見出し画像

この、使い捨てできない体

起きていると、あっという間に時が過ぎる。大抵なことは、出して閉まっての繰り返しに感じられる。食べ物を体の中に入れて、出して。空気を吸って、吐いて。食器を出して、洗って、乾かして、片付けて。服を着て、脱いで、洗って、干して、畳んで、また広げて着る。繰り返すから、何度も、使える。使い捨ての箸を洗って、また使うことなんて、ほとんど無い。使い捨ては洗う必要がなくて楽だけど、一度使ったらポイだ。だから、体は使い捨てできない。

この頃、体があることが、とても苦しい。ないなんてことは想像できない。それは感覚を遮断することか。痛みを乗り越えることか。冷たい空気が、建物の隙間から侵入して来る。その圧が、頭の奥、耳の奥で、ぴりぴりと精神を逆撫でる。部屋の煩雑さに、全てを捨ててしまいたくなる。目の前に散らかった様々を見て、何をしなきゃいけないんだろう。今日は何をすることができたんだろう。呆然と立ち尽くす。捨てるにしても、ひとつづつ捨てるしかない。不可能だと思えるその事務処理も、ひとつひとつ行っていけば、いつか、終わりを迎える。

今日はこの体で何を行ったんだろう。とか考える。体を洗いながら、部位に問いかける。肘に、首に、お尻に、わき腹に。腕を通して体に触れる。今日はどこの部位をたくさん使ったんだろうか。小指の出番は、数少ない。床の段差にぶつける時くらいしか、その存在を気に留めない。5本指ソックスで、ひとつひとつの指を布で包むことで、その時間だけは小指のことを考えている。背中をまじまじと見たことはないし、真正面から顔を見たこともない。

けれど、今日もこの体で汗をかいた。恥をかいた。自分の無恥厚顔さにあぐらをかいた。ベソをかいた。手紙を書いた。ますを掻いた。この使い捨てできない体。脱ぐことのできない体。貸し出すことのできない体。少しだけ取り替えるなんてこともできない体。死ぬまでずっと一緒、もしかしたら死んだ後も一緒かもしれない、この体。体は不自由なんだろうか。

旅先には、いつも体を持って行く。持ち物リストには、着替え、化粧品、常備薬、充電器、紙とペンなどが書かれえているけど、体について言及されることはない。なぜなら、体を持ってき忘れることはないから。時々、体は持ってきたのに、意識はどこか遠く、明確な座標を持たずに漂っていることがある。何かが行方不明だ。かといって、何が行方不明なのか言語化することはできない。交番に届いていたら、どれだけ楽だろう。

画像1


いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。