全力でムダなことをするのがコンテンツになる理由。東京藝大卒展にて。

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金剛力士のオフの日


毎年楽しみにしている東京藝大卒展。今年も面白く、さまざまなムダなモノを楽しんだ。藝大に限らず様々な美大の卒展に行くけど、すばらしいのは、展示されているのがすべてムダなモノだということ。ムダだから心を打つ。

なぜムダが心を打つのか?

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フェミニストの剣


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山科ティナさんももう卒業。漫画ブース盛況だった。


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で、なぜムダが心を打つのか?

この自転車を漕ぐ人が典型だけど、漕ぐ意味がないけど漕ぐことがアートになっている。

全力でムダなことをするには、これをしたほうがいいという「内面的な確信」が必要だ。外面的にはムダなのだから、自分の心の中でこれをしなくてはいけないと信じないといけない。この確信が大切だ。

多くの人が中腰の呪いにかかっている。結果がでるなら全力を出し、結果がでないなら力をいれたくない。そして結果なんて結局わからないから、中腰になって力をいれていいのかずっと迷ってしまう中腰の呪い。

そんなみんなが中腰のなか、一人が腰をあげて、全力で何かに打ち込んでいる。そしてその結果は外面的にはムダに見えるが、その人には迷いがない。中腰の人から見れば、彼は自信に溢れたヒーローに見える。

迷ってしまうのは、外面的な結果は永遠に安定しないからだ。反対に内面的なものは、一度確信してしまえば迷いがなくなる。夏目漱石の「私の個人主義」でいえば、自分の鉱脈をツルハシで掘り当てた人のことだ。

在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。
もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。
私のようなつまらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それはあなたがたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです。私自身はそれで満足するつもりであります。

この道は自分がはじめて切り開く道だと確信したとき、人は中腰をやめて強くなる。逆にいえば他人が決めた道を歩いている以上、人は中腰になる。

実際にそんな道は中々みつからないけど、その姿勢だけは練習することができる。全力でムダなことをすること。結果を考えずに集中すること。

「それになんの意味があるんですか」

と聞いてくる人には教える意味がない。逆説的にいえば、その人がまだ意味がわからないことしか、教える意味はない。その人が意味がわかるものは、自習できるからだ。

芸術を学ぶことは、意味を忘れて全力でムダなことをするいい練習になる。

読んでくれてありがとう!