贈り物のうしろを読む

家に戻ると宅配便が届いていた。つい先週東北で出会った方から、ぼく宛にひとつのダンボールが家に届いた。中身は、その人が地元だと言っていた地域の名前が入ったB級グルメと日本酒と。日本酒はすこし小さめの瓶に入った別の銘柄のものが3種類。その人らしいなぁ、と3本の瓶をみて思った。

これはももしかして、人生初のお中元というものかも知れない。と、調べてみると、時期がすこしだけ違った。形式的に時期だけ見れば、残暑お見舞いになるようだった。学がないことを露呈して恥ずかしい限りだが、あえて、改まりたくなるほど嬉しいことだった。だから、今回の贈り物は、ぼくが人生で初めてもらったお中元に、勝手に認定したい。

これまで色々な形で贈り物を頂いてきた。直接ものをもらうとか、相手側からぼくに”贈る”という意識があまりなくても、こちらがプレゼントだと勝手に認定してしまいすれば、それは立派な贈り物だと言える。この数日だけあげても、小さな和紙の便箋、MacBook、お米、深夜1時半のドーナツを頂いた。勝手に意識した贈り物も含めると膨大な数のものを頂いた。

物質的なもの以外になにがあるか考えてみた時に、一番に思い浮かんだのは「親切心」になる。先週までは東北を回っていたが、その際は数え切れないほどの親切心に支えられていたように思える。現地で出会った人や、呑気に旅をできるという状況や。意識的になればなるほど、感謝をしたい相手の顔がどんどんと浮かんでくる。

すこし考えてみると、この「親切心」というのは、物質として顔を現すことが多々ある。そして、物質の裏側のそれを読み解いていく行為はとても楽しい。例えば、つい先日、たくさんの方から名刺をいただく機会があった。ぼくの手元に残ったのは、名刺という物質であるが、それは「なにかお役に立てることがあれば連絡をして下さい。」という”親切心”と言い換えることができるような気がする。

この名刺の例のように、色々な物質をカギカッコ付きの台詞に変換していく。すると、今回の東北から届いた荷物を変換すると、「東北は良いところですよ。まだまだたくさん訪れてほしい所があります。私の住んでいる地域にはこんな美味しいものがあって、ぜひ食べてほしいんです。またいらして下さい・・・・(続く)」 となる、かも知れない。これはどこまで妄想を広げられるかにかかっている。

贈り物には、2者間の記憶が宿る。実際のやりとりを想起させる力がある。もし、別々のひとから同じものを貰ったとしても、その人達との時間の過ごし方の違いから、同じ贈り物でも想起される思いが違う。贈り物は、思いを伝える装置であり、同時に2者間の関係性をあきらかにする装置でもあるような気がする。例え、それが片方からの一方的な解釈だとしても。

いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。