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ヒョロ長モヤシ系おっさんが抱いた“男気”への憧れは、猿山の大将でも、番長でもなく、“大地”だった。

車を走行中、後ろからゴツンとされた。
唐突にゴツンと。
ぶつかったものは、赤くて硬いもの。

キュルキュルキュルキュルキュルぅぅぅ。
車が勢いよくスピンする。

その様相を見るやいなや、

長女の甲高かんだかい笑い声と、
次女の半泣き声が、
不協和音となって部屋中に響き渡った。

“いぇ〜い。あっはハッハッハー”
“んもう!!またやった!!ママ〜ァ”

マリオカート。

ボクがガキの頃から世界中で愛されてきた、知る人ぞ知るロングヒットゲーム。
人気であるがゆえに、新作が出るたびに、
「運で勝敗が決まるゲームシステム」「前作からの進化はコレと言ってない」「正直いってマンネリがある」等々、ネットじょうではイロイロと書かれることも多いけれど、

そう分析する人たちにボクは言いたい。
もっと肩の力をぬけよ、と。

テクニックを駆使して走行し、ランダムに出てくるアイテムでライバル車にダメージを与えて順位を競い合う。前の方を走行していると、やられることも多いけれど、それが悔しくて楽しい。

ただそれだけのシンプルなゲームである。

マリオカートで遊ぶ人間はプリミティブ原始的な衝動に動かされている。その衝動とは「イタズラをしたい」という誰もが多かれ少なかれ持っているものだ。
他人のアイテムを奪い、床にバナナを仕掛け、ブーメランを駆使し、スターを手にした途端とたんにライバル車にわざわざぶつかりへと向かう。
何十年ものあいだ、子どもも大人もそのプリミティブな「イタズラ欲」を合法的に満たすためにマリオカートで遊んできたといっても過言ではない。

結局は運のゲームシステム?はぁ?正直なところマンネリ?はぁ?前作からの進化がない?はぁ?溜息が出てしまう。そんな理由は後付あとづけだ。ここのプレイヤーはみな、速さを一心不乱に求めているだけではない。

「相手にイタズラをしたい。」
その一言に集約されるのだ。


ボクは、ソファーに座り
そんなことを考えながらスクリーンをボケーっと眺めていた。

“約束をやぶるのが、ほんとーにキライ!”

ゲームを続けながらも
姉妹喧嘩はまだ続いている。

どうやら2人の間では、互いの車にはイタズラをしあわないという密約があったようで、それを裏切られたことに、どうしても次女は納得がいかなかったようだ。

“人の嫌がることをしちゃダメでしょ。人の心の痛みが分かる人になりなさいね”

次女の怒りが徐々にヒートアップしてきて、どこでならってきたのか大人びたことを言い出した。小学校1年生の道徳で教わってきたのだろうか。それとも担任の先生が喧嘩をした児童にいつもそう言い聞かせているのだろうか。

なるほどね…。

……これに関してはパパの意見とはちょっと違うのだけれども、今はそれでいっか。

もう少し成長したらね。
その解釈は違うのだよ、と子どもたちには教えてあげようか。

野球界にはびこるイジメ問題

楽天イーグルスの比較的若手の御年おんとし27歳の投手が、後輩にパワハラをしたとのことで連日ニュースになっている。

比較的若手氏が事実と認めた行為だけをみても、自他ともに卑猥ひわいなオトコと認めるボクでさえも、ここに列挙するのを躊躇ちゅうちょしてしまうほどにひどい内容であった。

比較的若手氏にとっては、
狭い世界における猿山さるやまの大将気取りで「じゃれ合い」みたいなつもりだったのだろうけれど、令和の時代にこれが見逃されるはずもない。

ある意味「昭和の野球選手」の生き残り、というロマンチシズムを体現した選手だったのかもしれない。

昔、「番長」とか「男気」みたいな愛称で呼ばれ「男らしさの象徴」的な役割を担っていた選手がいたが、逮捕される前から、ボクはなぜ彼が神格化されているのか謎でしかなかった。

次から次へと女性と浮き名を流し、夜のお店でちょっと暴れたりしても、「豪快」と苦笑とともに、なんとなく許されてしまう。
ヤクザのような格好や、威圧的、恫喝的な態度、仲間へのイジメのような「からかい」でさえも「男らしい」と許容されていた。

