住民への領域侵犯への無関心を指摘しているが、このヒーニーの参照は侵入する/される(捕囚する/される)の両義性に言及するためだとしても、ほかの部分からすこし乖離しているように思える(ヒーニーの指摘はリリー・グラッドストーンとクリステン・スチュアートが主役を演じる三つ目のエピソードを論じるにあたって重要な視点であると思う)。


 画面設計上(フレーム内フレーム)の共通性と捕囚する/されるの両義性を体現したショットは川本らが言及したショッピングモールのシーンの直後にも見られる。車内にひとり残ったフラーを正面から映したカメラがゆっくりとトラックアップ、突然ローラがフレームインし運転席に乗り込むまでをワンカットで捉えたショットがそれにあたる。エピソード末尾のパトカーのフラーを予告するショットではあるが、同時に注目すべきは二人が並んで座り同じ視線の高さを共有している点であり、そしてその視線はこの時点ではまだ交わっていないという点である。


 ローラとフラーが並んで座るのは、セカンドオピニオンの弁護士に相談を受けるシーンでも確認できるが、訴権が無いことを告げられるとフラーは早々と立ち上がる。ローラさあまりの物分かりの良さに戸惑い、座ったままフラーを見上げるがすでに退出しかけている。この視線の高低差、交わらなさは、フラーがローラの事務所で待伏せしていた序盤のシークエンスの反復でもある。セカンドオピニオンについてのメモを貰ったフラーは椅子に座り、当日の相談をしようとするがローラは立ったままそれを断る。このシークエンスの末尾は事務所の窓からローラがフラーを見下ろすショットだが、ここでもこのときの位置関係が保持されたままだ。この位置関係が逆転するのは保険会社での立て籠もりのシーンにおいてである。銃を持ったフラーは椅子に座り、事故についての報告書(原作小説のタイトル「分厚い本(“Tome”)とは、おそらくこの報告書のことを指している)を読み上げるローラは床に直接腰を下ろしている。「フラーが囚われの状況にあることに関して、ローラが無関係ではないこと」があきらかになるのは、このような高さの異なる視線が逆転した状況においてである。ローラは分厚い報告書のある箇所を読み上げることを躊躇し「手書きの字だから読みにくい」と言い訳をする。フラーにうながされ、音読を再開するとそこにはフラーの事故の後遺症について詳しく書かれている。そこではフラーの視力の低下と複視の症状がはっきりと事故が原因によるものと記載されており、そしてその最後にその報告を書いたのはローラであることが判明する。ここで思い出すべきなのは、メモを貰った直後のフラーのぼやけた視点ショットである。フラーは身体的な要件、ローラは精神的な要件という差異はあるが、ともに同じ人物が書いた読みにくい手書きの字を読むという共通した体験をしている。それはローラが遅まきながら観客と同じ体験=「彼はいまでは働けないばかりか、文字すら満足に読めなくなっている。それを観客は彼の視点ショットをとおしてフラーと一緒に体験する」ことでもある。この体験を経たローラは、パトカーに閉じ込められたフラーを見るショットにおけて回復された視線の高低差に安住することをもはやみずからに許しはしないだろう。では、ライカートはそのれをどのようにショットに反映させたのだろうか。
 エピローグにて、ローラはフラーが収監された刑務所へ面会におもむく。そこでの会話は内側からのショット/切り返しショットによる処理がなされている。注目すべきは、このとき同じ視線の高さによる視線の交わりが劇中ではじめて描かれている点だ。これは川本が『荒野のオデュッセイア』にて指摘した『捜索者』におけるイーサンとスカーの鏡像的な切り返しや『パリ、テキサス』の覗き小屋のシーンを連想とさせるものがある。


 川本はこのショット/切り返しショットには言及せず、ジェイソン・ベイリーの指摘を引用しつつライカート、ひいては原作者のマロイの映画原理/小説原理に触れ、論を閉じている。


 この場面でフラーが手紙の返事を求める会話のなかで口にする「分厚い本みたいなものじゃなくていい」というセリフが、ライカート/マロイの映画原理/小説原理のアレゴリーであるということがベイリーを参照した川本の結論である。ここから川本の記述からすこし乖離したことを書くが、個人的には手紙という言及にとどまる細部に注目したい。それは手紙の内容云々ではなく、手紙が送り届けられるものであるという性質である。第2章で論じられてきた映画は『パリ、テキサス』にしても、『捜索者』にしても子どもを家族のもとに送り届け、みずからは去り行く男性の姿が描かれていた。その姿に「捕囚する/される」ことの葛藤とその解消の困難さを見てとることが可能だろう。それらに比較するとローラの「オーケー」という手紙の返信を承諾の返事のかろやかさ、おだやかさはどうだろう。このかろやかさ、おだやかさの由来は送り届けられるものが手紙という送り届ける先が確実に存在するという安心感に起因しているのだろう。第10章にて川本はロード・ムーヴィーというジャンルの特性について「(…)旅は終着点を失い、旅する行為自体が目的となる。」(二〇八頁)と書いている(このような認識はアメリカ文化を研究対象にする研究者のあいだではある程度共通した認識であると思われる。吉田広明はモンテ・ヘルマン『断絶』を「言葉の真の意味におけるロード・ムーヴィーである」と評し、「ここではないどこかへの旅、(…)しかし、ここではないどこかとは、結局どこでもない。」と結論する[吉田『西部劇論 その誕生から終焉まで』三〇九頁]。またアメリカ文学研究者の諏訪部浩一は著書『薄れゆく境界線 現代アメリカ小説探訪』のロード・ノベルを論じた章において「一回かぎりのプロジェクト」とロード・ノベルを定義し、その再現不可能性を指摘している)。
 手紙を出すこと。それは図らずも人間が旅に出ること、移動することについての映画であるロード・ムーヴィーの「レビュー(再見=再吟味)」でもあったのだ(つづく)。



 余談だが「かつて多くのアメリカ映画において、ハンドルを握るのは女性ではなく男性だった。ライカートが監督デビューをはたした一九九〇年代ごろから、ようやくスクリーン上でも、車を運転する女性が増えた。」(五八頁)と川本は記述しているが、数少ない例外としてドン・シーゲルの名前が挙げることができるだろう。早川由真の論考「唐突と迂回──ドン・シーゲルの活劇」には、シーゲルの作品を中心に女性がハンドルを握るシーンがある映画が挙げられているし、シーゲルの映画の活劇が女性たちのアクションによって駆動する事態が具体的な場面や運動の記述によって活き活きと活写されている(「運転する女性たちが、文字通り画面に活気を与え、映画を活劇へと導くのである。──「Stranger Magazine Vol.5」三四頁」)。また日本映画からなら鈴木則文『トラック野郎』シリーズに女性のトラックドライバーが何人も姿を見せていることも見逃せない。特に『トラック野郎 天下御免』の松原智恵子は、菅原文太が演じる主人公星桃次郎の愛車のトラック「一番星号」のハンドルを握る点で特筆すべきである。

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