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ぼくの旅先はだれかの地元で。

本日は結果的に野宿ということになった。鳴門海峡の近くで、1日ぶりの野宿。五つ星のホテルではないが、満天の星空の下。なんと贅沢な境遇だろうか。好きなだけ身体を動かせる。雨が降らなければ屋根の必要ない。思考はいつだって自由だ。

家賃というものがある。はて。土地とはそもそも誰のものなのだろう。家の役割とは。社会性とは。その日、その日の泊まるところが、サイコロのように変わる生活をしていると、新しい疑問が生じる。じぶんの抱いているその常識は、どの時代の、どの地域の、どの集団のものなのか。

遡ること70時間前、深夜一時に荷物をまとめて、湘南の家を出た。ヒッチハイクで徳島までやってきたわけだが、一応の目的の徳島阿波踊りを終えたいま、目的の場所はない。行き先がなければ、帰り道もない。普段の生活では、どこかに出かければ元いたところに戻るわけだが、今は帰る場所がない。

旅の効用の1つにあるのは、これだ。帰り道を失うことによって、どこまででも進める。普段の生活の中での帰り道分、前に進むことが出来る。まあ、目的地がないので前も後ろも消失したわけだが。それにしてもこれは発見だ。

はてさて。これはもはや旅なのか。どうなのか。観光なんて今はもうする気がない。出来れば現地の美味いものが食べたいが、その気持ちも薄い。普段、自分がいるところだって、考えてみれば知らないことばかりで。言ったことのないお店、見たことのない景色。未知の隣人に、無限の機会。

普段の生活の中で、どれほど目を瞑って生きているのか。無自覚にその土地で息をして、無為に時間を過ごしてしまっているのか。旅先で見る景色と、地元で見る色、人、事、食。本質的に大それた違いなんてあるのか。

ぼくの旅先は誰かの地元で。ぼくの地元は誰かの旅先になりえる。こんな風に目を見開いて歩くあの並木道は、誰かのいつかの通学路で、甘酸っぱい思い出があるのかもしれない。そんな風に思いを馳せれば、どんな些細な路地だって、誰もが羨む名スポットになる。

ならもう、旅を目的に、遠くに行く必要はないんじゃないか。自分のいる町の、入ったことのない路地を進んでいけば。電車に乗っていつもは通り過ぎる駅で途中下車すれば。久しぶりの友人に連絡を取ってみたりしさえすれば、それは、旅なのではないか。

旅とは、目的地ではない。旅とは途上にあるものだ。ハワイに行こう思ったその時に、まだ地理的にハワイに足を踏み入れなくとも、思いを馳せたその瞬間にハワイへの旅は始まっている。こんな思いをつらつらと。面白がってくれる人がいるのなら。ぼくはまた、旅に出ようと思う。

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