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2023年映画ベストテン+α

殿堂入り.ブラックハット:ディレクターズ・カット(マイケル・マン)

 2016年2月20日にブルックリン音楽アカデミー(Brooklyn Academy of Music)で開催されたマイケル・マンの回顧展にて上映されたバージョン。2023年11月28日にアロー・ビデオから発売された4K Ultra HD Blu-rayおよびBlu-rayの特典ディスクに収録されている。劇場公開版と大きく異なるのは、原子炉へのハッキング攻撃が中盤に配置されている点。ディレクターズ・カットでは株式市場へのハッキングから始まり、米中合同の捜査チームがリッチー・コスターを逃したあとに原子炉への攻撃が行われる。構成が変更されることでシークエンスのつながりの流動性が増し、テロリストの俯瞰的な視点(監視カメラ/衛生写真)とそれを追うクリス・ヘムズワースらをさらに追いかけるような手持ちのカメラワークという映像的な対比も明確になっている。さらに、コスターの拠点強襲はこの流動性を止めるものという側面もより分かりやすくなり、原子炉への攻撃もこの失敗がひどく反響しているような感覚をもたらす。視覚化されたハッキングの映像はチャールズ&レイ・イームズ『パワーズ・オブ・テン』(68)を彷彿とさせるが(テロリストと捜査チームの映像的な対比もこの短編映画の前半のズームバック/後半のズームアップという構成と比較できるかもしれない)、この視覚化された侵入がすぐれてマイケル・マン的な主題であることはいうまでもない。マンの長編劇場デビュー作である『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』(81)の原作はフランク・ホヒマーの『The Home Invaders』というタイトルを冠する小説だが、長編第二作『刑事グラハム/凍りついた欲望』(86)もホヒマーの小説と同じ題名を名付けられてもよかっただろうし、以降のマンの映画では家だけでなく銀行や刑務所、さらには警察を主人公とした映画では麻薬組織を捜査する刑事ふたりの潜入捜査が描かれることになる。この潜入捜査はメグ・ガーディナーとの共著の小説『ヒート 2』(23)で、国外逃亡したクリス・シハーリスの非合法的な営利組織でのサバイバル/キャリアアップとして変奏されるだろう。そして、侵入/潜入は偽装という主題を派生させる。『マイアミ・バイス』(06)はその典型だが、『ヒート』(95)のロバート・デ・ニーロが復讐のためにホテルの従業員の上着を着込むし、『コラテラル』(04)のトム・クルーズ扮する殺し屋もみずからの仕事をタクシー運転手になすりつける偽装工作を手口とすること、『パブリック・エネミーズ』(09)冒頭の脱獄シーンでもジョニー・デップ扮するジョン・デリンジャーは腹心レッド(ジェイソン・クラーク)が刑事に扮し逮捕された演技をして仲間のいる刑務所に侵入するなど枚挙にいとまがない(蓮實重彦がこの脱獄場面の失敗をフィルム全体への予告と論じるときに『ジェリコ・マイル/獄中のランナー』(79)のことが記憶に浮上する。ピーター・ストラウスのオリンピック選考会への出場が最終的に失敗するマンのテレビ映画において、獄中のストラウスの公的な大会への参加は侵入と見做される。ストラウスはラストで選考会のレコードを塗り替えるタイムを出すがそれを記録したストップウォッチは刑務所の壁に投げつれられ砕け散る。マイケル・マンの映画ではたびたび登場人物が時間について言及するが(それは残り時間と称されることが多い)、マンの映画における時間の主題もより詳細に分析するべきかもしれない)。

 『ブラックハット』において侵入/偽装は、テロリストの株式市場や原子炉へのサイバー攻撃はもちろん、クリス・ヘムズワースによるデータ復元ソフトウェアであるブラックウィドウの利用のためにNSA職員に行われる古典的なメール詐欺にもあてはまる。侵入/偽装はデジタルな空間からフィジカルな場所へ移り変わり、クライマックスの会場にてヘムズワースもコスターも、そしてヨリック・ヴァン・ヴァーヘニンゲンも祭りの行進に逆らう侵入者としてその場に居合わせることになる。そのとき、ヘムズワースのみがみずからの身体に銃弾や切先が侵入することの対策を施している。ヘムズワースの首に巻かれたタオルは『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』のジェームズ・カーンが着込んだ防弾ベストの反復/変奏である。かれらは復讐のためにすべてを捨てる。それは職業的犯罪者であることの放棄であり、いままでの職業的経験を私的な復讐に注ぎ込みことによって侵入/偽装の手口は対策に派生する。手口を知り尽くした犯罪者から元犯罪者の復讐者になること。それは転身というよりも偽装の一種なのかもしれない。もしかしたらその原型は、マンが脚本を書いた『ストレート・タイム』(78)の原作者にて元犯罪者、『ジェリコ・マイル/獄中のランナー』撮影時に力を貸したエドワード・バンカーにあるのだろうか。バンカーは『ヒート』にてジョン・ヴォイトが演じたネイトのモデルとされている。



