自分ひとりの小さな部屋で、自分が作り出したものにニヤニヤすること

三十路を過ぎてようやく自分に許可できたことのひとつに、「うぬぼれること」がある。本当につい最近まで自分でも気づいていなかったのだけど、元来わたしは、少しうぬぼれやなのかもしれない。けれどうぬぼれた分だけ、それを否定する思考回路もしっかり持ち合わせていて、差し引きマイナスというか、十代後半から二十代にかけて「わたしは自信がない」にすっかり腰を据えていた。「わたしは自信がない」という態度でいるほうが、余分に傷つかないと、ほとんど無意識のうちに長いこと思い込んでいた。

この大SNS時代、誰も彼も発信者になることができ、息するようにそれを受け取っている時代に、うぬぼれるってそう簡単なことではない。わたしは料理が好きだし、それなりに得意なほうだとも思っているけれど、「それなりに」であることを知っている。SNSを開けば、目も眩むような才能がゴロゴロしている。あらゆるジャンルで、たとえ一般人であろうとプロと見間違うようなクオリティを叩き出しているのを、当たり前に目にする。上には上がいると、瞬時に理解できる。井の中の蛙でいることが難しい時代だ。

自分の目に触れるSNSやインターネットの世界って、必ずしも“広い”世界でも“正当な”世界でもないとは思うのだけど、いずれにしても自分の一挙手一投足が世界や世間から採点されているような感覚って、もう改めて意識することもないくらい、脊髄まで染みついているのではないだろうか。Facebookも、twitterも、Instagramも、今ではときどき開いて眺める程度で、SNSにどハマりした時期はとうに過ぎ去ったと思っていたけれど……あ、でも、YouTubeは毎日見ている。自分では投稿しなくても、開いた動画の再生回数やチャンネルの登録者数などの数字はなんとなくチェックしているし、コメント欄にもだいたい目を通している。考えてみれば、そうやって日々くり返し目にしているものの仕組みが、自分の思考回路に影響を及ぼさないはずがない。実際に発信しないまでも、すでに自分の内側に、採点者や批評家、いいねをくれる誰かや白けてスルーしていく誰か、下手するとアンチまでを住まわせていて、常にその(架空の)目を通して自分を見ている。それがイコール「自分を客観視できている」ことだと、思い込んでさえいる。無意識のうちにそうしている人、けっこういるんじゃないかなあ、と思う。

「人と比べない」って、言葉で言うほど簡単なことではないけれど、この時代には、単純に自分と誰かを比較することよりよっぽど入り組んだ回路で、自分のことを卑下してしてしまいがちな環境があると思う。

あくまでわたしが直に接する範囲でのざっくりした印象でしかないけれど、今時の若者って言われる中高大生に対して、賢いなぁと感じることが多い。勘違いしないし、うぬぼれない。自分のことがよく見えている……ように見せる作法を身につけている。そう感じてしまうのは、わたしがそうだったからに他ならないけれど。最近になって、でも、うぬぼれるって素敵じゃないかと思い始めている。自分ひとりの小さな部屋で、誰にも見せない秘密のノートに小説を書き溜めたり、誰に聴かせるでもなくギターをかき鳴らしたりして、「わたしって、天才?」「おれって、才能あり余る?」なんて、ひっそりと呟いている若者がいたら、全力で、いいねぇと思う。もしかしたらそれは勘違いかもしれないけれど、勘違いのうちに全ての芽を摘んでしまったら、本物だって育ちはしない。そしてそれは、十代二十代の若者だけに許される特権などではないと、自分に向けて言い聞かせる。いくつになったって、人前で口にするのはちょっと憚られるような大それたことだって、自分の中くらい自由でいい。大事なのは自分がどう思うか。自分がいいと思えばいい、でいい。自分がいいと思ったものには責任を持って、たとえ誰にも見向きされなくても、ひっそりとニヤニヤしながら、いいなぁー……と呟き続ける。広い視野を持つことばかりがもてはやされているけれど、時にはあえて、狭く、視野を絞る。わたしと、わたしの周りの、直に接することができる人たちの世界に目を向ける。たとえば初めて挑戦した料理が、思いのほかおいしくできたとき。あの人にもお裾分けしてみようかなあと、顔を思い浮かべる。あの人ならきっと、喜んでくれるし、さすがなんて言って褒めてくれるかもしれない。顔もわからない誰かの集合体に評価されなくたって、その人ひとりを実際に喜ばすことができたら、それってすごいことじゃあないか。誰に言われるまでもなく、わたし天才だなぁ、わたし最高だなぁ、とおたま片手にニマニマする。そんな小さな部屋のうぬぼれやでいることが、ひいてはこの世界をちょっと優しくする魔法なのかもしれないと、思い始めている。

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