「なぜ仮想化すればなんでもコンテンツになるのか?」仮想の通貨・仕事・○○
レゴで作られた仮想の建物をレゴランドで見て、その後キッザニアに行った。子供向けに作られた仮想の仕事を熱心にする子供たちを見て胸が熱くなる。子供たちは仕事の報酬に仮想のお金をもらい、キッザニア内の三井住友銀行に預けていた。
神様を仮想すると、大人の仕事もこんな風に見えているのかなと思った。ちなみにキッザニア発祥の地であるメキシコの子供たちは、仮想のお金はすぐ使ってしまうらしい。日本の子供は貯金する。私はよくお年玉を1日で使っていたけど。
しかしものすごいタイアップでコンテンツマーケティングだ。誰がこれ作ったんだと調べると、興味深い記事「キッザニアの「父」を支えた影の立役者たち 団塊の世代が産んだ子供の楽園」を見つけた。
「キッザニアはビジネスモデルがとても優れている。(中略)キッザニアの施設内では様々な企業のビジネスを模したパビリオンが運営されているが、その運営費用は企業が負担している。パビリオンで子供が体験するアクティビティーも、企業の業務プロセスを模したものだ。スポンサー企業がカネもノウハウも出してくれるので、キッザニアの運営会社のリスクは比較的小さい」
スポンサー自身の仕事を仮想化することで、コンテンツに転化している。よく映画コンテンツのパロディを広告の仕事で作ってたけど、仮想って面白いなとあらためて思った。しかしなぜパロディに限らず仮想化するとなんでもコンテンツになるのか?
仮想づくしの1日で、禅寺の枯山水を思い出した。あれだって世界を仮想化して表現しているなと思って調べたら、元々枯山水は「仮山水」とも呼び、砂を山と水に見立てますよ、と宣言しているまさしく仮想がテーマの作品だった。
松岡正剛の千夜千冊861夜『枯山水』で紹介されている仮山水が生まれた瞬間の話が面白い。西暦1477年、鉄船禅師はこう述べる。
われわれのような貧しい者は資金がないから庭園を造れないとあきらめることはない。かくいう自分は以前から作庭がとても好きだったが、むろん大樹も巨石も集められないから、このたびは工夫して一石一木をよく選び、これらで小さな石を組み、ここに仮の山水ともいうべき小さな庭を完成させた。
こうして完成させてみると、このような小庭においても五岳を感じることはできるし、大海を遠望する気分になれるものである。それゆえ得心のいく庭を作るには、必ずしも富者豪族ではなくとも、自分のような貧しい者がそれをつくる可能性は十分にあったのである」
水がないけど庭をつくるニュアンスが強い「枯山水」に対して、世間を仮想として見る禅の思想性が「仮山水」にはハッキリでている。そしてこの文章に、なぜ仮想化するとコンテンツになるのか?というヒントがあると思う。
物質の視点でみると大きなギャップがあるものが、精神の視点から見るとフラットである。ここになんらかの安らぎの力があり、それが仮想化するとコンテンツになる要因になっているのではないか。
盆栽だってミニチュアの大木だし、茶室だって仮想の空間だ。物事を仮想として見る姿勢というのは日本文化に根強くあるのかもしれない。仮想通貨やVRをはじめ、どんどん仮想化されていく未来において、仮想に見立てる視点に注目したい。
2017年のベスト本に選ぶ人も多かっった「サピエンス全史」は、貨幣も宗教も全部仮想であり、それが人間の強みであり不幸でもあるという話で、とても面白い。
キッザニアもいいけど、人類の歴史を仮想空間に見立てて体験できるレジャーランドがあってもいいかもと思った。
ちなみに昔、冒頭のビルと金閣寺をレゴで作ったら似ているという発見をしたことがあった。余談だけど。
それにしてもこれよく出来てるな。
なぜ禅寺は枯山水を作り続けるか?という話はマニアックなので興味ある方のみに。
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