病院の日

病院の日は憂鬱だ。
朝早く起きねばならない。
私は大抵起きられないからオールで乗り切るかギリギリになって起こしてもらうかになる。

今朝はオールだった。
朝食をとりにリビングへ向かうと、慌ただしく出ていった家族を見送ったあとに5人分の山積みの食器をラヴィットで笑いながら洗う母の姿が見え、それが切なく、どんな映画のワンシーンよりもきれいな情景というのはこういうものかもしれないと思えた。

病院へ行く時はいつも母に連れ立っていってもらう。
家からは遠く、車で40分の道のりを母とふたり過ごさねばならない。
否応なしに己の不甲斐なさを自覚させられるこの時間が嫌いだ。
母に謝らねばならぬことや、伝えたい感謝が頭を駆け巡ってはうまく伝えられないまま奥に沈殿していく。
行く度、私はいち障碍者で周りに支えられて生きていかねばならないのだと思う。
抜け出すことはできないのだと思う。

診察時間より長い待ち時間と、毎度決まった掛け合いで終わる診察を終えると、母は外食か喫茶店へ連れて行ってくれる。
退院したばかりの頃は胃が縮んでいてあまり食べられなかったのだが、最近はむしろ食べすぎるほどによく食べられるようになった。
彼女との距離がまったく分からなくなったのはいつからだろうか。
溝の根幹にあるものにどうしても二人で向き合わねばならなくなるから病院が嫌いだ。
しかしおそらくこの溝は寛解したらなおるものではなく、病気によって露呈しただけでこうなる可能性があったという事実が、それが問題なのだろう。
私はこのことを何度も母に伝えようとしたが、彼女は私の言葉を彼女の中で別のかたちに変換してしまっていて、うまく伝わったことがない。
同じように、彼女の言葉も私はそのままに受け取れていないのだろう。

この先もお互い考えていることを何一つ伝え合うことができないまま、形だけは共同に生活していくに違いない。
しかし、これがいちばん家族らしい形なのかもしれないと、最近は思う。


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