塔2018年4月号感想①

 塔に入会してはやいもので一年が過ぎました。
 実をいうと仕事にかまけて結社誌の歌をすべて読むことができないようなときもあり、また読むにしても漫然と字面を追っているだけになってしまっていたりと、これではいかんと反省しきりで、なにかしら対策しなければならないというところで、とりあえず誌面で気になった歌だけでも書き留めていこうと思い立ちました。
 毎月となると難しいかもしれないので、まずは隔月ぐらいで試みてみようと思います。

逆光に耳ばかりふたつ燃えてゐる寡黙のひとりをひそかに憎む/河野裕子

 今年から表紙裏に「河野裕子の一首」というコーナーがはじまりました。恥ずかしながら河野氏の歌をあまり知らないので、その短歌と評を読ませていただくのを毎月の楽しみにしています。掲出歌、両耳が燃えているというリアリズムを超えた描写が「ひそかに憎む」という感情を歌に鮮烈に呼び起こします。澤村さんの評の「ヒ音」の段と「武市さん」という作者の人生に関わる人物への読みがおもしろい。

★月集より 選は栗木京子さん

正月が明けてつめたい甃のうへ黒猫よおまへも生きてをつたか/真中朋久

 今年度からNHK短歌で選者をつとめる真中さんの一首。「甃」は音読みすれば「シュウ」となって三句目は五音に収まるのだけど、個人的にはやはり訓で「いしだたみ」と読みたくなります。韻律としては57897という変則的のリズムになるけれど、それが(一般的には縁起の悪いはずの)黒猫へ、まるで悪友に呼びかけるみたいに互いの生を喜ぶような声がけに、繊細で豪胆な、不思議なねばりのリズムで説得力を付加しているようにも感じます。

わおおーん忘れてたのにわおおーん思いだすやろアホわおおーん/山下洋

豪快な手法に思わず笑ってしまいました。ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう(岡野弘彦)を意識した歌かと思います。犬の遠吠えと、自身の泣き声を合わせたような「わおおーん」のリフレインに、関西弁が悲哀を際立たせます。岡野の歌が恋の歌であるように、この歌も悲恋の歌であると取りました。

白球を捕えんとして右翼手は落下点へと吸い寄せられつ/松村正直
どこへでも好きな階へと連れてゆくエレベーターガールのおそろしきかな/同

どちらも因果の歪みをついて違和感を生みだす作品のように思います。右翼手の「捕えん」という意志を示しつつも、「吸い寄せられ」と描写することで倒錯が生まれます。逆にだれかの意志によって移動を行うはずのエレベーターガールに、そこに介在する意識を強調することによってエレベーターガール自身がその行為を引き起こすことへの認識の変換、しかもそれを「おそろしきかな」とすることの捩れの演出がおもしろい歌です。

祈りたるひとの向かうに海があり海なることをいまだやめずに/梶原さい子

東日本大震災を念頭に置いた一首と読みました。祈りの尊さと、海への畏怖がカメラによって言外に示されているように感じます。その文体のカメラロールに迫力を感じます。

闇に降る雪が白いのはなぜだらう 灯りを消して眠る集落/久岡貴子

ただただ美しい情景。結句の「集落」と広く視点を持つことで、どこか超越的な俯瞰の視線へと読者を誘導します。そのときに幻視される雪の降る冬の、灯火の消えてゆく集落という物悲しいイメージが余韻を感じさせてくれます。

★八角堂便りは江戸雪氏の執筆。前登志夫について触れられています。前登志夫は、読みたいと思いつつまだ手を出せていないなあ……。「中之島歌会」という結社・非結社を問わない歌会の、ネットで活動する歌人との「読みの違い」についても話題にあげている。わたしも塔に所属していますが、ネット短歌出身で歌会未経験者なので、いわゆる「結社的な読み」ではない読みを(この記事も含めて)しているという自覚はあります。このあたりは、まあ、意見を書こうとすると長くなるので割愛しますが、常から漠然と考えていることだったりもします。

★濵松さんの短歌時評は、ツイッターでも話題にあがる山田航氏が文語旧仮名を「言葉のコスプレ」=リアリズムの喪失と見なした話題について。『そもそも、短歌は、文学は、「現実を叙述する」ことが目的なのだろうか。』という濵松さんの問いかけに個人的には着目します。文語も旧仮名も使うわたしにとっては今後も考えていきたい話題。

★作品1欄 真中朋久さん選歌欄より

梅を詠む歌に出会へば思ひだしまた忘れゆく床下の酒/広瀬明子

ちょっと大喜利調で、結句の「床下の酒」がいわゆるオチとなるのですが、そこにとぼけた味わいを感じる歌です。そうしてより深く漬かってゆく梅酒がまたおいしくなるであろうところがほのぼのとします。

嘘を嘘とつらぬくさみしさサクサクとポッキーかじる五歳は知らず/大河原陽子

「嘘を嘘とつらぬく」というのは、ほとんどの人が経験するものだと思います。それをさみしさとだけ表現するのが真に迫ります。そしてサ行の頭韻をとって「サクサク」から五歳の子へと視線を移動してゆくのが技巧。ただ、やがてこの五歳の子もこのさみしさに行きつくであろうことへの予感も思わせて、サクサクという軽やかなオノマトペすらさみしさへと回帰するようです。

凍りつくフロントガラスに湯をかけて命ふたつを乗せて出かける/歌川功

命ふたつ、というのがおもしろい表現。冬の日の凍りついた車のガラスの視界を確保するためにお湯をかけたのでしょう。フロントガラスに湯をかけることが、文法的ではないところで「命ふたつ」の温度をあげていくような錯覚を与えてくれます。

明日は来るまだ体力のある筈と捨て難きかな運転免許/上大迫チエ

高齢者の免許返上というのが社会的な問題として俎上にあげられるようになってきたけれど、実際問題として、車なしでは生活の立ちゆかない地域もあることでしょう。また、本人としては、その決断をすることには多少なりとも抵抗があるのかもしれません。個人の実感から来る社会詠としての重さを感じます。

鏡なすわが見る鏡鏡なれ皺を映すに容赦のあらず/斉藤雅也

鏡の連呼がおもしろい一首。そこまで「鏡」であることをこだわりながら、皺を映されることへの無念が見て取れます。にぎやかな上の句によって、「容赦のあらず」と淡々と述べる下の句の静けさが際立ちます。

原発の隣りの町の水車小屋かそけく今日もそばの実を挽く/新谷洋子

原発と水車小屋の取り合わせに力を感じます。それだけを見ると、原風景のように、どこかほのぼのとしているはずのシーンを、初句にある「原発」のひとことが影をつくる。しかしそれに触れることなく、ただ叙景に徹しているところが魅力かとも思います。

入口は出口となりてぞろぞろとゾンビ映画の観客の出づ/千名民時

その映画館、もしくはその上映部屋は、入口と出口が同じところのタイプなのでしょう。しかしぞろぞろと出てくる観客そのものがゾンビになったかのような錯覚を与える文体で、その幻視のおもしろい歌。

良く似たる顔を寄せ合い今撮ったばかりの写真姉妹はのぞく/杜野泉

「良く」の漢字表記はちょっと気になりますが、それはさておき、似た顔の姉妹の写真を似た顔の姉妹がのぞく、という構造。一般的には微笑ましいような場面でありながら、「そこに同じ顔が4つある」というシーンが、どこか奇妙な現実感のなさとなって、シュルレアリズムのような景を思い起こさせるようです。

★とりあえずはここまで。続きはまた。

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