1.ショーイング・アップ(ケリー・ライカート)

 卓上の彫刻とテーブル底部と脚で縁取られたフレーム内の鳩。同一画面に映りながら、テーブルの上/下、ガレージの内/外で区切られたこれらが同じ空間、同じ高さ、同じ平面を共有する。ミシェル・ウィリアムズが彫刻から鳩に手を伸ばし優しく触れるまでのゆるやかなパンの感動。この鳩は一階から二階への垂直的な移動、受け渡しのための水平の移動と多くの動きをウィリアムズに要請するが、倒立する彫像や側面が焦げた像もしゃがんだり回り込んだりと展覧会の観客に様々な見方を要請する(それは彫像製作時のウィリアムズの動きを模倣するものでもあるだろう)。他者に動くことを働きかける鳩と彫像はともに箱に入れられていたが、彫像は展示のため箱から取り出され、そして鳩も展示会の会場にて包帯が解かれ箱から飛び立つ。ジョン・マガロの『ファースト・カウ』的な手つきによって空へ飛翔する鳩。それを見上げる人びとの姿は彫像のように一瞬停止するが、やがてギャラリーへと戻っていく。そんななか、ミシェル・ウィリアムズとホン・チョウだけが外へ出ていく。ふたりの視点ショットと思われる仰角による電線や木の葉のショットは世界に向けてフレームが解放されたことの証としてある。


2.ファースト・カウ(ケリー・ライカート)

 ミルク泥棒が発覚する場面のサスペンスの素晴らしさ。木の上から見張るオリオン・リーの後頭部を前景に、中景に雌牛とジョン・マガロ、後景に仲買人宅の窓から見えるフレーム内フレームの小さな蝋燭の灯。スタンダードサイズの内にこれらを収め、家の中とカットバックしながら灯の移動を見守る時間。リーにしてもマガロにしても、落ちることが文字通り致命的なのだけれど、冒頭と結末は落下直後の姿勢に似て、しかし非なる横たわる姿勢。ラストでオリオン・リーが枕代わりにする売上金が詰まった袋は、隠し場所の木の穴に引っ掛かり見事なサスペンス=宙吊りをみせてくれたものだが、終盤のスローな逃避行でもその袋はリーの手から宙吊りになっている。その袋がマガロとともに横たわるために使われること。落ちることではなく、降ろすこと。その感動。

3.アステロイド・シティ(ウェス・アンダーソン)

 これまでの冒険活劇と異なり一つの町に留まり続ける人物たち。昼の光、夕闇の光、夜の焚火、UFOの光と風景の色を変える光量の変遷が繊細で素晴らしいし、その中で変わりゆく人々の関係の描き方も涙が出るほど繊細。ジェイソン・シュワルツマンの外部を志向する運動が超良い。核実験の衝撃にダイナーの窓から顔を出したり、窓ガラスを殴って割ったり、劇場の外の非常階段でマーゴット・ロビー(『バービー』より断然こっち!)と会話したり、ラストは町から立ち去ったりと劇中/劇外を問わず外側へ向かう動線のシュワルツマン。それだけに窓辺に留まりつづけるスカーレット・ヨハンソンとの場面とラストの住所に思いを馳せる。

4.EO イーオー(イエジー・スコリモフスキ)

 鉄屑を掴むクレーン視点のカメラ、崩れる棚、倒れる木、夜の森を貫く幾筋もの緑のレーザー、赤く染まったドローン撮影による画面と融通無碍なカメラワーク、二階の窓から翻る絨毯、顔面を蹴る後肢、切り裂かれる喉、ひとりでに開く門、犇く牛、閉じられる門。驢馬の視点など早々に逸脱し、強度のある画面と荒唐無稽な運動だけで繋いでいく。物語ではなく、映像、画面のみが観る者を興奮させる幻灯機的映画。イザベル・ユペールがテーブルの小鉢を滑らせ、皿を床に落とし、カーテンを引きちぎっては投げ、古い鍋を突きつけ、躊躇無く食器をばら撒く。フーリガンたちの刹那的な過激さ=暴力とは違う、念の入った執拗で過剰な運動も良かった。