これが世間の大勢のオトコが憧れる
「男らしさなのか」

理解できない。

ボクは、そんなムキムキオラオラ系の「男らしさ」とは極北のヒョロ長のモヤシ系であるから、もしかすると許容できなかっただけかもしれない。

仮にもし「フン」と言って、
ムキムキが力任せにブン殴ってこようものならば、顎の骨が折れ、4mは軽く吹っ飛ぶくらいに歴然とした力の差がある。

確実に負ける。
モヤシの頭はヘシ曲がる。グニュっと。

負ければ悔しい。
でもだからといって、ボクの目指す「男気」は、そっちへとは向かわない。

同じプロ野球選手でいうならば、
藤浪投手の剛速球を、ピッチャーの命ともいえる肩にまともにくらったにもかかわらず、
即座に藤浪投手に向けて“大丈夫”のサインを笑顔で送った大瀬良“大地”投手の姿に“男気”を感じた。

プロ野球では、当てられるとブチギレしたり、威嚇したり、不貞腐ふてくされた態度をとったりする選手が多い中で、稀に見る器の大きさだと思ったし、ボクの価値観では、これこそがホンモノのおとこだと思った。

いじめる人は、いじめられる人の心の痛みが分からないのか。

いや、わかっている。

人を傷つけるのは人の痛みに対する想像力が欠けているからじゃない。確かに痛みを本人と同じように深く感じることは難しい。
しかし、人の痛みの表面を想像することは容易にできる。

これをされると嫌だろう。
これを言われるとムカつくだろう。
分かっている。
優しい人以上に、わかっている。

だからこそ他者を痛めつける。傷つける。マリオカートでイタズラをするように。
こうしたら人は嫌がる、悲しむ、ムカつく。人の痛みを、ムカつきを、その表面を想像できるからこそ、
ライバルを、嫌いな奴を、ムカつく奴を、
怖がらせたい、痛みを与えたい。

そう。
つまりそれは、

ある種の人間にとって「娯楽」なのだ。楽しいのだ。だから、イジメは簡単にはなくならない。


ボクは30歳を境にして、
ここでも何度か書いてきたように争いごとから一線を画してきた。ネットでも、リアルでも主張が食い違って口論になろうものなら、ごめんなさいで済むものは容赦なく“ごめんなさい”をぶっ放すし、喧嘩になってまで自分の信じる正しさを知らしめようとは思わない。

人の心の痛みを想像できているからか?
おまえは聖人なのか? 

と聞かれると、
いやぜんぜんちゃう。と即答する。

面倒くさいというのはある。 

でもそれ以上に
人にいじわるを言っているとき、怒っているとき。その人の顔をじっと見たことがある。
すると普段は美女なのに、イケメンなのに、それはこの上なく醜い顔をしていた。

ボクの場合だともっとキツいであろう。
ただでさえ醜い顔が、
もっと醜くなっているに違いない。
これはだめだ。争いごとから一線を画そう、そう決意したのだ。

だ、か、ら、
他者を痛めつける、傷つける人は
痛めつけている最中の自分の顔の醜さに、想像力を向けるといい、

と、ボクは思う。

そこには自分の知っているキメ顔写真の顔とは違う、自分の知らない見たこともない醜い顔があるから。

気づけば、ゲームはスプラトゥーンに変わっていた

壁に、床に、柱に粘性液体を塗りつける。
人体にびゃー!、顔面へびゃー!、“粘性液体”を発射する。

そう。
スプラトゥーンで遊ぶ人間はプリミティブ原始的な衝動に動かされている。
その衝動とは「粘性液体を何かにびゃー!したい」という誰もが多かれ少なかれ持っているものだ。

泥やスライム、
そしてその他“もろもろの粘性”の液体。

ゲームでもリアルでも
子どもたちはプリミティブ原始的な衝動の「粘性液体びゃー」を体現しているのだ。

でもリアルでそれができるのは20代まで。
アラフォーになったボクが粘性液体を人体にびゃー、顔面にびゃー!したいか。
ま、したくなくはないが、したらきっと怒られる。

だれに?という質問はおいといて。

だが、スプラならそういった粘性液体をぶっかけたい妄想を合法的に叶えられる。
そう、だからやろうか。
あの忘れかけていた感覚を。

って、え!?

な、なんの話?

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