思うこと(I)

いきなりだけど、昔から思うことがある。
『怒る』と『叱る』は違う、と。

『叱る』は、一呼吸してでも怒りと言う感情を丹田に置いて
相手の間違っている事を冷静に伝えること。

『怒る』は、相手の間違いを指摘を
怒りと言う感情を抑えずにぶつけている状態。
「自分が悪いのは分かってるけど、あの言い方はなぁ…。」
って、敬遠されるタイプ。

『怒り』と『叱り』が半々のタイプも稀にいる。
ちょくちょく聞くであろう
「昔はよく怒られた。けどそれがいい経験・学びになった」
って話の元になる人だったりする。
初めはバンッて言うけど、少し冷静になって
「何故ダメなのか」をちゃんと言ってくれる人。

ただ、「間違いを正すのにハッキリ言うには怒鳴ればいい」
みたいに間違った解釈をしてしまっている人もいるんだよね。
そうすると『叱る』が入ってなくて『怒り』が前に来るから
受け取る方は「恐い」って感じるんよね。

タイプは色々あれど「怒りが前に出すぎてる人」が 
「老害」って言われる人たちなんじゃなかろうか。

そんなタイプの人たちが
「○○世代は」とか
「今の若者は」とか
すぐに言って対応を考えなかったりするんじゃなかろうか。

『叱る』をする人はね、たとえそう思っても
言わないし、対応を考えてたりする。

1人で抱え込んじゃう人ほど
『怒る』タイプの人に敏感で、そこで潰れてしまう。

ただし『怒る人に敏感で潰れやすい人』が
急激に増えたのかと言われればNOだ。

『老害』と言われる人たちも『繊細』な人たちも
昔から一定数いた。
現在ではSNSがあって、そこに
愚痴・辛さ・苦しさを書き込めるようになって
それを目にする機会が急激に増えたから
「目に見えるようになった」
「可視化されている」
それだけだ。

「可視化された情報」を元に
気を遣いすぎた言葉を発している人も多くいる。
むしろ、そっちが増えたんじゃないだろうかとさえ思う。

自分たちは昔「今どきの若者は」と言われたことは
一度もなかったのか?
その当時「若者の1人」として見られて
「自分自身」の能力は見てもらえていたと言える?
じゃあ自分は目の前にいる若者に対して
「若者の1人」として見ていて
「その人自身の能力・得意不得意」を
ちゃんと見れていると言い切れる?
「若者の1人」として見るという事は
一部分を全てとして捉えてるって事にはならない?

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