5.アルマゲドン・タイム ある日々の肖像(ジェームズ・グレイ)

 アンソニー・ホプキンスが語るポグロムの記憶によってドアの向こうを恐れるバンクス・レペタが自らドアの向こうへ去ってゆくラストに感動。手作りロケット打ち上げの呆気ない成功(あの垂直運動!)と苦過ぎる逃避行の失敗の狭間を歩むようなレペタの背中には『大人は判ってくれない』よりも『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』を連想する。

6.左手に気をつけろ(井口奈己)

 落とすことと拾うこと、自動販売機は落下と上昇のセット、占い師と対面する名古屋愛を引きの画で捉えた時に窓のすぐ外を電車が走り抜ける、画面中央の少し上に位置する一本の木、画面の大半を占める広場だけでなく画面上部の道路からも殺到してくるこども、こども警察が三叉路から一本の道に合流するときの警察とは名ばかりのほとんど暴動のような圧倒的な運動の流れ、二人同時に傾斜を転がるこどもは『カリフォルニア・ドールズ』の回転エビ固めを連想、投げ縄で縛られた作業着の南山真之がまるで人形を扱うかのように画面外に暴力的な速度で連れ出されるあの瞬間!そして衒いなきゴダール!海辺に倒れる名古屋愛のロングショットも良かった。

7.カード・カウンター(ポール・シュレイダー)

 フォード『捜索者』的な開いたままの扉によるフレーム内フレーム。旅の同行者であるタイ・シェリダンが同時に帰還させるべき者であるのが『捜索者』の翻案として興味深い。扉から画面外へ去る動線はウィレム・デフォーの邸宅内でも反復される。索敵が完了し、殺害が始まる。サーチ・アンド・デストロイ。ポール・シュレイダーとベトナム戦争なら『タクシー・ドライバー』より『ローリング・サンダー』を思い出せ。

8.バーナデット ママは行方不明(リチャード・リンクレイター)

 「懺悔室」への侵入/脱出が映画の構造をさらりと語る。ガラスを割る、という小さなアクションの良さ。父と娘による捜索者コンビは『パリ、テキサス』を彷彿とさせるが、ケイト・ブランシェットの居場所を確信するきっかけがロード・ムーヴィー的な移動の時間ではなく雨漏り対策のために床に置かれた何の変哲もないバケツなのが素晴らしい。冒頭にも現れていたバケツが、単なるバケツのまま、その人の存在の徴となる。映画とは、そのような荒唐無稽を引き起こす。


9.エターナル・ドーター(ジョアンナ・ホッグ)

 ヒッチコック『レベッカ』を彷彿とさせる濃霧と自動車の冒頭(あちらは雨だが)が結末の炎を期待させるが、スペクタクルを放棄した簡潔なアクション、編集、ショットによる火と女の消滅に脱帽! その予感をサスペンスとして着実に積み上げるHelle le Fevreによる編集も素晴らしい。それはジョセフ・マイデルとの抱擁がちゃんと構図=逆構図で撮られてることの安心感にも作用する。クライマックスの切れ味を思えばその後の場面は弛緩しているともいえるが、それまでの緊張を思えばむしろこの弛緩がありがたい。狭い通路を捉えたエド・ラザフォードによる縦構図のショットも絶品。

10.グランツーリスモ(ニール・ブロムカンプ)

 ヘリコプター搭乗による見下ろすことを拒否しながら渋々受け入れてしまったデヴィッド・ハーパーが、表彰台のアーチー・マデクウェから見下ろされ、マデクウェを見上げる場面は感動的だが、視線の高低差の反転より運転席と助手席の水平的な入れ替わりに心を打たれた。最高速度のレースより、タイヤがコースを踏み締めているのを確かめるようにゆっくり車を走らせる場面の良さ。フークア『イコライザー THE FINAL』やアルジェント『ダークグラス:とセットでペキンパー『キラー・エリート』の流れを汲むリハビリ映画として観た。

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